第2章 第11話 『風を切る』
「――!!」
黒ずくめの人影が放った赤黒い光の塊が、まっすぐミオへと迫った。
「危ねぇ!」
水晶が咄嗟にミオを庇うように前に出る。
だが、その速度は明らかに防ぎきれるものではなかった。
――ドンッ。
鈍い音とともに、水晶の体が、大きく吹き飛ばされた。
「水晶さん!!」
「来るな、ミオ……!」
水晶は、地面に片膝をついたまま、腕を押さえていた。その袖口が、じわりと、赤く滲んでいく。
「くそ……腕、動かねぇ……。」
水晶は、剣を握ろうとして、顔をしかめた。 力が入らないのか、剣がその手から、力なく滑り落ちる。
ミオの頭の中が真っ白になる。怖いと思う暇さえなかった。
『……ミオ、水晶が……!』
CUBEの声が、これまでにないほど、動揺していた。
『どうしよう、どうしよう……! ボク、今、力が全然足りない……! こんなときに……!』
いつも冷静なCUBEの声が、こんなにも取り乱すのを、ミオは初めて聞いた。
それが、余計に、事態の深刻さを、伝えてきた。
「CUBE、落ち着いて……! 水晶さん、しっかり!」
ミオは、水晶に駆け寄りながら、必死に叫んだ。
「大丈夫だ……! ちょっと、動けねぇだけだ……!」
水晶は、痛みに歪んだ顔で、それでも、無理に笑おうとしていた。
その強がりが、逆に、ミオの不安を煽った。
黒ずくめの人影たちは、じりじりと、包囲を狭めてくる。
その数は、五体。それぞれが、赤黒い光を、手のひらに集め始めていた。
「……ミオ、下がってろ。」
低い声が、割り込んできた。
アシュが、二人の前に、割り込むように立っていた。
その手には、あの、剣とも杖ともつかない細長い武器が握られている。
柄に埋め込まれた結晶が、これまで見たことのないほど強く、青白く輝いていた。
いつも飄々としているアシュの背中が、今は違って見えた。
張り詰めた、鋼のような気配。
――この人は、本気で守ろうとしている。
そう思った瞬間、ミオの中の恐怖が、少しだけ和らいだ。
「……お前ら、やってくれたな。」
アシュの声はいつもより低く、張り詰めていた。
「水晶が動けねぇんじゃ、仕方ねぇ。今度は、ちゃんと片付ける。」
「アシュ……悪ぃ……。」
水晶が、悔しそうに、唇を噛んだ。
「謝ってる暇があんなら、そこで、ミオを庇ってろ。」
アシュは、それだけ言うと、武器を、地面に静かに突き立てた。
その瞬間、風が――
音のしないこの世界に、初めて、はっきりとした風が巻き起こった。
ミオの前髪が大きく揺れる。
これまで何も音を立てなかったこの世界で、初めて感じる、確かな空気の圧。
それだけで、アシュの力の大きさが、肌で分かった。
アシュの周囲に、無数の鋭い風の刃が、渦を巻くように生まれていく。
「これは……。」
ミオは、思わず息を呑んだ。
武器の柄に埋め込まれた結晶が、一際強く輝きを増す。
「――これが、空神族の力……!」
CUBEの声が、驚いたように響いた。
その声には、驚きと同時に、どこか誇らしげな響きも混ざっているように、ミオには聞こえた。
「―散れ。」
アシュの短い一言とともに――
渦巻いていた風の刃が、一斉に黒ずくめの人影たちへと放たれた。
悲鳴に近い声を上げる暇もなく、五体の人影は、次々とその場に崩れ落ちていく。
嵐のような風が、辺り一帯を駆け抜けていった。
ミオは目を細めながら、その光景を見つめていた。
「――きれい。」
その美しさを、目に焼き付けた。
同時に、こんなにも強い人が、いつも自分たちのために危険を引き受けてくれていたのだと、今更ながら実感が押し寄せてきた。
静寂が戻る。
「……す、すげぇ……。」
水晶が、痛みに顔をしかめながらも、呆然と、その光景を見つめていた。
地面には、力を失った黒ずくめの人影たちが、力なく横たわっている。
だが、消滅はしていない。息はあるようだった。
「アシュ、これ――」
水晶が振り返った、その瞬間だった。
――ぐらり。
アシュの体が大きく傾いだ。
「アシュ!?」
ミオは悲鳴に近い声を上げた。
頭よりも先に体が動いていた。
膝から崩れ落ちるアシュを、水晶が慌てて抱き止める。
「おい、しっかりしろ! アシュ!」
アシュの意識は、既に朦朧としていた。
「……悪い。ちょっと、無理しすぎた。」
その声は消え入りそうなほど弱々しかった。
いつもの突き放すような口調とは、まるで違う。
その弱々しさが、逆にミオの胸を強く締め付けた。
「あれを使うと…CUBEと同じで、しばらく動けなく…なるんだ。」
それだけ言うと、アシュの体から力が完全に抜け落ちた。
「アシュ!! おい、アシュ!!」
水晶が何度も呼びかけたが、返事はない。
規則正しい寝息だけが静かに聞こえていた。ミオはその寝顔を見つめながら思う。
――ずっと、一人で抱え込んできたんだろうか。
助けてくれるとき、いつも当たり前のような顔をしていたけど。
本当は、こんなにも自分の身を削っていたのかもしれない。
……
しばらくの沈黙のあと。
「……気を失っただけみたいだ。」
水晶がアシュの様子を確かめながら、ほっとしたように息を吐いた。
その表情には、安堵と一緒に、何か後ろめたさのようなものが滲んでいる気が、ミオにはした。
「……良かった。」
ミオは腕の中のCUBEを、ぎゅっと抱きしめた。
『……アシュ、本当に無茶するんだから。』
CUBEの声には、心配と僅かな呆れが入り混じっていた。
でも、その奥に確かな親しみがあるように、ミオには感じられた。
「……で、これから、どうする。」
水晶が地面に横たわる黒ずくめの人影たちに目をやった。
「こいつら、放っておいたらまずいだろ。すぐ動き出すかもしれねぇし。」
「……アシュを、運ばないと。」
ミオは辺りを見回した。
早く安心できる場所を見つけなければ。焦る気持ちが胸の奥で膨らんでいく。
「近くに休める場所、あるかな。」
『確か、この先に小さな洞窟があったはず。』
CUBEが記憶を辿るように答えた。
水晶は、意識を失ったアシュを背負い上げた。
思っていたより軽い。
こんな小柄な体で、あれだけの敵をたった一人で退けたのかと思うと、水晶の胸の奥に複雑な感情が湧き上がった。
その感情の名前を、水晶自身、まだうまく言葉にできずにいた。
「……お前、いつも無理ばっかしてんな。」
背中の上で、アシュは答えない。
ただ規則正しい呼吸だけが、水晶の耳元に静かに伝わってきた。
ミオはその二人の後ろを、CUBEを抱きしめながらついていった。
振り返ると、地面に横たわる黒ずくめの人影たち。
あれが"調律機関"――CUBEを狙う大きな組織の、ほんの一部でしかないのだと思うと、背筋が微かに冷たくなった。
この旅の先に、まだ、どれほどの困難が待っているのだろう。
考えるだけで、足がすくみそうになる。
それでも――
今は、アシュを休ませることだけを考えよう。
隣を歩く水晶の背中と、その上で眠るアシュ、そして腕の中で静かに光るCUBE。
この温かさがある限り、きっと大丈夫。
ミオはそう自分に言い聞かせながら、夜のような、それでいて、どこか優しい光に包まれたこの不思議な世界の道を、静かに歩き続けた。




