第5話 知らない疲れ
目が覚めた時、足の奥に鈍い重さがあった。
長く歩いた翌日のような感覚だった。ふくらはぎから踵のあたりにかけて、鈍い疲れが沈んでいる。けれど、昨日の自分はほとんど家から出ておらず、退院してからは夕方まで横になっていただけだった。
退院明けだからだろう、と考えれば説明はついた。事故の後なのだから、体が普段通りでないのも当然で、実際それ以外に思い当たる理由もなかった。
時計を確認すると、六時四十分だった。カーテンの端から薄い朝の光が差し込んでいて、体を起こすと、首の後ろから肩にかけて軽い張りがあることにも気づいた。頭はまだぼんやりとしていて、体全体が、自分のものなのに少し遅れて反応しているような感じがした。
制服に着替えて廊下に出ると、下からにおいが漂ってきた。焦げた小麦粉のような、少しだけ焦げを超えた何かのにおいだった。
階段を下りると、台所で陽菜がトーストを皿に乗せているところだった。その表面は、全体的に濃い茶色を通り越して、縁の部分が明らかに黒くなっていた。本人はそれを気にする様子もなく、バターを塗り始めていた。
「おはよう」と歩は言った。「それ、食べられる?」
「食べられるよ。焦げてる部分は削れば問題ない」と陽菜は答えた。「お兄ちゃんの分は削っといてあげる。私のは削らなくても平気だから」
「削ったらトーストじゃなくてただのパンになる」
「パンはパンだからトーストでしょ、焼いたんだから」
歩は何も言わなかった。言うことがなかったというより、言い返せなかった。陽菜の中では、焦げた部分を削ったとしても、最初に焼いた以上、それは最後までトーストであり続けるらしい。
歩は削られた方のトーストを受け取り、椅子に座った。黒くなっていた縁はきれいに削られていたが、そのせいで端の部分だけ妙に白く、そこへ律儀にバターが塗られている。口に入れてみると、中の部分は普通のトーストの味がした。
向かいの席では、陽菜が自分のトーストをそのまま食べていた。焦げた端をかじっても表情ひとつ変えないあたり、本当に問題ないと思っているらしかった。
「顔色はどう」と陽菜が聞いた。「昨日よりいい?」
「そんなに変わらないと思う」
「眠れた?」
「うん」と歩は答えた。実際、眠った感覚はあった。ただ、疲れが取れていないような感じも残っていた。「なんか体が重い気がするけど、退院明けだからかな」
「退院明けに学校行かなくてもいいのに」と陽菜は言い、少し眉をひそめた。「お母さんも無理しなくていいって言ってたじゃん」
「でも授業も進んでるし、プリントを返してもらわないといけないし」
「それは後でよくない?」
「後にしても、量が増えるだけだ」
陽菜は少しの間、トーストを見つめた。それから「お兄ちゃんって変なところで真面目なんだよね」と言った。
「休めるときに休まないから、余計に疲れるんだと思う」
歩はその言葉を否定しなかった。正しいかどうかは分からなかったが、反論も出てこない。牛乳を一杯飲み、鞄を持って玄関へ向かうと、背中に陽菜の声が届いた。
「ちゃんと帰ってきてね」
事故の後から、見送りの言葉が少し変わっていた。以前なら「いってらっしゃい」で済んでいたところに、今は必ず無事に戻ることまで含まれている。
外に出ると、朝の空気は涼しかった。暖かいとも寒いとも言い切れない、四月らしい曖昧な温度の中を歩きながら、歩はまた足の重さを意識した。歩くたびに、ふくらはぎの内側に微かな疲れが沈んでいるのが分かる。
打撲の後遺症かもしれない。
事故の時に足もどこかぶつけたのだろう、と考えれば、それで説明はついた。
通学路を進み、大きな通りの信号を渡ると、いつも通るコンビニの前に出た。朝の光を受けた看板は白く明るく見えたが、歩にとっては通学路の途中にある店の一つでしかない。特に足を止めることもなく、そのまま学校へ向かった。
*
教室に入ると、小森が自分の席から顔を上げた。
「あ、来た」と小森は言った。「退院初日に学校来るやついる? 病院から一時外出してる人みたいになってるけど」
「そんなことはない」と歩は自分の席に座りながら答えた。「もう退院してる」
「知ってる。だから一時外出みたいって言ってるんだよ。顔色が若干、まだ病院の廊下の人間の色してる」
歩は窓の方を見た。病院の廊下の人間の色、というのが具体的にどういう色なのかよく分からなかった。
「プリント、持ってきた」と小森は立ち上がり、机の上から紙の束を取り出した。「見ての通りで字が読めない部分があるかもしれないけど、それは俺の手が途中で人生を諦めたんじゃなくて、先生の板書が速かったから」
「速かったから諦めたんじゃないのか」
「ニュアンスの問題。あと事故って連絡が来た時は、さすがに焦ったよ。真面目に心配するとキャラが迷子になるから、プリントで気持ちを表現することにした」
「プリントで気持ちが表現できるとは思わなかった」
「文化の違いだと思う」と小森は言い、席に戻った。
それで会話は終わった。
けれど、歩には分かっていた。小森は、真正面から「心配した」と言うようなタイプではない。そういう言葉を口にすると、自分の方が照れてしまうから、代わりに冗談を挟む。プリントを取っておいたことも、字が読めないと言い訳することも、たぶん全部、同じところにつながっている。
歩は受け取ったプリントの束を見下ろし、少しだけ息を吐いた。
「ありがと」
小森は振り返らずに、「読めたらな」とだけ返した。
一時間目は数学だった。
黒板の文字は読めている。先生の声も聞こえている。けれど、それを頭の中で式や考え方に変えるまでに、いつもより少し時間がかかった。ノートに写す手も遅く、気づけば前の行を書き終える前に、黒板には次の説明が増えている。
まだ体が普段の状態に戻っていないのだろう。
そう考えれば納得できた。分からなかったところは、あとで小森のプリントと照らし合わせればいい。
三時間目は理科だった。担当の白瀬先生は声が低く、授業の進み方も速い。感情的に盛り上げることはほとんどなく、ひとつの説明が終わると、そこから当然のように次の説明へ進んでいく。
黒板の板書は整然としていた。式も図も、無駄なく並んでいる。ただ、その整い方は、生徒が追いつくのを待つためのものというより、白瀬先生の頭の中にある論理を、そのまま黒板に移しているようにも見えた。
歩は必要なところだけを書き留めながら、何度か瞬きをした。眠気というほどではない。けれど、考えようとすると、頭の奥に薄い靄がかかるような感じがあった。
午前中が終わる頃には、その靄が体の重さにも変わっていた。椅子から立ち上がると、足の奥に朝と同じ鈍い疲れが残っている。
二日間、病院と自室で過ごした後に、いきなり学校へ来たのだ。授業を受けて、階段を上り下りして、教室を移動しただけでも、今の体には十分な負担だったのかもしれない。
そう考えると、少し納得できた。
*
昼休みになると、歩と小森はいつものように廊下の端へ移動し、窓際に並んで弁当を広げた。そこは教室ほど騒がしくなく、窓の外には中庭が見える。風が吹くたびに、木の葉が小さく揺れていた。
「最近、将棋部の雰囲気どうだった」と歩は聞いた。
「どうって、俺がいつも負けるのは変わってない。部長は大会が近いとかで、珍しく張り切ってたけど」と小森は味噌汁を飲みながら言った。「張り切るのは部長で、負けるのは俺。役割分担がきれいすぎる」
「大会か」
「そう。俺はたぶん一回戦で芸術的に散る予定。できれば二回戦までは存在していたいけど」
歩は弁当の蓋を戻しながら、将棋部の様子を頭の中で想像した。自分がいない間に何があったのかは、今日の放課後に行けば分かることだった。
「そういえば」と小森が少し声を落として言った。「篠原さん、歩がいない間、何回かLOINに書いてたな。返信あったか確認したとか」
「知ってる。メッセージ来てたから返した」
「あ、そう」
小森はそう言い、それ以上は続けなかった。特に何かを指摘するわけでも、からかうわけでもなかった。弁当の最後の卵焼きを食べた後、少しだけ斜め上を見てから「まあ、なんか心配されてたっぽいよ」とだけ言った。
歩はそれを聞いて、少し申し訳なく思った。事故に遭ったこと自体は、自分のせいではない。けれど、周囲に心配をかけたのは事実で、その心配を減らすには、いつも通りに学校へ来るのが一番早い気がしていた。だから今日学校に来た、という気持ちも、実際のところあった。
*
放課後、将棋部の部室へ向かった。
扉を開けると、小森が盤の前で椅子に座り直しているところで、部長が顔を上げた。部室の奥では、篠原結衣が駒を並べていた。
歩が入ってきた瞬間、篠原の手がほんの少し止まった。前髪の奥の視線が一度だけ歩の顔へ向き、すぐに盤面へ戻る。けれど、駒を整える指先は先ほどよりゆっくりで、盤面を見ているというより、歩の顔色を見ないようにしているようにも見えた。
「成瀬、来たか」と部長が言った。「顔色悪いな」
「退院明けだから」と歩は答えた。「今日だけ顔出しておこうと思って」
「無理すんなよ」と部長は言い、それきり自分の棋譜に戻った。それくらいの距離感が、この部室では普通だった。
歩は篠原の向かいの席に座った。篠原は盤の上に並んだ駒を少し整えていたが、歩が腰を下ろすと、指先の動きが一度だけ止まった。
「体、大丈夫ですか」
小さな声だった。けれど、部室のざわめきの中でも、歩にはちゃんと聞こえた。
「うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れが残ってる感じはするけど」
篠原はすぐには返事をしなかった。盤面を見ているようで、視線は歩の顔色と、駒を持つ手元のあいだをゆっくり動いている。
「退院してすぐなら、今日は来なくてもよかったと思います」
「気になって」
歩は少しだけ苦笑した。
「いない間のことが」
篠原はそれを聞いて、小さく頷いた。納得したというより、それ以上止める言葉を探せなかった、というような頷きだった。
少し間を置いてから、篠原は盤面に視線を落とした。
「一局、いいですか」
それが、将棋を指したいという意味なのか、歩の様子を確かめたいという意味なのかは分からなかった。けれど、断る理由もなかった。
「いいよ」
歩はそう答え、駒を並べ始めた。篠原の手つきはいつも通り丁寧だったが、歩が駒を持つたびに、その指先へ一度だけ視線を落としているような気がした。
対局が始まると、歩はすぐに、自分の集中力がいつも通りではないことに気づいた。序盤の数手は普段と同じように指せていたが、中盤に入ると、考えが途中で途切れる。一手先は見えているのに、そのさらに先へ進もうとすると、頭の中で盤面が少し霞むような感覚があった。
結局、飛車を一手待たせるべきところで早く動かしてしまい、数手後には篠原の角筋に飛車を捕まえられた。
「すみません」と篠原が小さく言った。
「謝らなくていい。こっちのミスだよ」
篠原は駒を持ったまま、少しだけ動きを止めた。前髪の奥の視線が、盤面から歩の顔へ移る。次の一手を探しているというより、歩が無理をしていないか確かめているように見えた。
何かを言いかけたのか、篠原の唇が小さく動いた。けれど、すぐには言葉にならなかった。駒を置く音だけが、小さく盤の上に残る。
「今日は無理しない方がいいと思います」
指し手の話をしているのか、それとも歩自身のことを言っているのか、どちらにも聞こえた。
「そうかもしれない」と歩は答えた。
そのまま一局は続いたが、中盤でできた差は最後まで埋まらなかった。歩は何度か粘ろうとしたものの、考えを深く沈める前に集中が切れてしまい、結局そのまま押し切られた。
部室の端では、小森が「俺も負けた」と言いながら、一人で棋譜を眺めていた。負けたことより、どこで間違えたのか分からないことの方が問題らしい顔をしている。
篠原は勝っても表情を大きく変えなかった。駒を集める手つきもいつも通り丁寧だったが、その視線は何度か歩の手元に落ちた。指に傷がないか、駒を持つ動きに無理がないかを確かめているような止まり方だった。
「また明日も来ますか」
篠原がそう聞いたのは、駒を箱に戻し終える少し前だった。
「体調次第で」
歩が答えると、篠原は小さく頷いた。安心したようにも、少し残念そうにも見えたが、前髪の奥の表情までは分からなかった。
*
帰り道は、来る時よりも足が重かった。
一日学校にいたのだから当然だ、と歩は思った。退院したばかりで、午前中から授業を受け、放課後には将棋まで指した。体が疲れていない方がおかしい。陽菜が朝に言っていた言葉が、歩くたびに少しずつ思い出された。
コンビニの前を通った時、店内の明かりが夕方の陽光の中でも白く浮いて見えた。ガラス越しにレジカウンターの人影が見えたが、歩にとっては、いつもの通学路にある、いつもの店でしかない。特に足を止めることもなく、家の方へ進んだ。
夕食は母が作ったシチューだった。父が珍しく早く帰ってきていて、食卓には四人分の皿が並んでいた。会話は多くなかったが、静かで穏やかな時間だった。
風呂に入り、歯を磨いて部屋に戻る頃には、体の重さがはっきりしていた。机に向かう気力はなく、小森から渡されたプリントも鞄に入れたままになっている。布団の上に座り、スマートフォンを確認したが、重要な通知はなかった。
画面を閉じると、部屋の静けさが少しだけ深くなった。
「ちゃんと寝てね」という陽菜の朝の声が、ぼんやりと頭の中に浮かんだ。
布団に入ると、足の奥にはまだ鈍い疲れが残っていた。退院したばかりの体で学校に行き、授業を受け、将棋部にも顔を出したのだから、疲れていて当然だ。そう考えれば、理由の分からない重さにも一応の説明はついた。
歩は目を閉じた。
部屋の中が静かになる。
窓の外では、夜の街が少しずつ明かりを増やしていた。
この作品、昨日(土曜日)に買い物に行った帰りに、ふと、突然頭にストーリーや登場人物が浮かび、ノリで筆記している作品だけど・・・大丈夫なのか??? 読者より作者が一番不安に思っている・・・




