第1章 第2話 『約束の森で』
ヒナと約束してから数日が過ぎた。約束はしたが、私一人ではイジメはなくならない。
次の日も、その次の日も、
ミオの席は静かに孤立していた。
なぜそんなことをするのだろうか。
全く意味がわからずそう聞いた。
すると、
「え〜だって、お前ウジウジしててキモいもん笑」
そんなどうでもいいことだった。
周りも「それな〜」「言い過ぎだよw」みたいな反応しかしない。
消しゴムが落ちても、誰も拾ってはくれないし、 筆箱が飛び交うことも、もう驚かなくなっていた。
あの糸目先生は目の前で起こっていることを見て見ぬふりをしている。
仲良くしようとしてもいつまでも変化しないこの境遇にもやもやとした感情を植え付けられる毎日。
まだ耐えられる、大丈夫。
そんなことを毎日考えていた…
朝、教室に入るときの、あの一瞬の静けさ。 誰も声をかけてこないのに、全員がこちらを見ている気配。
それに慣れることだけが、ミオの唯一の処世術になっていた。
でも、その日は少し違った。
昼休み、いつものように筆箱が投げられたときだった。心を殺し、なにも反応しなければあきらめてくれる。
…私ももうあきらめたよ。
「――やめろよ。」
教室の入り口に、ヒナが立っていた。
制服のまま、まだ体操着の裾を直しながら。
「なんでお姉ちゃんが……。」
ミオは目を丸くする。
「保健室行く途中、通りかかっただけだ。」
そう言いながらも、ヒナの目はまっすぐリナたちを見据えていた。
偶然を装ってはいたが、本当は違うことにミオは気づいていた。
ここ数日、休み時間になるとよくミオの学校の前をうろついているヒナを見かけていた。
…たまに不審者に間違えられていたけど。
妹が心配で、様子を見に来ていたのだ。
ヒナはそう言って、床に落ちた筆箱を拾い上げると、いじめっ子のリーダーの前に立った。
「もう一回やったら、先生じゃなくて俺が相手する。」
低い声だった。いつもの明るく元気なヒナとは違う。
リナは一瞬たじろいだが、すぐに強がるように鼻を鳴らした。
「あんた誰よ!関係ないでしょ!」
「関係ある。妹だからな。」
その言葉は、短かったけれど、迷いのない声だった。
キッ!という音が聞こえるほど鋭い眼光に女の子達はビクッとしていた。
ヒナはミオの筆箱をそっと机に置くと、ミオの頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。」
小さく、ミオにだけ聞こえる声で。
そして何も言わずに教室を出て行った。
教室がざわつく。
リナは顔を真っ赤にして、ヒナの背中を睨みつけていた。
彼女は唇を噛んだ。
爪が食い込むほど拳を握る。
笑われたまま終わるのだけは許せなかった。
……
帰り道、ミオはヒナに聞いた。
「……いつも、見に来てくれてたの?」
「別に。たまたまだって言っただろ。」
ヒナはそっぽを向いて答えたが、耳が少し赤かった。
「照れてる。」
「照れてねぇ!!」
拳骨が飛んでくる。痛い。
でも、その日ばかりは、痛みよりも、じんわりとした温かさの方が大きかった。
……
翌日の放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、あの女の子――リナが、友達を三人連れて立っていた。
「昨日のあれ、なに?」
「……。」
「お姉ちゃんに助けてもらって、嬉しかった?」
嘲るような笑い。
「みんなの前で恥かかせやがって。あんたのせいだからね。」
ミオは何も言えず、俯くことしかできなかった。
「今度は絶対、お姉ちゃんいないところでやってやるから。」
リナはそう言い残し、笑いながら去っていった。
……
数日後の放課後。
ミオが一人で下校していると、リナたちに囲まれた。
「ちょっと来て。」
腕を掴まれる。
いつもと違う、強い力だった。
振りほどこうとしても、後ろからもう一人に押さえつけられる。
連れて行かれたのは、あの森だった。
姉と約束をした、あの美しい森。
湖のほとりまで来ると、リナはミオを突き飛ばした。
「ここなら誰も来ないもんね。」
髪を掴まれる。
押し倒される。
冷たい土の感触。
「痛……っ。」
「お姉ちゃん呼んでみたら? 助けてくれるかもよ?」
嘲笑。
周りの女の子たちも、囃し立てるように笑う。誰も止めようとはしなかった。
ミオは声を上げることもできず、ただ体を丸めて耐えていた。亀のように丸まった姿を笑われ、石を投げつけられる。
…なんでこんな目に合うんだろう。
あの日、姉と交わした約束を思い出す。
――『学校で嫌なことがあったら、ここへ来い』
でも、今は。この場所さえも、怖い場所に変わってしまった。
どうして。
一番好きだった場所が、一番怖い場所になるなんて。
嫌だ嫌だ。もう嫌だ。
つらい。生きたくない。何も考えたくない。
不安と疑問、恐怖が頭の中で支配する。
…もう、死んじゃおうかな?
そのときだった。
「――ミオ!!」
声がした。
遠くから、必死な声。
振り返ると、ヒナが木々の間を駆け抜けてくるのが見えた。
息を切らし、制服のリボンがほどけかけている。
どうやってここが分かったのか、後で聞くと「胸騒ぎがした」とだけ言った。
「ミオから離れろ!!」
ヒナはリナたちを突き飛ばすようにしてミオを引き離すと、自分の体でミオを庇うように抱きしめた。
背中がミオを覆う。まるで盾のように。
「大丈夫か……! どこか痛いところは……!」
「お姉ちゃ……。」
声が震える。涙が止まらなかった。
ヒナの腕の中は、いつもと変わらず温かかった。
リナたちは急に現れたヒナに動揺し、後ずさる。
「ちょ、ちょっと、待って、私たちただ……っボォ!!?。」
『ドゴッ!』
という音と共に、ヒナは協力な一撃をあたえた。
「…へ?い、いだぃ!いだぃよぉぉぉ!!!!!」
「黙れ」
中学生が高校生に殴られるのは相当痛かっただろう。
鼻血を出して悶えるリナに冷めた声で言い放つ。
「…二度と妹に触るな。」
ヒナの声は静かだったが、今まで聞いたことのない怒りが滲んでいた。
立ち上がったヒナは、震えるミオを背に庇ったまま、一歩、また一歩とリナたちに詰め寄る。
「次やったら、先生とか親とか、そういう話じゃ済まさない。分かったか。」
リナたちは何も言い返せず、青ざめた顔で頷いた。
「消えろ。」
その一言で、リナたちは慌てて逃げ出した。
足音が遠ざかっていく。
……
森に静けさが戻ると、ヒナはようやく振り返り、ミオの顔を覗き込んだ。
「もう平気だ。よく頑張ったな。」
その声は、さっきまでの怒りが嘘のように、いつものヒナに戻っていた。
ミオは声を殺して泣いた。怖かったからじゃない。
助けに来てくれたことが、嬉しくて、たまらなかったから。
静かになった森の中、ヒナはミオの頭をそっと撫でた。
「もう大丈夫だ。」
「ごめん……ごめんね、お姉ちゃん……。」
「謝るな。悪いのはお前じゃない。」
ヒナはミオの涙を指で拭う。
「約束しただろ。俺が守るって。」
その笑顔は、いつもと同じ、ヒナの笑顔だった。
美しい湖の近くで、二人の少女は抱き合う。
互いに安堵し、
「一緒に帰るぞ。」
「…ッ! うん!」
そう言葉を交わす。
帰れば温かい家がある。
姉と一緒にいじり合いながら、楽しく過ごせる居場所がある。
明日の学校は、どうなるかはわからない。
けど、お姉ちゃんが守ってくれる。
後はただ、一緒に帰るだけだった。
――だが。
立ち上がろうとした瞬間、足元の土が崩れた。 ここは崖の近くだった。
リナたちともみ合ううちに、二人はいつのまにか、湖を見下ろす崖の際まで来ていたのだ。
ガラガラと崩れかけている地面と底までの高さは、人が助からない程の距離であった。
「危ない……!」
ヒナが咄嗟にミオを突き飛ばす。
体が離れる。
「お姉ちゃん……!!」
ミオはとっさに手を伸ばした。
――指先が制服の袖をかすめる。
届く。
そう思った。
しかし、布はするりと指から滑り落ちた…。
ヒナは顔を引きつり、恐怖に染まった顔をミオに見せたまま、抗えずに落ちてゆく。
―そこで知ってしまった。
私の無力さを。
その無力さに責められながら、姉が深くまで落ちていく様子を見せられた。
――ドサッ。
ヒナの体が、崖の向こうへと消えていく。
鈍い音が、遠くから聞こえた。
しばらく、時が止まったように動けなかった。
「お姉ちゃん……? お姉ちゃん!!」
ミオは崖を這うように下りて、湖のほとりに辿り着いた。
ヒナは動かなかった。
頭から血がドクドクと流れている。
目を閉じたまま。
いつもの笑顔はもう、そこにはなかった。
「やだ……やだよ……。」
ミオは小さな体で、ヒナに縋りついた。
何度呼んでも、返事はなかった。
森は、あの日と同じように静かだった。
木漏れ日だけが、変わらずに二人を照らしていた。
……
数日後。
家には2人の警察が押し寄せ、どんなことがあったのかを詳しく聞かれた。
町には、奇妙な噂が広まっていた。
「聞いた? あの転校生の子……。」 「お姉さんを、崖から突き落としたって話。」 「怖いわねぇ……あんな小さい子が。」
誰が言い出したのかは分からない。
ただ、リナたちが「本当は違う」と言うことは、二度となかった。
結束の強い町だった。
だからこそ、噂はあっという間に広がり、誰もそれを疑わなかった。
学校でも、町でも、ミオを見る目は変わった。
優しかった人でさえ、どこかミオを避けるようになった。
誰も、話を聞いてはくれなかった。
……
家に帰ると、父はいつも酒の匂いがした。
母がいなくなってから、少しずつ荒れていった父。
だがそれでも、ヒナがいる間は、なんとか保たれていた均衡だった。
ヒナが慰めているときは、お酒もどんどん減っていったし、泣いている姿も見かけなくなった。
その均衡は、もう跡形もなく崩れていた。
「……お前のせいだ。」
テーブルに転がる酒瓶。
父の目は、もうミオを見ていなかった。
どこか遠く、暗い場所を見ているようだった。
「お前が、ヒナを……。」
「違う……違うよ、お父さん……。」
「うるさい!!」
響く音。
頬に走る痛み。
ミオは床に崩れ落ちた。
それから、その日々が続いた。
殴られても、怒鳴られても、ミオは何も言えなかった。
父も、本当はミオのせいではないと知っていた。
しかし、精神的ストレスにより、まともな判断をすることができていなかった。
言葉は、もう届かないと知っていたから。
学校に行けば白い目で見られ、
家に帰れば拳が飛んでくる。
…どこにも、ミオの居場所はなかった。
夜、布団の中で膝を抱える。
あの日、崖の際で伸ばした手。
届かなかった手。
――もし、あのとき自分がもっと早く動いていたら。
――もし、あの森に行かなければ。
考えても、考えても、答えは出なかった。
ただ、ヒナの最後の笑顔だけが、頭から離れなかった。
「約束しただろ。俺が守るって。」
その約束は、もう誰も果たしてはくれない。
ミオはひとり、暗い部屋の中で、声を殺して泣いた。
「約束したじゃん……。」
ベッドの中で涙を流し、自分の非を呪った。
今日、父が酒をのみ、ミオを叩き、いつもより早く就寝した。
その夜。
ミオは家から抜け出した…。
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