第1話 雨の街道の女
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雨の街道に、妙な跡が残っていた。
馬の蹄でも、荷車の轍でもない。片方だけの靴跡が、泥の上で何度も乱れている。途中で膝をついた跡があり、そこから森の縁まで血が薄く伸びていた。
俺は荷馬車の横で手を上げた。
「止まるな。速度だけ落とせ」
御者台の片頬に傷のある団員が、返事より先に手綱を引いた。荷馬車は大きく揺れず、ぬかるみの浅い側へ逃げる。
「若いの、後ろの轍を崩せ。追手が来た時、うちの人数を読ませるな」
「了解、副団長。薬草配送って、こんな血の跡まで拾う仕事でしたっけ?」
「依頼書には書いてなかったな」
薬草袋の匂いが雨で湿っている。
荷馬車三台。黒羊傭兵団十二人。割のいい仕事ではない。だが、雨の中で血を流して倒れている人間まで、依頼書には載っていなかった。
「レオ。前方、木陰」
荷馬車の屋根から、ミラ・レイヴンが声を落とした。
小柄な斥候兼弓手だ。黒髪を首の後ろで雑に束ね、濡れた外套の下で弓を抱えている。眠そうな顔をしているが、見ている場所は俺たちとは違う。折れた草、乱れた泥、森の縁に引きずられた血の線。
「一人。片方の靴が途中で脱げてる。走って、転んで、最後は這った」
「追われてるな」
「たぶん。まだ近くに追手はいない。でも、血は新しい」
それで十分だった。
「ガド、荷馬車と森の間に入れ。盾はまだ構えるな。相手を怯えさせる」
「おう!」
ガド・バルガスが大盾を背負ったまま前へ出た。大柄で粗野な男だが、足は速い。身体を道の真ん中ではなく、荷馬車の横へ置く。逃げ道を塞がず、こちらを守れる位置だ。
「ノエル先生の前で転ぶなよ」
「副団長、それは俺への心配か?」
「患者が増えると困る」
最後尾の荷馬車から、静かな視線が飛んできた。
ノエル・ファルマは淡灰色の髪を後ろでまとめ、細い眼鏡の奥からこちらを見ていた。濡れた外套の下には薬箱。穏やかな顔をしているが、黒羊の団員は全員知っている。戦場で一番逆らってはいけないのは、この軍医だ。
「ガドさん。雨で冷えています。無駄に動くと傷めますよ」
「まだ怪我してねえ……いえ、してません」
「なら、そうならないようにしてください」
「はい、ノエル先生」
若い団員が笑いかけて、すぐに荷紐を締め直した。黒羊は軽口を叩く。だが、手は止めない。
「レオ」
先頭の馬の横から、セリア・ヴァンレットが振り返った。
銀色の髪が濡れた外套からこぼれ、肩に貼りついている。腰の剣にはまだ触れていない。だが、彼女の立つ位置だけで、先頭の団員たちは少し背筋を伸ばした。
黒羊傭兵団長。
王国でも指折りの剣士で、依頼達成率は高い。ついでに、依頼主への態度が悪いせいで評判も悪い。
セリアは血の跡だけを見ていなかった。ガドの位置、ミラの視線、ノエルの薬箱、荷馬車の間隔。全部を確認してから、俺へ言った。
「拾えば、追手も来るぞ」
「もう血の跡を見た。見なかったことにはできないだろ」
セリアの口元が少しだけ上がった。
「黒羊らしくない綺麗な言い方だな」
「綺麗じゃない。後で知らなかったと言えなくなっただけだ」
「なら、確認するか」
森の縁で、泥まみれの布が動いた。それは女だった。
茶色の髪は雨と泥で頬に貼りつき、上等な外套は裂けている。年は二十前後。侍女にしては服地が良い。貴族令嬢にしては、泥の中を這った跡が生々しい。
彼女の手首に、細い紋章紐が残っていた。王宮連絡係のものだ。
王宮連絡係が、護衛も馬もなしに街道へ捨てられている。
ありえない。少なくとも、昔の王国騎士団なら絶対にやらない。
俺はレオ・グレイン。黒羊傭兵団の副団長で、昔は王国騎士団にいた。
だから、王宮の人間がどう扱われるべきかも、命令がどんな形で歪むかも、少しくらいは知っている。
「ノエル」
呼び終わる前に、ノエルは荷台を降りていた。女の横へ膝をつき、首筋に指を当てる。次に呼吸、傷口、手の冷たさを確かめた。
その横顔が少しだけ険しくなる。
「生きています。けれど、長くは持ちません。ガドさん、盾を。雨と街道側の視線を切ってください。ミラさん、森の奥を」
「はい、ノエル先生!」
「見てる。追手、まだ遠い。でも来る」
ガドが大盾を立て、女の身体を街道側から隠す。ミラは屋根の上で低く伏せ、森の奥と王都側の道を交互に見た。
ノエルは薬箱を開き、止血布と小瓶を迷わず取り出す。もう処置は始まっていた。
女が薄く目を開けた。灰色がかった瞳が、俺ではなく、荷馬車の横にある黒羊の紋章を見た。
「……黒、羊……」
「喋るな。生きたいなら、今は黙ってろ」
ノエルの視線が横から刺さった。
「レオさん。言い方」
「……助ける。だから黙ってろ」
女の唇が震えた。安心ではない。焦りだ。彼女は震える指で、裂けた外套の内側を探った。俺が止めるより先に、小さな封筒が出てくる。
赤い封蝋は雨で滲んでいた。だが、王家の紋章は読めた。セリアの笑いが消えた。ミラが屋根の上で姿勢を低くする。ノエルの指も、一瞬だけ強くなった。
王家の封蝋。王宮連絡係。追われて倒れた女。偶然で済ませるには、材料が揃いすぎていた。女は封筒を俺へ押しつけた。指に力は残っていない。それでも、離そうとしない。
「白……鐘……離宮……」
セリアの目が細くなる。
「王女、殿下……を……」
そこまで言って、女の意識が落ちた。
白鐘離宮。
王都の北西にある、王族の静養地だ。王族を休ませる場所でもあり、表に出したくない人間を遠ざける場所でもある。
俺は封筒を握ったまま、王都側の道を見た。雨の向こうから、馬の蹄が聞こえる。一騎ではない。蹄の間隔が揃っている。足並みを崩さず、雨の街道を詰めてくる。盗賊でも、雑な追手でもない。
王国騎士団だ。
「レオ。決めろ」
セリアの声は低かった。急かしているのではない。現場の判断を俺に預けている。
置いていくか。守るか。その二つで迷う時間は、もうなかった。
片頬は幌を下げ、若い団員は薬草箱をずらして空間を作っている。ガドは盾で街道側を隠し、ミラは追手の距離を測り、ノエルは女の傷口から手を離さない。
誰も、置いていこうとはしていない。俺は息を吐いた。
「女を荷台へ。薬草箱を空けろ。追手には荷崩れで遅れたと言う。片頬、幌を下げろ。若いの、血の跡を泥で消せ。ミラ、騎影が見えたら数を言え。ガドは荷台側を塞げ。ノエルは、その女を死なせるな」
ノエルは返事をしなかった。止血布を押さえる指に力が入る。返事より確かな答えだった。ガドが盾を構えたまま、女を運ぶ団員の横へ入る。
「揺らすなよ! ノエル先生が怖いからじゃねえ。患者が死んだら寝覚めが悪い!」
「理由の順番が気になりますが、今は許します」
「はい!」
団員たちが一斉に動いた。薬草箱が開き、女の身体が荷台へ運ばれ、血の跡が泥で潰されていく。軽口はある。だが、遅れはない。
俺は封筒を懐へ入れた。
王家の封蝋。白鐘離宮。王女殿下。王宮連絡係。
ひとつだけでも厄介だ。それが全部、雨の街道に転がってきた。
蹄の音が近づく。黒い雨の向こうに、王国騎士団の赤い旗が揺れた。
若い団員が、小さく息を呑む。
「副団長……あれ、騎士団ですよね」
「ああ……厄介だなこれは」
「薬草配送で、王国騎士団に止められる予定は?」
「ないな」
セリアが隣で剣の柄に指を添えた。
「黒羊向きになってきたな」
俺は濡れた前髪を押し上げる。
「できれば、普通の配送で終わってほしかった」
王国騎士団の馬が、雨の街道を塞ぐように近づいてくる。
荷台の奥では、王宮連絡係の女が浅い呼吸を繰り返していた。
そして俺の懐には、王家の封蝋がある。薬草配送は、ここで終わった。
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