第2章 間話 『現世』
酒瓶が床を転がる音だけが、静まり返った家に響いていた。
――娘が消えてから、何日が経っただろうか。
望月龍之介の家は静まり返っていた。
テーブルの上には、飲みかけのまま放置された酒瓶が転がっている。
捜索は、続いていた。だが、手がかりは何一つ見つからないまま時間だけが過ぎていった。
町の空気は、日に日に、変わっていった。
道路の角では、2人の女性がヒソヒソと話している。
「――ねぇ、聞いた? あの家の子、まだ見つからないんだって。ほら、事故の子の妹……。」
「ああ、あの家ね。」
「今度は、お父さんが妹の方もどうにかしたんじゃないの……。」
根も葉もない噂は、あっという間に町中に広がっていった。
結束の強い町だった。だからこそ、一度傾いた空気は、誰にも止められなかった。
……
父は、家の中に閉じこもるようになっていた。
外に出れば、向けられる視線。ひそひそと交わされる、噂話。
それに耐えるだけの気力は、もう残っていなかった。
――俺のせいだ。
その考えだけが、頭の中をぐるぐると、回り続けていた。
妻が消えた。
ヒナが死んだ。
ミオまでいなくなった。
……全部、俺のせいだ。
……
同じ頃。
町にはもう一人、この一件を追っている人物がいた。
名を、田沼智徳。
県警の刑事で、水晶の直属の先輩にあたる男だった。
望月雛乃が事故で死亡したときや望月ミオが逃走したとき、水晶と共に父親に事情聴取を行った警察官だ。
水晶がミオと共に忽然と姿を消してから、既に何日も経っていた。
田沼は、独自に水晶の足取りを追っていた。
「……立川の奴、最後にこの町に来てたんだよな。」
田沼は、手帳を捲りながら、独り言ちた。
田沼と水晶は特別、仲が良いわけではなかったが、何度も昼メシを食べた仲だった。
「先輩、俺は別にルールに従って働くのはいいですよ。
…でも、それって最悪じゃないっすか?」
水晶と飯を食べるといつもこの話をされる。
彼は人一倍正義感が強く、常に子供を助けようとする。まさに、正義のヒーローだ。
規律を重視しろと言われるこの警察官という仕事では情に振り回されてはいけないのだ。
しかし、彼はいつでも信念を曲げなかった。
あのときだってそうだった。
水晶は事情聴取の際、ミオの父親に激しく詰め寄り怒鳴り散らかしていた。この話は既に、警察署でも広まっていた。
―――望月龍之介
現在調査中の男性だ。
望月ミオと立川水晶を殺害した疑いがかけられていたが、証拠不十分により逮捕状は出されていない。
彼は望月ミオに、ストレスによる精神的パニックを起こし児童虐待をしていた。
そのことで立川水晶に胸ぐらを掴まれ、年下の警察官から怒鳴り責立てられた。
犯行の動機としては十分である。
「あの時は感情的になりすぎだと思っていたが…。」
――もしかしたら、あの父親が何か知ってるんじゃないか。
その疑念が、田沼の中で次第に大きくなっていった。
……
田沼は、町の人々に聞き込みを始めた。
「すみません、この辺りに住む望月龍之介さんという方について、お伺いしたいのですが。」
最初に声をかけた、雑貨屋の店主は、露骨に、顔を曇らせた。
「ああ、あの家ね……。刑事さん、やっぱりあの人が犯人なんですか?」
「いえ、そういうわけでは……。」
「そうですよねぇ。娘さん二人とも、いなくなって。お父さんが怪しいに決まってますよ。あの人、絶対ヤバいやつですよ。
なんせ、前にも犯罪をやっていたらしいですし…。」
――確かに田沼も怪しいとは思っている。
しかし、彼が前科持ちという記録はどこにもない。
……
次に、道端で声をかけた老婆も同じような反応を見せた。
「警察がわざわざ聞き込みに来るなんて……。やっぱり、あの人が何かしたんでしょう?」
「いえ、まだ何も分かってはいません。」
「でも、こうして探しに来てるってことは……そういうことなんでしょう。」
田沼は、曖昧に頷きながらその場を後にした。
――町中があの父親を犯人だと決めつけてる。
自分自身、明確にそう決めつけたわけではなかったが、聞き込みを重ねるうちに、田沼の中でもその疑念は次第に拭いがたいものになっていった。
……
最後に立ち寄った酒屋の主人が、思い出したように言った。
「そういえば、あの旦那、最近姿を見ないねぇ。……もしかして、山の方に行ったんじゃないかい? 昔からあの家族、あの山によく行ってたから。」
「山、ですか。」
田沼の脳裏に、嫌な予感が過ぎった。
――まさか。
田沼は、すぐさま山へと向かった。
こんな噂が街中に流れていて、誰も味方がいない。もし自分だったらどうするか。
答えは明白だった。
……
息を切らして、山道を登る。
やがて、開けた場所に出ると、そこに、見覚えのある崖が見えた。
その際に、父の姿があった。
ふらつく足取りで崖の縁に立っている。
「――おい!」
田沼は、思わず、叫んでいた。
父が、振り返る。
「……誰だ。」
その目には、生気がほとんど感じられなかった。
「県警の者だ。……立川の、先輩でね。」
田沼は、崖際に立つ父の様子を見て、息を呑んだ。
――これは、まずい。
だが、それと同時にこれまで積み重なってきた疑念も消えてはいなかった。
田沼は、大股で父に近づいた。
……
田沼という男は元々、こういう仕事に憧れていたわけではなかった。
いや、正確には――憧れていた。
子どもの頃は。
テレビで見た正義のヒーローに心を躍らせていた時期が確かにあった。
悪を挫き、弱きを助ける。そんな存在に自分もなりたいと、本気で思っていた。
だが、警察学校に入り、現場に出て月日が経つにつれて、その熱は少しずつ冷めていった。
現実は、テレビの中のヒーローとは違っていた。
規則。手続き。上からの指示。事なかれ主義。
正義よりも、規律を守ることの方が、遥かに重要視される世界だった。
――夢と、仕事は、別物だ。
いつしか、田沼はそう割り切るようになっていた。
悪いことだとは、思わない。それが、大人になる、ということなのだと。
だからこそ――
水晶のような、いつまでも青臭い正義感を振りかざす後輩を見ると、複雑な気持ちになった。
鬱陶しいと思う一方で、どこか、眩しくも感じていた。
自分がとっくに忘れてしまったものを、そいつはまだ抱えたままでいるから。
……
その、水晶が。
ミオと共に、消えた。
田沼の中で、二つの感情がせめぎ合っていた。一つは、後輩を心配する気持ち。
もう一つは――もし、あの父親が何かしたのなら、という拭いきれない疑念。
その疑念を今、確かめなければならない。
田沼は、崖際に立つ龍之介の胸ぐらを勢いよく掴み上げた。
「――おい、答えろ!」
その声は、これまでの、抑えた口調とは、まるで違っていた。
「ミオちゃんと、立川はどこだ! お前がら何か、したのか!!」
「……!」
龍之介は、突然のことに、目を見開いた。
「答えろ! 二人を、殺したのか!?」
田沼の声が、山に響き渡る。
彼の体が、がくがくと震え始めた。
「……違う……!」
絞り出すような、声だった。
「違う! 俺は、何も、していない……! ミオも、水晶さんも……ただ、いなくなっただけだ……!」
龍之介の目から、涙が、次々と、溢れ出した。
「俺が何かしたなら……こんなところに、来るわけがないだろう……!」
「……。」
「本当に……本当に、俺は……何も……!」
声にならないほど、泣きじゃくりながら、彼は…繰り返した。
……
その姿を見て、田沼は掴んでいた手をゆっくりと緩めた。
――本物だ。この涙は、演技じゃない。
長年の勘が、そう告げていた。
「……すまなかった。」
田沼は、静かにそう言った。
「疑って、悪かった。」
彼はその場に、崩れ落ちるように座り込んだ。
……
「……娘さんを探さなくていいのか。」
田沼の声に、龍之介の肩が僅かに震えた。
「探した……何度も、何度も、探した……。でも、見つからない。俺は……何も、できなかった。」
その声は、掠れていた。
まるでもう、何日も声を出していなかったかのように。
「町の連中は、みんな、俺を、疑ってる。……娘を殺したんじゃないか、って。」
「……。」
「本当に、俺のせいだ。妻がいなくなったのも。ヒナが死んだのも。……ミオまで、いなくなったのも。」
龍之介の目から、涙が、こぼれ落ちた。
「もう、疲れた……。」
……
田沼は、一歩、また一歩と、崖際に近づいていった。
「――あんたの気持ちは、分からん。」
その声は、静かだったがはっきりとしていた。
「だが、一つだけ、言わせてくれ。」
田沼は龍之介の目をまっすぐに見据えた。
「あんたが、今、ここでいなくなったら……もし、ミオちゃんがどこかで生きてたとして。帰る場所はどうなる。」
「……。」
「立川の奴も…まだ、見つかってねぇ。……あんたが、本当にミオちゃんのことを考えてるなら。今、ここで諦めていい理由にはならねぇはずだ。」
龍之介は、何も、言葉を返せなかった。
ただ、田沼の言葉が、少しずつ、胸の奥に、染み込んでいくのを感じていた。
「……探すのを、やめるな。」
田沼は、そう言って、静かに、手を差し出した。
……
長い、長い沈黙のあと。
龍之介は、震える手で、その手を、掴んだ。
崖から、一歩、また一歩と、後ずさる。
崩れ落ちるように、その場に、座り込んだ。
「……すまない……。」
絞り出すような、声だった。
「謝る相手は、俺じゃない。」
田沼は、静かに、首を振った。
「ミオちゃんが帰ってきたときに、ちゃんと、謝ればいい。……立川も、一緒にな。」
……
「……なあ。」
龍之介が、震える声で、田沼に尋ねた。
「あんた、さっきは俺を…本気で疑ってただろう。」
田沼は、少し、間を置いてから、頷いた。
「……ああ。正直、疑ってた。」
「なのに、なんで、今は。」
「……あんたの、あの涙を見たら分かるんだよ。長年、この仕事やってるとな。」
田沼は、小さく、息を吐いた。
「それに……立川の奴が、あんたにあそこまで、本気で怒ってたしな。あいつは、昔から馬鹿正直に子供を助けようとする奴だ。
……そんなあいつが、本気で怒る相手が、本当に悪人だとは…思えなかった。」
田沼の目に、僅かに、遠い光が浮かんだ。
「あいつを見てると、なんか、思い出すんだよ。……俺も、昔はヒーローに憧れてた頃があったってこと。」
父は、その言葉を、静かに、聞いていた。
「だから、あいつのためにも……あいつが、大事にしてる、あんたの娘のためにも。ちゃんと、見つけ出す。一緒に来い。」
……
二人は、それから手がかりを求めて、町を、そして、山を歩き続けた。
まだ、何も見つかってはいない。
それでも、諦めるという選択肢は、もう、二人の中にはなかった。
その頃――
遠く離れた異世界では、ミオたちが火神界へ向かおうとしていた…。




