第8話 旧関所
旧関所は、森の奥で半分だけ崩れていた。
石門の片側は苔に沈み、もう片側には古い王国紋章が雨に削られて残っている。見張り台だった場所は黒い穴になり、そこから落ちる雨粒が、割れた石段を細く叩いていた。
ミラが先頭で膝をつく。濡れた黒髪を首の後ろで束ねたまま、顔ではなく地面を見ている。足跡、折れた枝、踏まれた苔。眠そうな目が、それらを一つずつ拾っていく。
「誰かいる。足跡は一人。右足、引きずってる」
ガドがリーシャの横で声を落とした。リーシャは自力で歩いているが、長くは無理だ。ガドが片腕を空け、すぐ支えられる位置についていた。折り畳んだ担架は片頬が背負っている。王女を運ぶために温存してある。
ミラは濡れた石段の先を見たまま、首を横に振る。
「怪我人じゃない。引きずってるのに、滑ってない。右足を置く場所だけ選んでる」
俺は石段を見た。
雨の中で、足跡の乱れがない。右足を引きずっているのではない。そう見せながら、足場を支配している。
「全員、止まれ」
俺が手を上げると、黒羊の足音が揃って消えた。
石門の下に、女が立っていた。
左目を黒い眼帯で覆い、右足をわずかに引きずっている。白髪混じりの髪を後ろで束ね、古い外套を肩にかけていた。背は高くない。鎧も今どきのものではない。手にしているのは、杖にも鞘にも見える古びた一本。
だが、セリアの足が止まった。
それだけで、俺は喉の奥が乾いた。
「……あの灰狼か」
呟いた声に、女の残った右目がこちらへ動く。
「まだ、その名を覚えている若造がいるとはね」
マルグリット・グレイヴ。
王国騎士団の古い記録で見た名だ。王族の密命を何度も通し、白鐘離宮の古道を知る退役騎士。記録の中では、もう半分伝説に近かった。
セリアが一歩前へ出る。剣は抜いていない。だが、銀髪から落ちる雨粒より早く、間合いだけが詰まった。
次の瞬間、マルグリットの杖が石段を叩いた。
音は軽い。だが、セリアの踏み込むはずだった石がわずかに沈む。苔の下で、古い石板が斜めに逃げた。
セリアの靴先が止まる。
止めさせられた。
王国最強級の女の一歩を、右足を引きずる老騎士が、杖一本で殺した。
「速いね」
マルグリットは片目だけで笑った。
「だが、速いだけなら戦場では先に死ぬ」
セリアの口元が上がる。怒った顔ではない。久しぶりに本物の刃を見た女の顔だった。
「老いてなお、という言葉は嫌いか?」
「老いたから生きている。若いままなら、どこかで首を落としていたよ」
その返しに、セリアは剣の柄へ指を置いた。だが抜かない。今ここで斬る相手ではないと、自分で判断している。
リーシャが旧関所の紋章へ目を向けた。
「この印……王族用の裏門印です。正規の巡察道ではなく、王族を逃がすための古道に使われていたものです」
言いながら一歩出ようとして、苔に足を取られる。俺は腕を伸ばし、細い肩を支えた。彼女は悔しそうに唇を噛む。
「まだ、歩けます」
「倒れるならノエルの許可を取れ」
リーシャは俺の腕を乱暴には振り払わなかった。自分の状態を理解している顔だった。
ノエルが近づき、リーシャの呼吸を見てから短く告げる。
「今の足場は無理です。次の十歩はガドさんが支えてください」
「はい、ノエル先生」
ガドがすぐ横へ入った。大盾を背に回し、片腕でリーシャの重さを受ける。力で抱えるのではなく、歩幅を合わせて支える動きだ。
マルグリットの右目が、その一連の動きを追っていた。
「患者を連れて古道を通るつもりか」
「患者じゃありません」
リーシャがかすれた声で言った。
ノエルの指が彼女の肩に少し沈む。余計に喋るな、という無言の警告だ。リーシャはそれを受けて、言葉を短く切り直す。
「私は、王女殿下の連絡係です」
マルグリットはしばらくリーシャを見た。眼帯のせいで表情は読みにくい。けれど、残った右目が少しだけ細くなる。
「声だけは折れていないね」
「体は折れかけています」
ノエルが静かに言う。
「だから、試すなら早くしてください。長くなるなら、この場で引き返させます」
老騎士の口元がかすかに動いた。
「医者が一番怖い一団か。悪くないね」
ミラが屋根のない見張り台を見上げた。
そこには誰もいない。だが、古い鐘紐だけが雨の中で揺れている。
「右上。紐が動いた。風じゃない」
俺が視線を上げた瞬間、石門の内側で鈍い音がした。
落ちてきたのは小石ではない。
拳より大きい石が三つ。雨を裂いて、リーシャの横、ガドの盾の前、そして俺たちの退路へ落ちてくる。直撃すれば肩は砕ける。足に当たれば、古道どころかこの場で終わりだ。
「ガド、上!」
「おう!」
ガドが盾を跳ね上げた。石が盾に叩きつけられ、鈍い音が関所跡に響く。衝撃でガドの膝が沈んだが、リーシャの前からは一歩も退かない。
ミラの弦が鳴った。
矢は人を狙っていない。雨に濡れた鐘紐を裂き、二度目の仕掛けを止める。古い滑車が空回りし、見張り台の奥で石が止まる音がした。
ノエルはリーシャの肩を押さえ、無理に伏せさせない。呼吸が詰まらない角度だけを選び、ガドの盾の陰へ半歩ずらした。
俺はその動きを見て、ようやくわかった。
殺す罠じゃない。
誰を先に守るか。誰が何を見るか。患者を荷物扱いするか。そういう順番を見ている。
マルグリットは杖を構えたまま、片目でこちらを見ていた。
「荷物を守る盾か。それとも、人を守る盾か。そこを見たかった」
ガドが盾の下から顔を出す。
「人に決まってんだろ」
「なら、少しは通す価値があるな」
マルグリットの視線が俺へ移った。
「あんたは誰を守るためにここへ来た」
「依頼人だ」
そういうとマルグリットは目を細めた。鋭い視線が俺を射抜く。
「王女か」
「王女もだ。だが、今ここで倒れかけている連絡係も、俺の後ろにいる団員も、同じ依頼の中に入っている」
言ってから、少しだけ苦くなる。昔の俺なら、王女の名を一番に出したかもしれない。王国騎士なら、それが正しい。
でも今の俺は黒羊の副団長だ。
マルグリットはセリアへ視線を移す。
「団長。あんたは?」
「黒羊は王宮の犬じゃない。王女の依頼を受けた傭兵団だ。邪魔なら押し通る」
「殺してでも?」
セリアは剣を半寸だけ抜いた。雨粒が刃の端で割れる。
「必要ならな。だが、お前はまだ邪魔ではない。試しているだけだ」
老騎士の笑みが深くなった。
「王女を救うと言う者は多い。だが、途中で倒れた者を荷物に変える連中に、王族の逃げ道は教えられない」
杖が下がる。
マルグリットは右足を引きずりながら横へどき、苔に隠れた石壁へ杖の先を差し込んだ。
鈍い音がして、石門の内側に細い隙間が開く。
「古道は生きている。だが、この道は王族を逃がすための道だ。王宮へ戻すために使えば、血を吸う」
リーシャがガドに支えられながら、開いた隙間を見つめる。
「それでも、王女殿下の言葉を戻さなければなりません」
「声を戻す道か。面白いことを言う娘だね」
マルグリットは片目でリーシャを見て、それから俺へ視線を戻した。
「通しはする。ただし、古道は甘くない。白鐘離宮に近づくほど、王宮の嘘も濃くなる。足を取られるのは泥だけじゃないよ」
セリアが先に細い入口へ向かった。
「望むところだ」
「セリア、道幅を見てから言え」
「見ている。狭い。だから私向きだ」
本当に面倒な団長だ。
ミラが前へ滑るように進み、ガドがリーシャの歩幅に合わせる。ノエルはその横で脈と足元を見ていた。片頬が後ろの足跡を消し、若い団員が折り畳み担架を濡らさないよう油紙で包み直す。
マルグリットは最後に、俺の横を通る時だけ足を止めた。
「騎士団を離れた男にしては、王国の話で顔が動きすぎるね」
懐に入れた第二騎士団の通行印が、雨で濡れた服の内側でやけに重く感じた。
返事が喉に引っかかる。
俺が何か言う前に、彼女は右足を引きずって古道の闇へ入っていく。
旧関所の奥から、湿った風が吹いた。
白鐘離宮へ続く道は、王女へ近づく道であり、俺が捨てたはずの王国へ戻る道でもあった。
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