第7話 灰狼マルグリット
サイラス商会の旧倉庫では、雨音より紙をめくる音の方が大きくなっていた。
サイラスが帳簿を三冊、木箱の上へ並べる。古い納品控え、薬草の搬送記録、白鐘離宮周辺の荷札写し。商人という連中は、危険な話ほど紙の上に逃げ道を作る。そこは王国騎士より信用できる。
「正規の街道は使えません」
サイラスは細い指で地図の北西を叩いた。
「白鐘離宮へ向かう荷道は三つ。王都北門からの表道、薬務馬車が使う林道、古い巡察道。表道は第三巡察隊が戻れば塞がれる。林道は薬務官の印がなければ通れない。つまり、今から行けば首を差し出すようなものです」
アリシアが地図を覗き込む。濡れた外套は脱いでいるが、王国第二騎士団団長の顔は崩れていない。紙の上で王宮の歪みが形になるほど、唇が固く結ばれていく。
「第三巡察隊が戻れば、命令書を後から整えられるわ。そうなれば、今度は正式な追跡になる」
「つまり、今が一番ましな地獄か」
サイラスは嫌そうに頷いた。
「言い方は最悪ですが、内容は合っています」
作業台の横で、リーシャが身を起こそうとして、ノエルに手首を押さえられた。灰鐘薬で意識は戻っている。だが身体は戻っていない。布を握る指は弱く、唇の色も悪い。それでも目だけは、王宮連絡係のものだった。
「白鐘離宮の外周には、薬務馬車を通す小門があります。私はそこから入れられました。けれど、私が逃げたと気づけば、まず小門が塞がれます」
「なら、別の道だな」
セリアが壁にもたれたまま言った。銀の髪はまだ乾ききっていない。軽そうな声なのに、視線は地図、入口、リーシャ、アリシア、サイラスの順に動いている。団長として、誰を連れていくかをもう測っていた。
サイラスは地図の端、ほとんど線が消えかけた場所を指した。
「旧関所跡です。今の地図には載りません。昔、王族が表道を使えない時に通った古道がある」
アリシアの眉が動く。
「旧関所……灰狼の道?」
その名に、セリアの指が剣の柄へ触れた。俺も息を止める。
灰狼。
王国騎士団にいた頃、古い記録で何度か見た異名だ。白鐘離宮周辺の古道を知り、王族の密命を何度も通した退役騎士。名前だけなら伝説だと思っていた。
「マルグリット・グレイヴ」
アリシアが低く言う。
「元王国騎士。今は旧関所のあたりにいるはずよ。王宮から距離を置いているけれど、あの人なら古道を知っている」
「王宮から距離を置いた騎士か。いい響きだな」
セリアが小さく笑う。アリシアはすぐに首を振った。
「気難しい人よ。傭兵を見て素直に道を開けるとは思えない」
「なら、開けさせればいい」
「セリア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は肩をすくめた。
「殺すとは言ってない。試されるなら、試されればいいだけだ」
軽口のようで、判断は早い。表道が駄目で、林道も塞がれる。古道に案内が必要なら、そこへ行くしかない。
ミラが梁の下で弓の弦を確かめながら、眠そうに口を挟んだ。
「旧関所なら森が深い。馬は減らした方がいい。車輪もたぶん邪魔」
「担架は王女殿下に使う」
ノエルが先に言った。
ガドが板へ伸ばしかけた手を止める。王女を救い出すなら、運ぶ道具は温存しなければならない。リーシャはそれを理解して、悔しそうに布を握り直した。
「私も……行きます」
かすれた声だったが、目は逃げていない。
「殿下の部屋へ続く廊下、薬を運ぶ者の顔、小門の内側の鍵。私が知っています。ここで寝ていたら、私は王女殿下の連絡係ではなくなってしまいます」
ノエルはすぐには答えなかった。
リーシャの手首に指を添えたまま、脈を数える。次に額へ触れ、呼吸の浅さを確かめた。医者としては、連れていくべきではない。そんなことは、彼女の沈黙だけでわかった。
「……本当は、寝かせておきたいです」
ノエルの声は静かだった。けれど、いつもの冷たさとは少し違う。怒っているのではなく、選びたくない選択肢を選ぶ声だった。
「ですが、白鐘離宮の中を知っているのはリーシャさんです。無理を承知で、ついてきてもらいます」
リーシャの目が揺れた。許されたのではない。任されたのだと、遅れて理解した顔だった。
「歩けます。剣も、一応は扱えます。王宮連絡係として、護身の訓練は受けています」
ミラが、眠そうに視線だけを向ける。
「型は綺麗そう。でも森では転ぶ」
リーシャは悔しそうに唇を結んだ。
「……否定は、しません」
俺は彼女の手を見た。剣を握ったことはある。指の置き方も悪くない。けれど、雨の泥、暗い森、殺す気で迫る相手を相手にした手ではなかった。
「敵を倒そうとするな。剣を抜くなとは言わない。だが、戦うためじゃない。自分の足を止めるな。俺たちが動くための一呼吸を作れれば十分だ」
リーシャは少しだけ目を見開いた。守られるだけではないと言われたことを、遅れて理解した顔だった。
ノエルはその反応を待ってから、リーシャの手首を離した。
「条件があります。長く歩かない。走らない。勝手に話さない。息が浅くなったら休ませます。脈が乱れたら、その場で止めます。足場が悪い場所はガドさんが支えてください」
「はい」
「返事も最小限で。体力を使います」
「……はい」
「それもです」
ガドが小声で若い団員に囁く。
「ノエル先生、王宮の人にも容赦ねえな」
「聞こえています」
「はい!」
リーシャの目元が少しだけ緩んだ。
俺は地図へ視線を戻す。
「人員を絞る。俺、セリア、ガド、ミラ、ノエル、リーシャ。片頬と若いのを一人ずつ。残りは倉庫と荷を守れ」
「副団長、俺たち留守番ですか」
他の団員が不満そうに言ったが、もう荷紐を締め直している。不満は言う。手は止めない。黒羊らしい。
セリアが入口へ歩き、雨の匂いを吸い込む。
「私が前に出る。レオは道と口を見ろ。ミラは先行、ガドはリーシャ、ノエルはその横。片頬は後ろを消せ」
団長の命令は短い。だが、それで十分だった。縄、外套、油紙、薬箱、折り畳んだ担架。倉庫の中が出発前の音へ変わる。
アリシアはその様子を見ていた。
「私は同行できないわ」
言う前からわかっていた。第二騎士団団長が一緒に消えたら、王宮側に警戒される。彼女は王都に残り、第三巡察隊への命令の出所を調べるべきだ。
「助かる」
俺が言うと、アリシアは少しだけ目を逸らした。
「あなたを助けるためじゃない。王国の命令がおかしくなっているなら、騎士として放っておけないだけ」
「そういうところは変わらないな」
「あなたもね。面倒を拾うところは、昔から変わっていない」
セリアが振り返った。
「昔話はそこまでだ。今のレオは黒羊の副団長で、これから私の仕事に出る」
アリシアの目が細くなる。だが、今度は言い返さなかった。代わりに、俺へ小さな布包みを投げる。中には王国第二騎士団の簡易通行印が入っていた。
「見せる相手は選んで。使い方を間違えれば、逆に足がつく」
「わかってる」
「昔のあなたは、わかってると言って一人で抱えたわ」
返す言葉が詰まる。
その隙に、セリアが布包みを俺の手からひょいと奪い、懐へ押し込んだ。
「今は一人じゃない。余計な心配は王都でやれ、第二騎士団長」
アリシアはセリアを見た。
雨の前の冷たい風みたいに、二人の間が張る。けれど、リーシャが小さく息を乱した瞬間、二人とも同時に視線を外した。
優先順位は、間違えない。
そこだけは似ているのかもしれない。
サイラスが帳簿を閉じた。
「旧関所へ向かうなら、水車小屋の裏の獣道を使ってください。古い荷運び道に繋がっています。あと、私の倉庫を壊した場合は請求します」
「王女案件でもか」
「王女案件だからです」
ミラが外から戻ってきた。
「雨、弱くなった。今なら足音が消える」
ノエルがリーシャに布をかけ、ガドが彼女の横へ膝をつく。肩を貸す位置、足場の悪い場所で抱える角度を、ノエルに目で確認していた。折り畳んだ担架は片頬が背負う。あれは王女のために残す。
俺は地図の上、旧関所の消えかけた印を見た。
灰狼マルグリット。
本当にそこにいるのか。会ったところで道を開くのか。どちらもわからない。だが、表の道は塞がれた。なら、古い狼の道を借りるしかない。
「行くぞ」
俺が言うと、セリアが雨の向こうへ歩き出した。
黒羊傭兵団は、王宮に縛られない。
だからこそ、王宮の裏道へ踏み込める。
旧関所へ向かう雨の道は、白鐘離宮より先に、伝説と呼ばれた女のもとへ続いていた。
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