第9話 白い檻
古道は、思ったより静かだった。
マルグリット・グレイヴは右足を引きずりながら先を歩いている。だが、その歩き方に遅さはない。踏む石を選び、枝を避け、雨の音に紛れる足音まで計算していた。老人の歩みではなく、戦場で生き残った者の移動だった。
ミラが少し前を進む。黒髪を首の後ろで結び、弓を低く持ったまま、顔ではなく道の端ばかり見ていた。足跡、折れた草、泥に残る靴底の角度。眠そうな目が、それらを拾っていく。
「二人、先にいる。見張り。正規兵より軽い足」
「薬務官か?」
俺が声を落とすと、ミラは首を横に振った。
「薬箱を持つ歩き方じゃない。武器を隠してる」
マルグリットが片目だけでこちらを見る。
「白鐘離宮に近づいた。綺麗に残っている道ほど疑いな」
王族の静養地へ続く道なら、本来は整えられていて当然だ。だが、ここは王族を逃がすための古道。最近になって手を入れられた場所があるなら、それは誰かがこの道の存在に気づいているということになる。
リーシャはガドに肩を支えられながら歩いていた。自力で歩くと言い張ったが、ノエルが許したのは短い距離だけだ。頬に血の気は戻っていない。それでも目は道の奥を見ている。
「この先に、古い標石があります。王族用の裏門印が残っているはずです」
「見たことがあるのか」
「記録で。実物は……初めてです」
言いながら、リーシャは一歩踏み出した。
足元の苔が滑る。
声を上げかけた瞬間、俺は彼女の腰を支え、反対の手で口元に指を立てた。
音を出すな。
その意味は伝わったらしい。リーシャは息を呑んだまま止まった。細い身体が、俺の腕に預けられる。
近い。
そう気づいたのは、たぶん俺よりリーシャの方が早かった。雨に冷えていたはずの頬が、耳の近くから薄く赤く染まる。
「……すみません」
「転ぶならノエルの許可を取れ」
「許可制ではありません。禁止です」
後ろから飛んできたノエルの声は静かだったが、反論を許す気配はなかった。ガドが小さく「ですよね」と呟き、すぐに口を閉じる。
リーシャは赤くなった顔を一度だけ伏せた。けれど、次に顔を上げた時には、目が王宮連絡係のものへ戻っていた。
「今の石、ただの段差ではありません」
彼女は俺の腕からそっと離れ、足元の苔を指差した。まだ頬の赤みは残っている。だが、声はもう震えていない。
「王族用の裏門印です。雨で削れていますが、これは白鐘離宮へ戻る者ではなく、外へ逃がす者のための印です」
俺は彼女の示した石を見る。
赤面を誤魔化すための言葉ではない。足を取られ、倒れかけても、彼女は自分の役目を手放していなかった。
「よく見た」
「……褒め方まで雑ですね」
「黒羊では丁寧な方だ」
「慣れる前に終わらせたいです」
そう言いながらも、リーシャはガドの支えを受けて歩き出した。
マルグリットが低く笑う。
「王宮育ちにしては、目が腐っていない。連れてきた意味はあるようだね」
「本人の前で品定めするな」
俺が返すと、マルグリットは杖で前方を示した。
「なら、次は声を殺しな」
見張りは、古い石壁の陰にいた。
二人。片方は腰に短剣、もう片方は合図用の小鈴を手にしている。離宮の外周を守るというより、この古道から誰かが出入りしないか見張っている配置だった。
ミラが弓を上げかける。
「撃つな」
俺は短く止めた。
潜入前に矢を残せば、あとで痕になる。ここは声を出させず、武器を使わずに済ませる方がいい。
セリアが俺の横に並んだ。剣には触れていない。
「生かすのか」
「騒がせなければ十分だ」
「お前が言いそうだった」
言うより早く、セリアは石壁の影へ滑り込んだ。
俺も反対側から回る。片方の見張りが小鈴へ指をかけた瞬間、ミラが背後から手を伸ばし、鈴ごと男の手を押さえた。鳴らない。見張りの目がそちらへ動く。
その隙に俺はもう一人の背後へ入った。
口を塞ぎ、膝を腹の真ん中へ叩き込む。息が詰まったところで首筋を腕で押さえ、石壁に体重を預けさせるように落とした。声は出ない。倒れる音も、雨に紛れる程度で済んだ。
ミラを押しのけようとした男には、セリアが横から入った。
足を払う。背中を壁へ押しつける。手首を捻り、膝で太腿を潰す。剣は抜かない。男は声を出す前に意識を手放した。
「見えてた」
ミラが小さく言った。
「鈴か?」
「その後ろの短剣も」
言い張る声はいつも通り眠そうだったが、鈴を押さえていた指がほんの少し遅れて離れた。たぶん、俺だけが気づいた。
「ならいい」
そう返すと、ミラはなぜか少しだけ目を細めた。
ガドが大盾ではなく体で視界を塞ぐ。片頬が素早く二人を茂みに運び、若い団員が口に布を噛ませた。セリアは周囲を見たあと、何事もなかったように戻ってくる。
「手慣れすぎていて、見なかったことにしたいですね」
リーシャが小声で言った。
「見た方がいい。これから必要になる」
俺が返すと、彼女は少しだけ息を整え、倒れた見張りの袖を見た。
「この印……薬務官のものではありません。離宮の内務兵です。療養地の外警備に出る身分ではないはずです」
俺は見張りの靴を見る。泥のつき方が外向きではない。森から来た者を警戒しているのではなく、離宮の中から誰かが抜けてこないかを見ていた。
守っているなら、外を見る。
閉じ込めているなら、内を見る。
「進むぞ」
セリアが先に立った。
古道はやがて細くなり、木々の間から白い屋根が見えた。
白鐘離宮。
王族の静養地と呼ぶには、雨の向こうの建物はあまりに静かだった。
灯りが少ない。
窓のいくつかは内側から塞がれている。薬務馬車の小門には兵が三人。裏庭の細道に二人。さらに北側の窓下にも、雨具をかぶった兵が立っていた。
ただの護衛にしては多すぎる。
しかも、兵の視線は森ではなく離宮の窓と裏口へ向いている。外敵を警戒している配置ではない。中の誰かを外へ出さない配置だ。
リーシャの指が震えた。
「……殿下の部屋は、北側です。窓が、塞がれている」
ノエルが彼女の肩を押さえる。今にも前へ出そうな身体を、医者の手が止めた。
マルグリットは片目で離宮を見て、吐き捨てるように言った。
「療養地の顔じゃないね」
俺も同じことを思っていた。
王女は守られているのではない。
外へ出られないように置かれている。
白鐘離宮は、雨の中で白く沈んでいた。
静養地ではなく、白い檻として。
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