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第1章 第3話 『逃走』


 夜、家の中は静まり返っていた。


 父はソファで眠っている。空になった酒瓶が、床に転がっていた。

 ミオは腫れた頬を押さえながら、そっと部屋を出た。


 もう、ここにはいられない。


 そう思ったのは、今日が初めてじゃない。  でも、今日は違った。今日は、本当に体が動いた。

 玄関の鍵を開ける手が震える。

振り返ると、父の寝顔が見えた。


 ――お父さん。


 昔は、あんなに優しかったのに。


 アイスを買ってくれた。頭を撫でてくれた。 あの日の笑顔は、もうどこにも残っていない。

 ミオは小さく首を振って、玄関を出た。

 夜風が、頬の痛みを刺すように冷たかった。


……


 町を抜け、山道に入る。

街灯もない、真っ暗な道。 草木が足に絡みつき、何度も転びそうになる。


 それでも、ミオは足を止めなかった。

 止まれば、また戻らなければいけない気がしたから。


 途中、小さな祠のそばで一度足を止めた。  息が切れる。手のひらに、木の枝で切った傷ができていた。


 痛い。


 でも、家にいたときの痛みに比べれば、これくらい何でもなかった。


 ――お姉ちゃん。


 ミオは、暗い空を見上げた。

 星が、いくつか瞬いている。 


 あの夜、姉と見た星と同じだろうか。 それとも、もう何もかもが違ってしまったのだろうか。


 「もし、学校で嫌なことがあったら、ここへ来い。」


 あの約束は、もう誰も守ってはくれない。

 でも、あの森だけは、まだ自分を待ってくれている気がした。


 行こう。

 あの森へ。

 もう一度、あの場所に行きたい。

 それだけが、今のミオを動かす理由だった。


……


 一方、そのころ。

 ミオの家では、父が目を覚ましていた。

 テーブルの上、書き置きも何もない、静かな部屋。


 ミオの靴がない。

 父の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「……ミオ?」

 返事はない。

 何度も名前を呼びながら、家中を探し回る。


 どこにもいない。

 父は、玄関に座り込んだ。

 震える手で、頭を抱える。

「俺は、また……。」

 ヒナが死んだあの日から、父は自分を許せなかった。

 母がいなくなったのも、自分のせいだと思っていた。 ヒナが死んだのも、自分がちゃんとミオを守ってやれなかったせいだと、心のどこかでは分かっていた。


 でも、その罪悪感をどう処理していいか分からず、酒に逃げた。 弱い自分を、拳で誤魔化してきた。

 その結果が、これだった。


 「ミオ……すまない……。」

 誰もいない部屋に、その声は虚しく響いた。


 父は震える手で、警察に電話をかけた。


……


 警察署。

 深夜の呼び出しに、駆けつけたのは、まだ新人の巡査だった。

 名前は、立川水晶たちかわ・みずき。二十四歳。

 配属されてまだ半年。柄も口も悪く、よく上司に叱られている問題児だった。

「またあのガキの家か……。」

 水晶は舌打ちしながら、パトカーに乗り込む。

「立川、言葉遣い。」

 先輩の巡査が、呆れたように言った。


「はいはい。」

「あの子、噂の……お姉さんを殺したっていう。」

「あー、あれね。」

 水晶は窓の外を眺めながら、面倒くさそうに答えた。


「その噂、本当だと思います?」

「さあな。町の連中がそう言ってるだけだ。」

「証拠は。」

「証拠なんてどうでもいいんだよ、こういう田舎じゃ。噂がすべてだ。」

 水晶は、その言葉に舌打ちした。

「くだらねぇ。」

 小さく呟く。

 噂だけで、七歳のガキが「人殺し」呼ばわりされている。  それを、大人が誰も疑おうとしない。


 ――気に食わねぇ。


 水晶は、口には出さなかったが、腹の底でそう思っていた。


 現場に着くと、父親が青白い顔で座り込んでいた。 水晶は、その様子を一目見て、何かおかしいと感じた。

 娘がいなくなって狼狽しているだけには、見えなかった。

 もっと、深い何かを抱えているような目。

娘よりも自分のことを考えている目だ。


 水晶(みずき)はその態度にイラッとした。


「娘さんが、いなくなった経緯を、詳しく聞かせてもらえますか。」

 水晶は、しゃがみこんで父親と目線を合わせた。


「……分かりません。気づいたら、いなくなっていて……。」

「最近、娘さんと何かあったんじゃないですか。」

 水晶の声に、少し棘が混じる。

 だが、父親は、答えなかった。


「学校でいじめがあったって話も聞いてます。ついでに言うと、あんたが最近、娘に手を上げてるって噂も。」

「……誰がそんな……。」

「近所の人間から聞きました。この町、狭いんでね。」

 水晶は、父親をまっすぐ見据えた。


「なあ、あんた。娘がなんで逃げたか、本当に分からねぇのか?」

「……。」


 父親はまた無言になる。


「…分からねぇわけ、ねぇだろうが!!」

 水晶が、思わず声を荒げた。

「ガキが一人で、真夜中に山に逃げ込むんだぞ。よっぽどのことがなきゃ、そんなことしねぇんだよ!」

 水晶は本気で胸ぐらをつかんだ。


「立川、やめろ!!」

 先輩が慌てて止めに入る。

 だが、水晶は止まらなかった。

「あんたが、殴ったんだろうが。

 あの子がつらい思いを抱えてるのに、

 逃げてガキを殴ったんだろうが!!」

 父親の肩を、思わず掴んだ。


 父親は、しばらく黙り込んでいた。

 やがて、絞り出すように声を出した。


「……母親が、いなくなったんです。」

「は……?」


 突然の告白に間抜けな声を出してしまった。


「妻が……ミオの母親が、何も言わずに、突然消えました。理由も分からない。俺の何が悪かったのか、今でも分かりません。」

 父親の声は、震えていた。


「自分のせいだと思いました。俺が、何か間違えたんだと。それから、酒に逃げるようになって……。」

 水晶は、何も言わずに聞いていた。


「それでも、ヒナがいる間は、まだ……なんとか、家族でいられました。あの子が、いつも明るくて。ミオのことも、俺のことも、繋ぎとめてくれていた。」

 父親の目から、涙がこぼれ落ちる。


「ヒナが死んで……俺は、どこに怒りをぶつければいいのか、分からなくなって……。ミオに、当たってしまいました。」

「……。」

「分かってるんです。ミオは、悪くない。悪いのは、俺なのに……。」

 父親は、顔を覆った。


「あの子の顔を見るたび、ヒナを思い出して……苦しくて……気づいたら、手が出てました。」

 水晶は、拳を握りしめたまま、しばらく黙っていた。


 怒りが、行き場をなくしていく。

 目の前にいるのは、悪人というより、ただ壊れてしまった一人の大人だった。


「……あんたの事情なんざ、知ったこっちゃねぇ。」

 水晶は、低い声で言った。

「けどな。今、山ん中に、七つのガキが一人で逃げてんだよ。」

 父親の肩を、もう一度強く掴む。

「あんたが後悔してるかどうかなんて、今はどうでもいい。あの子を、絶対に見つける。それだけだ。」

 父親は、何も言わず、ただ頷いた。


……


 捜索隊が組まれ、水晶も、その中の一人として山道を登ることになった。

 懐中電灯の明かりだけが頼りの、暗い山道。


「おーい、ミオちゃーん!」

 捜索隊の声が、静かな山にこだまする。

 返事はない。


 水晶は、懐中電灯で足元を照らしながら、ふと足を止めた。


 小さな靴の跡。

 まだ新しい。

 それが、森の奥の方へ向かっていた。


「……こっちか。」

水晶は一人、足跡を追う。


……


 ミオは、森の()()()()の近くで、一度立ち止まっていた。


 息が上がる。足が痛い。

 振り返ると、遠くに、いくつもの光が揺れているのが見えた。

 ――懐中電灯。


 誰かが、探している。

 お父さんだろうか。それとも、警察だろうか。

 どちらにしても、見つかったら、また元の場所に戻されてしまう。


 嫌だ。


 もう、あそこには戻りたくない。

 ミオは、震える足を叱咤して、森の奥へと駆け出した。


 木の枝が頬を掠める。 根っこに何度もつまずく。

 それでも、止まらなかった。

 あの日、姉と一緒に歩いた道。 覚えているようで、暗闇の中では全然違う道に見える。

 道に迷ったのかもしれない。

 それでも、足だけは止めなかった。

 どれくらい歩いただろうか。

 息も絶え絶えになったころ、ミオはとうとう、木の根元に座り込んでしまった。


「……もう、無理……。」

 涙が溢れる。

 寒い。痛い。怖い。

 誰も、助けてくれない。

 お父さんも。町の人たちも。

 ――お姉ちゃんが、いない。


 声を殺して泣いていると、ふと、遠くから声が聞こえた気がした。


『……けて』


 最初は、風の音だと思った。

 でも、耳を澄ますと、それは違った。

 ――小さな、声。

「……たすけ……て……。」

 ミオは、涙を拭って顔を上げた。

「……誰……?」

 返事はない。

 でも、声はまだ、微かに続いていた。

 弱々しく、途切れそうな声。

 まるで、誰かがずっと、助けを求め続けているような。


 ミオは、震える足で立ち上がった。

 声のする方へ、ふらふらと歩き出す。

 怖かった。


 でも、それ以上に、その声が気になって仕方なかった。

 まるで、あの声が、自分と同じように、ずっと一人で、誰かを待っていたような気がしたから。


 声は、少しずつ近くなっていく。


 木々の間を抜けると、小さな空き地に出た。

 月明かりが、そこだけぽっかりと差し込んでいる。

 地面の一部が、わずかに盛り上がっていた。

 その下から、声がしている。


「……ここ……?」


 ミオは、震える手で、土を掘り始めた。

 爪の間に土が入り込む。

 指先が痛い。

 それでも、掘るのをやめなかった。

 何かに、引き寄せられるように。


 やがて、指先に硬いものが触れた。

 少しずつ、丁寧に土を取り除いていく。


「…なに、これ?」


 ――CUBE。

 小さな、立方体の物体が、土の中から現れた。



 表面は、微かに青白く発光している。

 ミオは、それをそっと両手で持ち上げた。

 温かい。

 不思議なほど、温かかった。

「……あなたが、さっきの声……?」


 その瞬間。

 CUBEが、ふわりと強く光り出した。

 優しい光が、ミオの顔を照らす。

 そして、頭の中に直接語りかけるように、声が響いた。


『――ようやく、見つけた。』

「……え……?」

『大丈夫。もう、一人じゃない。ボクが、キミの友達になる。』

 その言葉に、ミオの目から、また涙がこぼれた。

 でも、さっきまでとは違う涙だった。


 CUBEの光は、闇の中でどんどん強くなっていく。まるで、これから始まる何かを、静かに告げるように。


 ――そのとき。

 遠くで、懐中電灯の光が、木々の間を揺れながら近づいてきていた。


 「……ッ! おい、何してんだ!」

 水晶の声が、森に響いた。


 ミオは、CUBEを強く抱きしめた。

「……離さない。もう、独りぼっちにはならない。」

 光る小さな立方体は、まるでその言葉に応えるように、一層強く輝いた。


 CUBEを抱えたミオと、ミオに向かって走った水晶は光に巻き込まれた。


――この日、望月(望月)ミオと立川水晶(たちかわみずき)はこの世から消えた。



こんにちは!今日の朝食です!

第3話!読んでいただきありがとうございます!


初投稿作品で結構悩みながら制作してます…。

もし面白ければ!ブックマーク!感想!などなどお願いします!!!!

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