第2話 王国騎士
王国騎士団の赤い旗が、雨の向こうに見えた。
王都側から騎馬が五騎。先頭の騎士は槍を立て、後続は馬の歩幅を揃えている。盗賊を探す動きではない。誰かを追ってきた隊列だ。
俺は荷台の幌を一度だけ見た。
奥には、泥と血にまみれた王宮連絡係の女がいる。王家の封蝋を握り、白鐘離宮と王女殿下の名を口にした女だ。騎士団が探しているのが彼女なら、ただの逃亡者では済まない。
「片頬、荷馬車は止める。ただし車輪は轍から抜くな。すぐ動かせる位置に置け」
御者台の片頬に傷のある団員は、返事より先に手綱を絞った。荷馬車はぬかるみの浅い場所で止まり、いかにも荷崩れしかけたように傾く。芝居がうまい。普段から荷崩れ寸前の仕事が多いせいかもしれない。
「若いの、薬草袋を前へ。血の匂いを潰せ。ガドは荷台の右。ミラは屋根から馬の足を見る。ノエルは女を奥へ」
黒羊はすぐ動いた。
若い団員が濡れた薬草袋を開き、青臭い匂いを荷台へ広げる。ガド・バルガスは大盾を背負ったまま、荷馬車と騎士団の間へ入った。ミラ・レイヴンは屋根の上で弓を低く構え、眠そうな目で馬の足元と騎士の手綱だけを見ている。
ノエル・ファルマは荷台の奥で、女の傷口に布を当て直した。淡灰色の髪を後ろでまとめ、細い眼鏡の奥で患者の呼吸を見ている。雨が強くても、あの白い指は止まらない。
「ノエル先生、その人、動かして平気か?」
ガドが声を落とした。いつもなら雑に響く声が、ノエル相手だと妙に素直になる。
「揺らさないでください。逃げるなら荷台ごとです。ガドさんは右側を塞いで。剣より馬を近づけないことを優先してください」
「はい!」
ガドは大盾の革紐を握り直し、身体の向きを変えた。盾を抜く前から、あの身体はもう壁になる。ノエルの判断を疑わないのは、黒羊の中では生存術に近い。
騎馬が近づいてくる。
先頭の騎士が馬を止めた。雨で濡れた兜の下から、若い顔がこちらを見る。緊張している。だが、命令に従っている目だ。
「王国騎士団第三巡察隊である! その荷を改める!」
声は張っているが、急ぎすぎていた。
俺は一歩前へ出る。泥が靴底を掴む。王国騎士だった頃なら、ここでまず所属と通行証を出した。だが、今は黒羊の副団長だ。王国の手順は知っているが、従う義理までは売っていない。
「黒羊傭兵団、副団長レオ・グレイン。サイラス商会の薬草配送中だ。荷改めなら命令書を見せろ」
騎士の眉が動いた。
「レオ・グレイン……?」
後続の騎士の一人が、小さく名を繰り返した。知っている声だった。俺本人ではなく、王国騎士団に残った噂を知っている声だ。
先頭の騎士がそいつを睨む。
「黙れ」
だが、その一瞬で十分だった。
俺の名は、まだ王国騎士団のどこかに残っている。良い形か悪い形かは知らない。たぶん、ろくな形ではない。
「命令書は後で確認できる。今は逃亡者の捜索が優先だ」
「後で確認できる命令書は、今ここでは存在しないのと同じだ」
後続の騎士が手綱を握り直した。馬が首を振る。騎手の焦りが手綱から伝わっている。
ミラが屋根の上で小さく呟いた。
「馬、迷ってる。騎手の足が焦ってるから」
その声を拾ったガドが、盾を抜かずに半歩だけ前へ出る。大きな体が馬の視界に入った。威圧するのではなく、馬に進みたくない理由を与える位置だ。
「ミラ。見える範囲は?」
「五騎。後ろに増援の音はまだない。大熊の右、馬が嫌がってる」
「大熊言うな……いや、今は言っていい」
ガドは文句を飲み込み、盾の角度を少し変えた。ミラの声に従うのは不服そうだが、動きは早い。
先頭の騎士は苛立ちを隠せなくなった。
「王宮より逃亡した女を捜索している。荷を改める。抵抗すれば、王命への妨害と見なす」
王宮より逃亡した女。
王宮連絡係の紋章紐をつけ、王家の封蝋を握った女を、こいつらはそう呼んだ。
「王宮より、か」
俺はわざと間を置く。
「なら、誰の王命だ。国王陛下か、宰相府か。それとも、王宮の誰かがそう言っただけか」
先頭の騎士が口を閉じた。
後続の一人が、わずかに視線を落とす。
知らされていない。少なくとも、現場の騎士は命令の中身を理解していない。悪党の顔ではない。命令に追われている顔だ。だから余計にまずい。王国騎士が、自分の追っている相手の意味も知らずに動かされている。
セリアが俺の少し後ろへ来た。
銀髪は外套の中に隠れている。けれど、雨の中でも存在感までは隠せない。剣に手は置いていないが、先頭の騎士、後続の馬、荷台、ノエルの位置まで見ている。
「レオ。あれ、話で止まる顔か?」
「命令の意味を知らない顔だ。だから止まらない」
「なら?」
「殺すな。追い返すだけでいい」
セリアの口元が少しだけ上がる。
「注文が細かい副団長だな」
「団長が大雑把すぎるんだ。王宮絡みは、死体より証人の方が高くつく」
その言葉で、セリアの笑いが薄くなった。守るものが薬草から人に変わったことを、彼女ももう理解している。
後続の一騎が馬を前へ出した。荷台の左へ回り込むつもりだ。速いが、雨の泥道には慣れていない。石畳の上なら通じる動きでも、ここでは遅れる。
ミラの弦が鳴った。
矢は騎士を射ていない。馬の前足のすぐ手前、ぬかるみに突き刺さる。馬が反射で足を止めた。騎士が手綱を引きすぎ、馬体が横へ流れる。
「馬が悪いわけじゃない」
屋根の上で、ミラが淡々と言う。黒髪の先から雨粒が落ち、弓を持つ指だけがぶれない。
「騎手が雑」
その言葉が終わる前に、ガドが動いた。
大盾を抜き、盾の面を馬ではなく騎士の進路へ向ける。押し潰すのではない。進めない壁を置く。騎士が剣を抜こうとした瞬間、ガドの肩が盾ごと入り、騎士の膝を馬腹から浮かせた。
「ここから先は荷台だ。馬も人も通さねえ!」
ガドの声と同時に、片頬の団員が荷台から縄を投げた。剣腕ではなく、手綱を持つ手の上から巻く。馬を傷つけず、人の動きだけを止めるやり方だ。黒羊は陽気だが、こういう時の手は早い。
先頭の騎士が剣を抜いた。
「貴様ら、王国騎士団に逆らうか!」
「逆らっているんじゃない」
俺は抜きかけた剣を、あえて鞘ごと低く構える。
「命令書を出さずに荷を奪おうとする騎士を、街道で止めているだけだ」
言い終える前に、別の騎士が踏み込んできた。馬から降り、剣で俺の肩を狙う。型は悪くない。王国式の基本に忠実だ。昔の俺なら、同じ型で受けただろう。
今は違う。
俺は半歩だけ外へずれ、相手の踏み込みを空振りさせた。騎士の靴がぬかるみに沈む。刃が少し遅れる。俺は剣を抜かず、鞘で相手の手首を叩いた。骨ではなく、握りを崩す角度だ。
騎士の剣先が落ちる。そこへ膝を入れ、肩で押す。騎士は泥へ倒れた。すぐには立てない。
「傭兵風情が……!」
泥の中から、騎士が歯を食いしばる。若い。腹立たしいほどに若い。命令の裏に何があるかなんて、考えたこともない顔だ。
「傭兵だから、命令書の重さくらいは知っている」
後続の騎士が息を呑んだ。
今の動きは、王国式の剣を知っている者ほど気づく。正面から受けるのではなく、型の踏み込みを半歩だけ外して崩した。王国騎士団の訓練場では教えない動きだ。だが、王国式を知らなければ、ここまで簡単には崩せない。
「元騎士……本当に」
誰かが呟いた。
その声を、先頭の騎士が怒鳴り潰す。
「黙れ!」
セリアの剣が雨を切った。
抜いた瞬間、周囲の騎士の目がそちらへ持っていかれる。銀髪の団長は、正面から斬り込んできた騎士の剣を受けなかった。刃の腹を浅く滑らせ、肘の内側へ軽く線を入れる。深くない。だが、剣を振る力だけが抜けた。
もう一人が背後から入る。
セリアは振り返らない。踏み込みだけで相手の間合いを外し、剣の峰で胸甲を叩いた。騎士は息を詰まらせ、膝から泥へ落ちる。
「団長、王宮相手だから丁寧にって言われてませんでした?」
片頬の団員が縄を引きながら言う。セリアは倒れた騎士の剣を足で遠ざけ、濡れた前髪を払った。
「丁寧だろう。首は繋がっている」
「基準が物騒なんですよ」
その軽口の間にも、片頬は騎士の手首を縛りすぎない強さで固定し、若い団員は馬の鼻先を落ち着かせている。笑いながら、後始末まで同時に動く。黒羊らしい雑さと熟練が同じ場所にあった。
荷台の奥で、女がわずかに呻いた。
ノエルがすぐに布を押さえる。穏やかな顔のままだが、指の動きが少し速くなった。
「レオさん。これ以上、荷台を揺らすなら、患者より先にあなたを診ます」
「脅し方が独特だな」
「忠告です」
ガドが盾を構えたまま、こちらを見ずに言った。
「副団長、ノエル先生の忠告は命令書より重いぞ」
「知ってる。お前を見ればな」
ガドは反論せず、盾を少し低くして荷台への視線を切った。ノエルが望んだ動きだ。患者を隠すのではなく、敵が見ようとする線だけを潰している。
先頭の騎士の顔が変わった。
こちらの人数と配置を、ようやく見たのだろう。騎士団は五騎。こちらは荷馬車三台と傭兵十数人。しかも荷を守る準備は終わっている。騎士たちは命令書を持たず、追っている相手の意味も知らない。
「退け」
俺は先頭の騎士に言った。
「命令書を持って出直せ。王宮の誰が、何を理由に、誰を捕らえろと言ったのか。そこまで書かれた紙を持ってくるなら、話は聞く」
騎士は唇を噛んだ。退きたい。だが、退けば任務失敗になる。そういう顔だ。現場の騎士としては同情できるが、荷台の女を差し出す理由にはならない。
その時、雨の向こうから新しい蹄音が聞こえた。
一騎。
だが、さっきの騎士たちとは違う。馬の足が迷っていない。泥を避けるのではなく、深さを読んで踏んでいる。乗り手の腕がいい。
ミラが屋根の上で目を細めた。
「追加。一騎。速い。騎士だけど、あの五人とは違う」
俺の背中に、冷たいものが走る。
雨の向こうから現れた騎士は、黒い外套を翻して馬を止めた。兜はかぶっていない。濡れた金髪を後ろで結び、背筋は崩れない。鋭い青の目が、倒れた騎士、泥に沈んだ剣、荷馬車、黒羊の配置を順に拾っていく。
その目が、最後に俺で止まった。
「……レオ」
懐かしい声だった。
名前を呼ばれただけで、俺の指が鞘の上で止まる。王国騎士団の訓練場、国境谷の報告書、俺を責める前に最後まで理由を聞こうとした目。置いてきたものが、雨の中で一気に戻ってくる。
敵の増援より、昔の同僚の方が厄介な時がある。
「アリシア‥‥」
呼び返すまでに、少し遅れた。
アリシア・レインハルト。王国騎士団にいた頃、俺が報告書を濁すたびに、最後まで理由を聞こうとした女だ。正しすぎて、何度も胃が痛くなった。
アリシアは馬上から俺を見下ろしていた。
怒っている。たぶん、それだけではない。俺が無事だったことに一瞬だけ息をつき、その直後に、そんな自分へ腹を立てた顔だった。
「レオ、あなた相変わらず面倒な場所にいるのね」
「好きでいるわけじゃない」
「昔からそう言って、真ん中に立っていたわ」
言い返そうとして、やめた。否定できなかったからだ。
セリアが俺の隣で静かに剣を下げた。下げただけだ。警戒を解いたわけではない。俺とアリシアの間に流れた空気を見て、銀色の目が少し細くなる。
「知り合いか?」
雨音の中で、セリアの声が妙に近かった。
「昔の同僚だ」
「昔、ね」
その一言に、余計な棘が混じっていた。
アリシアの視線がセリアへ移った。
雨より冷たいものが、二人の間でぶつかる。
「あなたが黒羊の団長?」
「そうだ。そっちは、レオの昔の面倒か」
「面倒?」
アリシアの眉が動く。俺は頭が痛くなった。
「セリア、今それを広げるな」
「広げたのは私じゃない。お前の過去だ」
最悪の正論だった。
アリシアは一瞬だけ俺を見て、それから荷台へ視線を移した。
騎士としての顔に戻るのが早い。けれど、戻る直前、唇がわずかに強く結ばれたのを俺は見逃せなかった。
「その荷台にあるのは、ただの薬草じゃないわね」
王国騎士らしい、逃げ道のない声だった。
俺は深く息を吐く。
雨の日の面倒は、ひとつでは終わらない。
今回は、王国の闇だけじゃない。
俺が置いてきた過去まで、馬に乗って追いついてきた。
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