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第1章 間話 『立川水晶』


 立川水晶(たちかわみずき)が、まだ交番勤務になって間もない頃の話だ。


 その日、近所からの通報が入った。

「隣の家から、子供の泣き声が、毎晩聞こえる。」

 それだけの、簡単な通報だった。


「行くぞ、立川。」


 先輩の巡査、田辺は、面倒くさそうに欠伸をしながら車を出した。


「泣き声くらいで通報とか、大げさなんだよなぁ、最近の連中は。」

「……そうっすかね。」


 水晶は、助手席で窓の外を見ながら、曖昧に頷いた。


 当時の水晶は、まだ何も知らなかった。  現場の"温度"というものを、まだ肌で理解していなかった。


 訪ねた先は、古い一軒家だった。インターホンを押すと、母親らしき女性が出てきた。


 疲れた顔。

だが、笑顔を作ろうとしていた。


「あの、近所から、お子さんの泣き声について、通報が……。」

「ああ……すみません、うちの子、夜泣きが酷くて。」

「夜泣き、ですか。おいくつですか?」

「六歳です。」

「六歳で、夜泣き……。」

 田辺は、それ以上何も聞かずに、手帳にさらさらとメモを取った。


「まあ、よくあることですよ。お母さんも大変でしょうが、頑張ってください。」

 それだけだった。


 水晶は、玄関の奥に、一瞬だけ見えた小さな影が気になっていた。  柱の陰から、じっとこちらを覗いている子供。


 目が合った瞬間、その子は、慌てて奥へ引っ込んでしまった。


「……先輩、あの子、なんか……。」

「あ?」

「いや……何か、怯えてたような……。」

「そりゃ、警察なんて来たら、子供はびびるだろ。」

 田辺は、あっさりと笑って、車に戻っていった。


 水晶は、玄関先に、もう一度目をやった。

 母親の腕に、うっすらと痣のようなものが見えた気がした。


 でも、確信は持てなかった。

新人の自分が、口を出していいものなのか、分からなかった。

 それに、先輩は「よくあることだ」と言っていた。自分の方が、間違っているのかもしれない。

 そう思って、水晶は、何も言わずに車に乗り込んだ。


……


 それから、三週間後。


 同じ家から、再び通報が入った。

 今度は、水晶ひとりでは対応できない、もっと大きな出来事としてだった。


 あの女性が夫を刺殺し、逮捕された


 女性の夫は、会社で突然解雇されてしまい、毎晩酒に溺れ、妻に暴力を振るった。


 昼に財産を全てギャンブルに賭けられ、借金が増える毎日。女性は暴力に恐怖し、抵抗できなかった。


 しかし、子どもは母親を助けるために父親に震えながら抵抗したらしい。

 ボコボコにされる子どもをみた女性は包丁を取り出し、胸をえぐった。


……


 その後の詳しいことは、水晶のところまでは伝わってこなかった。 ただ、その子供が、その後、学校に来ていないという話だけを、風の噂で聞いた。


 それ以上は、誰も、水晶には教えてくれなかった。


……


 あの日、玄関の奥から覗いていた、あの目。


 助けを求めているようにも、諦めているようにも見えた、あの目。


 水晶は、何度も思い出した。


 ――もし、あのとき。


 もし、あのとき自分が、もっとちゃんと確かめていたら。

 母親の腕の痣について、もう一歩踏み込んで聞いていたら。

 あの子の目を、見て見ぬふりをしなかったら。


 何かが、変わっていたのだろうか。

 答えは、誰にも分からない。

 でも、水晶の中に、その後悔だけは、消えずに残り続けた。


……


 それから、水晶は変わった。

 言葉遣いは、相変わらず荒いままだったが、現場での判断だけは、誰よりも慎重になった。


 「噂だから」「よくあることだから」という言葉で片付けようとする先輩や同僚に対して、露骨に不機嫌な顔をするようになった。

 何度も「お前は警官に向いてない」と叱られた。

 規則より先に、目の前の人間の顔色を見てしまう。

 マニュアル通りに、右から左に流せない。

 それは、水晶にとって、欠点であり、同時に、あの日の後悔から生まれた、譲れない何かでもあった。


……


 だから。

 ミオの父親を前にしたとき。


「噂だけで、七歳のガキが、人殺し扱いされている。」

 その状況が、あの日の光景と、重なって見えた。

 誰も、深く踏み込もうとしない。

 誰も、確かめようとしない。


 ――また、同じことを繰り返すのか。


 水晶の中で、あの日の後悔が、静かに、しかし確実に、燃え上がっていた。


―後に、この男がミオの人生を大きく変える。


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