第3話 アリシア・レインハルト
「その荷台にあるのは、ただの薬草じゃないわね」
アリシア・レインハルトは、馬上からそう言った。
雨はまだ細く降っている。街道の泥には、倒された騎士の膝跡と、荷馬車の轍が重なっていた。王国騎士団の赤い旗は揺れているが、さっきまでの勢いはもうない。
アリシアの視線は、俺ではなく荷台に向いている。
昔からそうだ。こいつは、人の言い訳より先に現場を見る。
「薬草は入ってる」
「……嘘はついていない、という顔ね」
「当たり前だろ。傭兵は信用商売だからな」
「あなたがそれを言うの?」
雨より冷たい声だった。
隣でセリアが剣を下げたまま笑う。鞘へ戻してはいない。アリシアの馬、後続の騎士、荷台、ノエルの位置。全部を見たうえで、俺の半歩横に立っている。
「黒羊傭兵団長、セリア・ヴァンレット」
「知っているなら話が早い」
「評判は聞いているわ。任務達成率は高い。けど態度は悪い。騎士団からの評判は、さらに悪い」
「正確だな」
「褒めていないわ」
二人の間に、雨とは別の温度が生まれる。ガドが大盾の陰で口を開きかけたが、荷台の奥からノエルの視線が飛び、すぐ閉じた。
アリシアは馬を降りた。泥に靴が沈む。それでも背筋は崩れない。濡れた金髪を後ろで結び、左手は剣から少し離している。
「レオ。荷台を改めさせて」
「命令書は?」
「……今は持っていない」
後続の騎士たちがざわつく。アリシアは振り返らない。自分の不利を隠そうともしなかった。
「だから、命令ではなく確認として頼んでいる。王宮連絡係が一人、行方不明になっているの。王宮内では“逃亡”扱いになっているけれど、私はそうは見ていない」
俺はすぐには返さなかった。荷台の奥で、ノエルが布を押さえ直す音がした。ミラは荷馬車の屋根で弓を低く構え、後続騎士の肩と馬の耳を見ている。
アリシアは一歩近づいた。
「さっきの五人は、命令の中身を知らなかった。けれど、職務で動いていた。そこをあなたに止められたわ」
倒れている若い騎士が、泥の中で唇を噛む。
「……そういうところよ、レオ」
「何がだ?」
「剣を抜く前に、命令の節穴を見る。相手の足元を払ってから、ようやく剣を使う。昔から、あなたはそうだったわ」
「泥道だったからな」
「そういう話に逃げるところも、昔から変わらない」
言い返せなかった。
後続の若い騎士が、倒れた仲間と俺を見比べる。
(王国式を、読まれたのか?)
声には出ない。だが、顔に出ていた。
荷台の奥で、女がかすかに呻いた。ノエルがすぐに布を押さえる。眼鏡の奥の目だけが鋭くなった。
「患者を見世物にしないでください」
静かな声だった。だが、後続の騎士が一歩引いた。
アリシアはノエルを見た。傷口、血の量、薬草袋の位置、盾で作られた死角。その全部を、短い視線で確認する。
「あなたは、軍医?」
「黒羊の医者です」
「そう……彼女は生きているの?」
「非常に危ない状態ですが……今は」
アリシアの表情が少しだけ崩れた。
安堵だった。ほんの一瞬だけ。
「やっぱり、知っているのか?」
俺が言うと、アリシアの唇が硬くなる。
「確証はないわ。でも、王宮連絡係のリーシャ・エルネストが昨夜から消えた。宰相府は逃亡だと言った。第一王子派の官吏は、彼女が機密を持ち出したと騒いでいる」
リーシャ。
ようやく名前が出た。
荷台の奥で、女の指がわずかに動く。ノエルがそれを見逃さず、すぐに脈を取った。
「意識が戻りかけています」
「驚いた……戻せるの?」
(あの短時間で、この医療技術……?)
ノエルは小瓶を持ったまま、表情を変えない。
「戻すのではありません。死なせないだけです」
ガドが小さく頷く。
「ノエル先生が言うなら、そうなんだろ」
「ガドさん。盾を下げないでください」
「はい!」
即答だった。アリシアの後ろにいた騎士が目を丸くする。
アリシアはその反応まで見ていた。
「……荒っぽいだけの傭兵団だと思っていたわ」
ガドは盾を下げない。ミラは屋根の上から視線を外さない。片頬の団員は縛った騎士の手首をきつく締めすぎないよう調整し、若い団員は馬の鼻先を落ち着かせていた。
「訂正するわ。あなたたち、思ったより厄介ね」
「評判よりはな」
セリアが横で笑った。
「評判を悪くしているのは私らしいぞ」
「ああ、ほぼ事実だ」
「レオ、あとで覚えておけよ」
「今のは団長本人の証言だろうが」
片頬の団員が笑いそうになり、若い団員に肘で止められた。
アリシアは荷台の幌へ近づいた。
ガドが盾を半歩動かす。威嚇ではない。患者を守るための壁だ。アリシアはそれを見て、足を止めた。
「無理に開ける気はないわ」
「なら、どうするんだ?」
「その子がリーシャ・エルネストか確認する。もしそうなら、第三巡察隊の追跡命令はおかしい」
後続の若い騎士が声を上げた。
「レインハルト殿! しかし、王宮からは逃亡者と命令が――」
「誰の?」
若い騎士の口が閉じる。
「命令書は見た?」
「それは……」
「署名はあるの?」
さらに沈黙。
アリシアはようやくそちらを向いた。
「答えられない命令で、人を追わないで!」
その一言で、場の空気が変わる。
「王国騎士は、王の剣よ。王宮の誰かの都合で振り回される棒じゃないわ」
そうだ。アリシアはこういう女だった。
正しすぎる。融通が利かない。損得で黙れない。だから、騎士団の中でも面倒だった。だが、こういう場面でその面倒さは武器になる。
荷台の奥でリーシャが咳き込んだ。ノエルがすぐに身体を支える。血の匂いがほんの少し雨に混じり、アリシアの顔色が変わる。
「リーシャ?」
女のまぶたが震える。ノエルはアリシアを見ずに言った。
「呼ぶなら静かに。今の彼女は、話す力が残っていません」
アリシアは強く唇を噛んだ。それから膝をつく。泥に沈むのも気にしなかった。
「……リーシャ。聞こえる?」
リーシャの目が薄く開いた。
焦点は合っていない。それでも、声の主を探すように瞳が動く。
「……アリ、シア……さま……」
後続の騎士たちが息を呑んだ。
(逃亡者じゃない)
若い騎士の顔から、さっきまでの勢いが消えた。
アリシアの手が、泥の上で握られる。
「誰に追われたの?」
リーシャは答えようとした。だが、喉が引きつり、声にならない。ノエルがすぐに肩を押さえる。
「今は無理です」
「でも、少しだけでも――」
「今、喋らせれば死んでしまいます」
短い一言だった。アリシアは黙った。
リーシャの指が動いた。俺の懐を示している。
アリシアの視線がそこへ向く。
「レオ。何を持っているの?」
「預かっただけだ」
「誰からなの?答えなさい!」
俺は答えず、封筒を出した。
赤い封蝋は雨で崩れている。だが、王家の紋章は残っていた。
「王家の封蝋……」
空気が一段重くなる。
アリシアは封筒へ手を伸ばしかけて、止めた。
「開けた?」
「いや、まだだ」
「なぜ?」
「開ければ、俺たちが無関係だった証拠が無くなる」
「もう言えないでしょう」
「正論だ。たしかにもう言えないな」
俺が答えると、アリシアはほんの少しだけ目を伏せた。
「白鐘離宮」
俺が言うと、アリシアの肩がかすかに揺れた。
「その名を、どこで」
「リーシャが言った。王女殿下を、ともな」
雨音の中で、アリシアの呼吸が止まった。
騎士としての顔が崩れたのは、一瞬だけだ。だが、その一瞬で十分だった。
「第三巡察隊を下げろ」
俺が言うと、アリシアはすぐには答えなかった。
倒された騎士、縛られた手綱、濡れた旗、荷台のリーシャ。命令と現実が噛み合っていない場を、一つずつ見ている。
「レオ。私はあなたたちを見逃すとは言っていない」
「だろうな」
「でも、ここで荷台を押収するのは間違っている」
先頭の若い騎士が顔を上げる。
「レインハルト殿!」
アリシアはその騎士へ向き直った。
「第三巡察隊は、負傷者を収容。馬を下げなさい。命令書の確認が取れるまで、荷台への強制接触を禁じます」
「しかし!」
「これは第二騎士団アリシア・レインハルトの判断です。異議があるなら、王都に戻って正式に出しなさい」
声は高くない。だが、騎士たちは黙った。
セリアが小さく笑う。
「やるじゃないか、昔の面倒」
「セリア……やめろ」
「褒めている」
「今の言い方でか? 勘弁してくれ」
アリシアはセリアを見た。
「私はレオの面倒な女ではありません!」
「本当にそうか?」
「ええ。違うわ!」
思ったより強い声だった。
アリシア自身も気づいたらしく、ほんの一瞬だけ口を閉じる。ミラは屋根の上で聞こえないふりをした。ノエルはリーシャの処置に集中しているように見えて、口元だけ少し動いた。
アリシアの耳が、ほんの少し赤くなる。
「……今、それを言う場面じゃないでしょう」
「それは同意する」
俺は封筒を懐へ戻した。
「レオ。白鐘離宮へ行くつもり?」
「どうするかはまだ決めてない」
もちろん嘘だった。セリアが横で肩を揺らす。
「あなた、昔から嘘が下手ね」
「それは初耳だ」
「昔からそうだったわ。平気な顔をして、誰より先に逃げ道を探していた」
セリアの視線がまた刺さった。
(逃げ道、ね)
たぶん、声には出していない。だが、銀色の目がそう言っていた。
「お前たち、今はやめろ」
情報は揃ってきた。足りないのは、王宮に戻るか、王宮を避けるかの判断だ。
アリシアは馬の手綱を取った。
「私は王都へ戻って命令書を確認する。第三巡察隊には、あなたたちを追わせない」
「助かる」
「勘違いしないで。あなたを助けるわけじゃない」
「わかってる」
「リーシャを死なせないで」
その声だけは、騎士ではなく、知人を案じる女のものだった。
ノエルが荷台の奥から短く返す。
「死なせません」
アリシアはノエルを見て、ほんのわずかに頭を下げた。
最後に俺を見る。
「レオ。今度は逃げないで」
雨が、言葉の間に落ちる。
昔の話だと、すぐにわかった。
国境谷。報告書。俺が王国騎士団を去った日。あの時、アリシアは何か言いたげだった。俺は聞かなかった。
「今は、荷台の患者が先だ」
「そうやって、また真ん中に立つのね」
「好きで立ってるわけじゃない」
「知ってる」
アリシアは馬へ乗った。
第三巡察隊へ短く指示を飛ばし、負傷者を下げさせる。さっきまで黒羊へ剣を向けていた騎士たちも、今はその命令に従っている。
セリアが俺の隣で、低く言った。
「いい女だな」
「騎士としてはな」
「そこだけか?」
「頼むから、今それを掘るな」
セリアは答えず、雨の向こうへ去るアリシアを見送った。笑っているようで、目は少しも笑っていない。
リーシャが荷台の奥で小さく息を吐く。
ノエルが処置へ戻り、ミラが王都側の道を見た。
「追手、下がる。でも完全には消えない」
「十分だ。今のうちに動く」
王都へ戻れば王宮の網にかかる。白鐘離宮へ直行すれば、何が待つかわからない。
だが、荷台の女は王女の名を出した。
なら、先に聞くべき相手がいる。
「サイラス商会の旧倉庫へ向かう。王都の正門は使わない。裏道で入る」
片頬の団員が手綱を握り直した。
「副団長、また面倒な道ですね」
「面倒じゃない道があるなら、俺も見てみたい」
セリアが剣を鞘へ戻す。
「黒羊向きだな」
雨の街道で、荷馬車が動き出す。
王国騎士団の赤い旗は、後ろで小さくなっていく。だが、完全に離れたわけではない。王宮の命令も、アリシアの視線も、リーシャが握っていた王家の封蝋も、全部こちらについてきている。
白鐘離宮。王女殿下。
雨の街道で拾った名前が、俺たちを王宮の奥へ引きずり込み始めていた。
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