第10話 白鐘離宮
白鐘離宮の裏手にある石壁は、雨に濡れて白く浮いていた。
静養地と呼ぶには、音が少なすぎる。鳥も、侍女の足音も、窓を開ける音もない。代わりに、軒下で兵の靴が床石を擦る音だけが、規則正しく返ってくる。
マルグリットは壁際の蔦を杖で払った。腰ほどの高さの古い扉が、濡れた葉の奥に隠れている。取っ手は錆び、蝶番も半分死んでいたが、彼女が石の継ぎ目へ杖の先を差し込むと、中で小さく金具が鳴った。
「この扉は、王族を外へ逃がすためのものだ。中へ入るために使う時点で、ろくな話じゃない」
「今さらだな」
俺が返すと、マルグリットは片目だけで笑った。
「その顔で言うなら、よほどろくでもない道を歩いてきたんだろう」
言い返す前に、扉が内側へ沈む。
ミラが先に滑り込んだ。黒髪を首の後ろで束ね、弓を低く構えたまま、廊下の奥と足元を同時に見る。眠そうな顔なのに、目だけは眠っていない。
「足音、二つ。右の廊下。こっちにはまだ気づいてない」
「兵か」
「侍女の靴じゃない」
その短い答えで十分だった。
俺たちは一人ずつ中へ入る。ガドはリーシャに肩を貸し、ノエルはその横で呼吸を見ている。セリアは最後に入り、扉の隙間から外を確認してから、音を殺して閉めた。
離宮の中は、薬の匂いがした。
ただの薬草ではない。甘く、重く、喉に貼りつく匂い。王都の薬草倉庫でも嗅いだことがあるが、ここは濃すぎる。
ノエルが足を止めた。
「療養で使う量ではありません」
声は低い。怒鳴ってはいない。だが、その一言でガドの背筋が伸びた。
リーシャは唇を噛み、廊下の奥を見た。
「この道は、侍女が湯や薬を運ぶ控え廊下です。本来なら、兵が立つ場所ではありません」
彼女は印を読んでいるのではない。ここで働く者の動線を見ている。床に残った濡れた跡、壁際に寄せられた水差し、扉の前に立つ靴の向き。それらを見て、王宮連絡係としての違和感を拾っていた。
俺も廊下を見た。
守るなら外を見る。閉じ込めるなら内を見る。
兵の視線は、廊下の奥へ向いている。
「療養地の警備じゃないな」
セリアが剣に触れず、口元だけで笑った。
「なら、静かに通るか」
「剣は抜くなよ」
「抜かなくても黙らせられる」
頼もしいのか物騒なのか、判断に困る女だ。
廊下の角から、一人目の兵が出てきた。
俺たちを見た瞬間、男の口が開く。声になる前に、俺は距離を詰めて口を塞いだ。喉が、ひゅ、と細く鳴る。膝を腹へ入れると、男の目が大きく開いた。息を吐けないまま力が抜け、俺はその身体を壁へ預けるように落とす。
もう一人は腰の鈴へ手を伸ばした。
だが指先が届く前に、セリアが横から入る。剣は抜かない。男の手首を押さえ、足を払って壁へ寄せ、肩口へ体重をかけた。呻きかけた声は、石壁とセリアの手の中で潰れる。
片頬が倒れた兵の腰から小鈴を外し、布で包んで音を殺した。若い団員は廊下脇の物入れを開け、中に積まれていた古い敷布を引きずり出す。
「奥だ。鎧を壁に当てるな」
俺が小声で言うと、片頬は頷き、気を失った兵を物入れの奥へ押し込んだ。若い団員が扉の隙間に布を挟む。閉めた時に木が鳴らないようにするためだ。
セリアが倒したもう一人は、ガドが片腕で抱えて壁際の長椅子へ座らせた。兜を少し下げ、外套を肩にかける。遠目には、雨に濡れて休んでいる兵に見えなくもない。
「次の巡回までは誤魔化せる」
セリアが声を落とした。
「十分だ。王女の部屋まで行く時間はある」
俺は床に残った泥を靴裏で薄く伸ばした。血はない。剣も抜いていない。騒ぎにならなければ、それでいい。
リーシャは倒れた兵から目を逸らさなかった。顔色は悪い。けれど、王宮の綺麗な廊下しか知らない令嬢の顔ではなくなりつつあった。
「……これが、黒羊の仕事なのですね」
声は小さい。嫌悪ではない。ただ、自分が頼んだ相手の現実を見た人間の声だった。
「綺麗な仕事ではないな」
俺が返すと、リーシャは少しだけ眉を寄せた。
「綺麗な言葉だけでは、王女殿下に届かないのでしょうね」
ノエルが横からリーシャの肩に手を添える。言い返すな、ではない。呼吸を整えろ、という手だった。リーシャもそれを理解したのか、唇を結んで小さく頷いた。
ミラが廊下の先へ進む。彼女は前方の合図鈴と扉の開閉に集中していた。兵の数、腰の金具、灯りの揺れ方。眠そうな横顔の奥で、必要なものだけを拾っている。
だからこそ、横の細い廊下から近づく足音への反応が半拍だけ遅れた。
見張りの影が、柱の向こうに差す。
俺は声を出さずにミラの肩を掴み、口を塞いだまま柱の陰へ引き寄せた。細い身体が胸元にぶつかり、ミラの指が反射で弓へ伸びかける。俺は首を横に振った。
音を出すな。
ミラの目が一瞬だけ細くなる。文句を言いたそうだったが、すぐに理解したらしい。見張りはすぐそばを通った。濡れた靴底が床板を踏み、腰の金具が小さく鳴る。ミラの息が、俺の手のひらに当たった。いつもより少し速い。
足音が遠ざかってから、俺は手を離した。
「……苦しい」
ミラは小さく言って、俺の胸を指で押した。いつもの眠そうな顔を作っているが、耳の端が少し赤い。
「悪い。声を出されると困った」
「出さない。気づいてた」
彼女は前を向いたまま言う。けれど、弓弦へ戻した指は半拍遅れていた。
「本当か?」
「本当」
少しだけ強い声だった。
俺はそれ以上触れなかった。触れたら、たぶん次の矢が俺の袖を縫う。
「ならいい」
そう言うと、ミラは不満そうに目を細めた。
「本当だから」
念押しは小さかった。けれど、妙に耳に残る。
セリアが少し先でこちらを見ていた。何か言いたげだったが、廊下の奥から別の足音が近づいてきた瞬間、視線を戻す。団長としての切り替えは早い。
マルグリットが杖を床板へ軽く置いた。
「そこ、踏むな」
若い団員の足が止まる。杖の先が示した板の下には、細い金属線が通っていた。鳴子だ。古いが、まだ生きている。
「よく残ってるな」
「古い仕掛けほど、人は見落とす。新しい罠を探す若造ほどね」
俺のことか。
言い返す気にはならなかった。たぶん半分は当たっている。
リーシャが廊下の壁に手を添える。
「この先です。王女殿下の部屋は北側の奥。けれど……」
言葉が途切れる。
廊下の先から、甘い匂いが流れてきた。さっきより濃い。眠り草だ。ノエルが薬箱の留め具へ手をかける。いつもの静かな顔だが、口元がわずかに硬い。
「近いですね」
「王女か」
俺が聞くと、ノエルは匂いの奥を見た。
「少なくとも、誰かを眠らせ続ける場所です」
その言い方で、リーシャの指が震えた。
ガドが彼女の肩を支え直す。何も言わない。大声を出せない場面だとわかっているのだろう。
廊下の突き当たりに、白い扉があった。
王族の部屋らしく、彫刻は美しい。だが美しさより先に目についたのは、扉の外側にかかった鉄の鍵だった。さらに、壁際にあるはずの呼び紐が外されている。内側から侍女を呼ぶための紐だ。療養中の王族なら、むしろ残しておかなければならない。
扉の下には、白い布片が一つ挟まっていた。
王族用の寝衣に使われる薄布だ。端が裂け、かすかに爪で掻いたような跡が残っている。リーシャが息を呑みかけ、ノエルが肩を押さえた。
今は叫ぶ場面ではない。
俺は扉へ近づき、鍵へ指を触れた。冷たい鉄。新しい傷。何度も外から開け閉めされた跡。
部屋の中からは、何も聞こえない。
ただ、眠り草の甘い匂いだけが、扉の隙間から漏れていた。
「療養部屋に、外鍵は要らない」
その言葉を口にした瞬間、白鐘離宮の嘘が、完全に剥がれた。
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