第19話 王宮の裂け目
王の鈴が鳴ったあと、廊下は一気に慌ただしくなった。
それまで息を潜めていた侍従たちが走り出し、遠くで鎧の金具が鳴る。官吏の靴音は途中で乱れ、諸侯代理らしき者たちは遅れて姿を見せた。急いでいるのに、誰の側へ立つべきか決めきれない足取りだった。戦場と同じだ。命令が飛ぶ前でも、人は足の向きで本音を漏らす。
国王アルベルトは、大広間の奥に据えられた椅子に座っていた。立てない王を見せることは、ルシオンにとって都合がよかったはずだ。だが今は違う。痩せた手で肘掛けを掴み、王印の指輪を隠さず置いている。その横にエリスティアが立ち、リーシャが背を支え、ノエルが少し後ろで呼吸を見ていた。
ルシオンは国王の右手側に立った。兄の顔はもうない。白い外套の襟元を正し、集まる者たちへ向ける視線を整えている。焦りを飲み込んだ王位継承者の顔だ。宰相アルディスは国王の少し後ろに控え、いつもの穏やかな表情を戻しているが、袖の中の指だけが落ち着かない。
「陛下の御前である」
侍従長の声が大広間に響く。最初に入ってきたのは、王宮騎士団長だった。年配の男で、銀の胸甲に傷がある。新品ではない。飾りだけの騎士ではないらしい。彼は国王へ膝をつき、次にアリシアを見た。
「第二騎士団長。説明を」
アリシアは一歩前へ出る。濡れた髪を払う余裕もないまま、背筋だけは王国騎士のものだった。
「第三巡察隊へ流れた命令に、王命ではないものが混じっています。現場の騎士は王命と信じて動きました。責められるべきは、命令を偽った者です」
王宮騎士団長の目が細くなる。
「控えは」
「あります」
アリシアは振り返らず、片手だけを後ろへ出した。
「レオ」
昔と同じ呼び方だった。俺は懐の命令控えを差し出す。アリシアの指が紙を受け取る時、ほんの一瞬だけ触れた。セリアが横で何か言いたそうにしたが、今は黙っている。珍しく空気を読んだらしい。
王宮騎士団長は控えを見ても顔色を変えなかった。だが、紙を持つ手の力が増した。
「記録官」
呼ばれた男が、大広間の中ほどで肩を跳ねさせた。細い体に黒い記録服。抱えた箱の蓋を開ける前から、汗が首筋を伝っている。アルディスの視線が記録官へ向き、それだけで記録官の手が止まった。
サイラスが低く笑う。
「王の鈴で呼ばれた記録官が、王の前で誰の顔を見るんでしょうね」
記録官の唇が震える。アルディスは何も言わない。何も言わないことで、命令している。国王アルベルトが肘掛けを叩いた。弱い音だった。だが、大広間は黙った。
「王の前へ出せ」
記録官は箱を抱えて進んだ。膝をついた時、蓋が小さく鳴る。中には封じ紐のついた記録束があった。すべてを読む時間はない。だが、封じた者の名と日付だけで十分な時がある。
王宮騎士団長は記録束の一つを抜き取った。
「白鐘離宮への王族移送記録。陛下の署名はない」
アルディスが静かに口を開く。
「療養に関する臨時処置は、宰相府の裁量で――」
「余の娘を、余に会わせぬ裁量か」
国王の声が割れた。アルディスは一度だけ目を伏せる。謝罪に見える角度だった。だが、俺には逃げ道を探す目に見えた。
次に薬務長が呼ばれた。小柄な中年の男だった。薬の匂いが衣に染みついている。王の前で膝をつく足が、明らかに震えていた。ノエルの目が冷える。医者同士だからこそ、逃げた先がわかるのだろう。
「白鐘離宮への薬務記録を出せ」
国王が命じる。薬務長は喉を鳴らした。
「陛下、その、薬務は医師の判断と宰相府の管理に基づき――」
「出せ」
二度目は短かった。薬務長は抱えていた革筒を開ける。紙の束が滑り出た。サイラスの帳簿がその横に置かれたが、彼は何も説明しない。ただ置いた。それだけで、薬務長の顔色が悪くなる。数字と日付は、時に剣より逃げ道を塞ぐ。
王宮騎士団長が薬務記録を見た。アリシアが横から確認し、記録官が封じ紐の印を見比べる。大広間にいる諸侯代理たちが、そこで初めて互いの顔を見た。どちらへ立つかではない。どちらへ逃げるかを考え始めた顔だった。
薬務長は震える手で、一枚の紙を別に出した。
「……追加指示が、ございます」
アルディスの指が止まる。ルシオンは動かなかった。動かなかったことが、逆に目立った。
「読み上げろ」
国王が言う。薬務長は紙を見たまま声を出せなかった。喉だけが上下する。ノエルがわずかに眉を寄せる。薬務長への同情ではない。医者が、自分の薬を何に使ったか知っている顔に対する怒りだ。
「読め」
王宮騎士団長の声が落ちる。薬務長は目を閉じた。
「白鐘離宮における王女殿下の療養を強化。眠り草の投与量を、通常処方より上げること。外部接触は制限。発声に関わる負担は避けるものとする」
そこで止まった。
大広間の空気が冷える。エリスティアの肩がかすかに揺れた。リーシャが支えを強くする。王女は倒れない。倒れないが、その紙が何を意味するかは、誰より知っている。
国王は薬務長を見た。
「署名は」
薬務長の指が紙の下へ滑る。逃げるような動きだった。だが、もう逃げ場はない。
「宰相府の管理印と……第一王子ルシオン殿下の副署が、ございます」
一瞬、王宮の音が消えた。
ルシオンの手袋が軋む。白い布の下で、拳が強く握られていた。
「父上」
その声は、もう柔らかくなかった。国王アルベルトは息をするだけで苦しそうだった。それでも、息子から目を逸らさない。
「なぜだ」
問いは短い。
ルシオンは笑った。笑おうとして、失敗した。
「なぜ? 父上、本当におわかりにならないのですか」
アルディスがわずかに動く。
「殿下」
止める声だった。ルシオンは聞かなかった。
「王国が傾いていたからです。父上は病に沈み、宰相府は古い手続きに縛られ、エリスは綺麗な理想だけで王宮を乱そうとした。なら、誰かが決めるしかない。誰かが、王国を守るしかなかった!」
エリスティアは兄を責めなかった。視線は、国王の痩せた手に向いている。震える指。王印の指輪。そこに触れた時だけ、彼女の肩がわずかに揺れた。父を責めたい気持ちも、兄を問い詰めたい怒りも、今ここで全部出せば王の判断を濁すとわかっている。だからエリスティアは、何も叫ばず、国王のそばに立った。
その静けさが、ルシオンをさらに苛立たせた。
「その顔だ。いつもそうだ、エリス。自分は汚れない場所に立って、正しさだけを抱えている。王国は正しさでは動かない。血と金と恐怖で動くんだ!」
セリアの指が柄に触れた。
「よく喋る王子だ」
低い声だった。レオとしては止めるべきだったかもしれない。だが、今は止めなかった。ルシオンの本音が、王の前でこぼれている。これは剣で斬るより深い。
国王が目を閉じた。長くはない。だが、その間に老いた父の顔から痛みが引き、王の顔が戻ってくる。
「ルシオン・ベルガリオン」
息子を呼ぶ声ではなかった。
「第一王子としての権限を凍結する。王位継承審議からも、一時外す。近衛監督下に置け」
大広間の空気が硬くなる。国王は咳を噛み殺し、次に宰相へ視線を移した。
「宰相アルディスは職務停止。記録官は関係記録を封鎖し、薬務長は保護の上で聴取する。余の名を使った者を、一人も逃がすな」
アルディスの顔から色が消えた。
「陛下、それはあまりに拙速でございます。王宮の混乱は諸侯へ――」
「混乱を隠して、娘を檻に入れたか」
国王は咳き込みながらも、言葉を切らなかった。
「余の名を使った者、余の目を塞いだ者、余の子を道具にした者を、余の前から退け」
王宮騎士団長が立ち上がった。その動きで、大広間の線が決まった。アリシアが騎士団長の横へ並ぶ。マルグリットと老騎士たちは入口を塞ぐ。黒羊は王女の周りから動かない。ガドの肩の布に血が滲み、ノエルが無言で睨む。ガドは目を逸らした。今は叱られるより、盾を倒さない方を選んだ顔だ。
ルシオンの護衛が一歩動く。
ミラの弓弦が、ほんの少しだけ鳴った。矢は放たれていない。だが、護衛の足は止まる。撃つとは言っていない。ただ、撃てる位置にいる。
「動くな」
王宮騎士団長の声が飛んだ。
近衛がルシオンへ近づく。ルシオンは抵抗しなかった。抵抗すれば、この場で王命に背いたことになる。彼はそれを理解している。だからこそ、動かないまま、憎しみだけでこちらを見た。
その目が、俺を通り過ぎる。セリア、ガド、ミラ、ノエル。王女のそばに立つリーシャ。そして、血と雨の匂いをまとった黒羊傭兵団を、一人ずつ刻むように見た。
「黒羊……」
声が低く落ちる。
「傭兵風情が、王の裁定に口を挟み、王宮の真ん中で勝った顔をするか」
セリアが笑いかけたが、ルシオンの顔を見て口を閉じた。それは侮蔑ではない。もっと熱のある、焼けつくような憎しみだった。
「レオ・グレイン。黒羊傭兵団。お前たちだけは忘れない。自由などと吠える傭兵どもを、いつか必ず王国の檻に入れてやる」
近衛が彼の腕を取る。それでもルシオンは、最後まで俺たちを睨んでいた。
「騎士気取りの汚れた羊どもが。王国を救ったつもりでいるなら、その首輪を私が締めてやる」
ガドが低く唸った。ミラの目が細くなる。ノエルは王女の背から手を離さないまま、ルシオンを見ていた。セリアだけが、笑っていなかった。俺は、ルシオンの憎悪を正面から受けた。
近衛に連れられ、ルシオンが大広間を出ていく。アルディスもまた、王宮騎士に囲まれた。彼の仮面は最後まで割れきらなかったが、袖の中の指だけは、もう何も掴めていなかった。
エリスティアは国王のそばで膝を折った。倒れたのではない。王女として、父王の裁定を受け止めるためだった。王の鈴で集まった者たちは、誰からともなく頭を下げていく。諸侯代理も、官吏も、侍従も、騎士も。遅すぎた者たちが、ようやく自分の立つ場所を選んだ。
俺はその光景を見て、ようやく息を吐いた。白鐘離宮から連れ出した王女は、王の前に立った。リーシャはその横で、まだ震える手を離さずにいる。ノエルは王女の呼吸を見守り、ガドは血の滲む肩で盾を下ろさない。ミラは弓を緩めたまま、やっとまぶたを半分落とした。
依頼は、果たした。
誰かがそう宣言したわけじゃない。けれど、黒羊の連中が一斉に小さく息を抜いた音で、俺にはわかった。
片頬の団員が、担架の端を握ったまま小さく笑う。
「副団長。これ、成功報酬は上乗せですよね」
「王宮相手にそれを言える神経は嫌いじゃない」
俺が返すと、若い団員が耐えきれずに肩を震わせた。ガドも笑おうとして、肩の傷に響いたのか顔を歪める。
「いってぇ……でも、生きて帰れるなら安いもんだ」
「まだ帰ってません」
ノエルの声が飛ぶ。
ガドは即座に背筋を伸ばした。
「はい、ノエル先生」
そのやり取りに、リーシャがほんの少しだけ笑った。泣き疲れたような、けれど確かに救われた者の笑みだった。エリスティアもそれを見て、父王のそばで静かに目を伏せる。
セリアが隣で、小さく肩を鳴らした。
「終わった顔をするなよ、レオ」
「わかってる」
俺は大広間の外へ目を向けた。まだ人が走っている。命令は飛び、記録は封じられ、誰かが責任を押しつけ合い、誰かが逃げ道を探している。
それでも、今だけは認めていい。
俺たちは、間に合った。
王女を檻から出し、王の前まで届けた。リーシャが命懸けで持ち込んだ依頼は、黒羊傭兵団の手で確かに完了した。
だが、後始末はいつだって、戦いより面倒だ。




