第17話 兄妹
ルシオン・ベルガリオンは、王宮の奥から歩いてきた。
白い外套は濡れていない。手袋にも汚れはない。広間の燭台の光を受けて、その姿だけが雨の夜から切り離されているようだった。
「エリス」
兄だけが許される呼び名だった。
エリスティア王女の指が、リーシャの手を強く握る。安堵ではない。身体がほんのわずかに固くなったのを、俺は見逃さなかった。ノエルも気づいたのか、王女の背を支える手の位置を変える。
ルシオンは悲しそうに眉を寄せた。
「怖かっただろう?もう大丈夫だ。今はゆっくり休めばいい」
彼は担架の前で足を止め、白い手袋の手を差し出した。
「後のことは、兄に任せなさい」
その声は穏やかだった。だが、エリスティアの手を包むリーシャの指が震える。王女の怯えを一番近くで知っている手だった。
リーシャは何か言いかけた。けれど、王女が小さく首を振る。代わりに、エリスティアはルシオンの手を見た。
白く、清潔で、傷ひとつない手。
次に、リーシャの手を見る。擦り傷だらけで、爪の端には血の跡が残り、薬の匂いも雨の冷たさも抜けていない。その手が、白鐘離宮からここまで王女を連れてきた。
ルシオンの目が、わずかに細くなる。
「エリス。私ではなく、血と雨に汚れた薄汚い傭兵団を選ぶのか」
優しさの形をした声が、そこで初めて刃を見せた。
「後悔するぞ。やめるんだエリス!」
広間の空気が沈んだ。
セリアの指が剣の柄へ触れる。アリシアの肩が強張り、サイラスは帳簿を抱える腕に力を込めた。ガドは何も言わず、大盾を担架の横へ寄せる。肩の布に赤が滲んだが、ノエルは止めなかった。
エリスティアは、ルシオンの手を取らなかった。
リーシャの手を、握り直した。
「いいえ、兄上。後悔などいたしません」
喉の奥で削れたような音だった。それでも、そこに迷いはなかった。
「これは、私が自分で選んだ道です」
リーシャの目が揺れた。泣きそうになって、泣かなかった。自分の手が選ばれた意味を、彼女はたぶん誰よりも重く受け止めている。
ルシオンの笑みが薄くなる。
「そうか。王宮の娘が、傭兵の手を取るのか」
「王宮の娘だからこそです」
エリスティアはそこで一度だけ息を整えた。ノエルの手が背中を支える。止める手ではない。倒れないよう、そこに残る手だった。
「王宮が見捨てたものを、この人たちは見捨てませんでした」
ルシオンは答えない。その沈黙の中で、横扉が開いた。
「そうさね。王女殿下の言う通り」
低い声が、王宮の石床を叩いた。
雨に濡れた外套を肩にかけた老女が歩いてくる。左目に眼帯、右足を引きずる歩き方。それでも、杖が床を打つたび、ルシオンの護衛たちが警戒する。
俺は息を呑んだ。
「灰狼……」
それだけで十分だった。生きていたことがうれしかったのだ。
古い衛兵の一人が顔色を変え、官吏たちが目を伏せる。説明はいらない。その反応だけで、マルグリット・グレイヴという名の重さは広間に広がった。
セリアが口元だけを歪める。
「とっくにくたばったと思ってたぞ、灰狼」
マルグリットは片目でセリアを見た。
「ほんと口の悪い小娘だね。あんたこそ、まだ誰にも殺されてなかったのかい?」
「なんなら今、試すか?」
セリアの声に、ほんの少しだけ熱が混じる。だが、マルグリットは笑っただけだった。
「王女殿下の前で喧嘩はやめな。今は、俺たちの出番だ」
彼女の背後から、老騎士たちが姿を現した。
十人を超えている。さらに奥にも影がある。白髪、古傷、欠けた指、曲がった腰。だが、腰の剣も、短槍も、古い王国盾も飾りではなかった。老いた身体に染みついた歴戦の経験が、若い衛兵たちを黙らせる。
ひとりの老騎士が、錆びた声で笑った。
「灰狼、合図が遅いぞ。こっちは墓に入る支度まで済ませていたのに」
別の老騎士が、古い盾を床へ置く。重い音が広間に響いた。
「灰狼が吠えたなら、古い犬どもも起きるさ。若い連中だけに王国を任せた覚えはない」
背の曲がった老騎士が、ゆっくり剣を抜く。刃は古い。けれど、構えは少しも揺れていなかった。
「まだ剣は抜けるし盾は上がる。なら、王女殿下の前に立つ理由としては十分だ」
ルシオンの護衛が剣に触れた。
抜く前だった。
マルグリットの杖が床を滑る。足首を払われた護衛の身体が崩れ、次の瞬間には杖尻が手首を打っていた。剣は鞘から半分も出ないまま床へ落ち、若い護衛は片膝をつく。
声も出なかった。マルグリットは息ひとつ乱さない。
「若いね。殺気より先に、足が動いてるよ」
ルシオンの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
マルグリットは王女の前へ出すぎない位置で止まった。守るが、奪わない。その距離を、老騎士は間違えなかった。
「王女が自分で選んだ道を邪魔するなら、たとえ兄弟でも容赦はしないよ」
エリスティアはリーシャの手を握ったまま、マルグリットを見た。
「灰狼……来てくださったのですね」
「道を選んだのは、あんただよ。あたしらは、その道に転がる石をどかしに来ただけさ」
その言葉に、リーシャが息を飲む。
自分が支えている手が、ただ守られる姫の手ではなくなっていく。その変化を、一番近くで感じている顔だった。
アリシアが老騎士たちを見渡す。王国騎士として、古い騎士たちが王女側へ立つ意味を理解したのだろう。彼女の表情から、迷いが少し消えた。
サイラスは帳簿を抱え直し、小さく舌打ちする。
「まったく。老騎士まで出てきたら、これはもう商会の危機では済みませんね」
「怖くなったか?」
俺が聞くと、サイラスは俺を見ずに答えた。
「怖いから、数字を間違えずに済むんです」
セリアが肩越しに笑う。
「ほんといい性格だな」
「傭兵団長に褒められても、一切値引きはいたしませんよ」
一瞬だけ、黒羊の空気が戻った。
だが、ルシオンは笑わない。
彼は倒された護衛を見下ろし、次にマルグリットと老騎士たちを見た。白い手袋の指が、ゆっくり閉じる。
「死にぞこないの騎士まで、妹に肩入れするか」
「肩入れじゃあないね」
マルグリットが返す。
「王女殿下が、自分の足で立とうとしている。騎士が見るべきなのは、そこだろう」
ルシオンの目が、ようやく冷たくなった。
兄の顔が剥がれたのは、一瞬だけだった。だが俺には見えた。エリスティアも、見えてしまっただろう。
ルシオンは王女から視線を外し、広間の奥へ向ける。
「ならば父上に、判断していただこう」
その一言で、空気が変わった。
老騎士たちの何人かが、剣を握り直す。アリシアが息を止め、ノエルの手が王女の背で強くなる。リーシャはエリスティアの手を離さない。
広間の奥、重い扉の向こうから、弱い咳が聞こえた。
国王アルベルト。
王宮の嘘も、兄の白い手も、老いた騎士たちの剣も、すべてがその扉の前で止まった。
ルシオンは静かに微笑む。
「行こうか、エリス。父上も、君の顔を見たいだろう」
エリスティアの手に、力がこもる。今度は逃げるためではない。
進むための力だった。
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