第16話 王宮の嘘
宰相アルディスは、王女を見ても驚かなかった。
王宮の廊下に雨の匂いを持ち込んだ俺たちとは違い、彼の礼服には乱れがない。白髪交じりの髪も、穏やかな目元も、最初からこの場を用意していたように整っていた。
「エリスティア殿下。お身体が戻られたばかりで、記憶もまだ曇っておられるのでしょう。まずは奥でお休みください」
柔らかい声だった。いや柔らかすぎる声だった。
リーシャの指が、担架の縁を掴む。怒りで震えている。だが、彼女は叫ばなかった。ここで声を荒らげれば、その震えごと宰相に利用されるとわかっている。
ノエルは王女の背に手を添えた。止めたいのだろう。王女の喉はまだ完全ではない。けれど、ここで黙らせれば、白鐘離宮と同じになる。
エリスティアは一度だけ唇を湿らせた。
「私は、覚えています」
細い声だった。けれど、弱い声ではなかった。
廊下にいた衛兵たちの視線が動く。命令書ではない。王女本人の記憶が、王宮の石床に落ちた。
「白鐘離宮の鍵の冷たさも、呼び紐を外された夜も、リーシャの名を呼べなかった喉の痛みも。私は、覚えています」
リーシャが目を伏せた。泣きそうになったのではない。王女の言葉を支えるために、自分の感情を押し込めた顔だった。
アルディスは痛ましそうに眉を寄せる。
「殿下。そのような苦しい記憶を、この場で無理に語る必要はありません。正式な医師の診断を待ち、落ち着いた場所で――」
「正式、か」
俺は官吏の腕の中にある紙束を見た。王女が言葉を出した瞬間、そいつは紙を抱え直した。隠したい紙がある時、人は紙を胸へ寄せる。
「なら、その正式な記録を今ここで残せ。王女殿下の体調、白鐘離宮の処置、眠り草の使用量。全部だ」
アルディスの視線がこちらへ滑った。
「傭兵ごときが、王宮の記録を語るのか」
「昔、嫌というほど覚えさせられたんでな」
言ってから、喉の奥が苦くなる。自分で昔の肩書きに触れるのは気分が悪い。だが、今はそれを飲み込む場面だ。
ノエルが半歩だけ前へ出た。
王女の背から手は離さない。医者として患者の体温と呼吸を片手でつなぎながら、宰相を見る。
「殿下、記憶の問題ではありません」
静かな声だった。
けれど、衛兵の槍先がわずかに下がるくらいには、冷えていた。
「眠り草を継続して使われた痕跡があります。意識を鈍らせ、喉を反応させにくくする量です。休ませるための処置ではありません」
アルディスはノエルを見た。王宮医師でもない女の言葉など、軽いと言いたげな目だった。
その視線を遮るように、ガドの大盾が担架の横へ立つ。
左肩は布で固められている。立っているだけで痛いはずだ。それでも、盾の縁は床を噛み、王女とノエルの前から動かない。
ノエルが横目で見た。
ガドは彼女を見なかった。見れば止められるとわかっているからだ。歯を食いしばり、盾だけをほんの少し傾けて、王女の正面を広く覆う。
ノエルの指が王女の背で一瞬だけ強くなった。
怒っている。それでも今は、止めない。
アルディスは表情を崩さない。
「仮に薬の量に問題があったとして、それは白鐘離宮の医師の判断かもしれません。宰相府と結びつけるには、ずいぶん乱暴ですな」
そこでサイラスが帳簿を開いた。
雨で濡れた袖を気にする余裕もないらしい。商人の指は震えていた。怖いのだ。けれど、震えた指でも帳簿の頁は正確にめくれる。
「乱暴かどうかは、荷の流れが決めます」
声は乾いている。いつもの嫌味を残しているが、喉の奥には恐怖が絡んでいた。
「白鐘離宮への眠り草の納品量は、通常の処方を超えています。納品控えには宰相府の管理印。王女殿下が隠していた薬務記録とも日付が合う。帳簿は嘘をつけますが、嘘をついた帳簿は、別の帳簿と喧嘩するんですよ」
官吏の一人が唇を歪めた。
「商人風情が、王宮の場で」
サイラスの手が一瞬だけ止まる。
その一瞬で、彼がどれほど危ない橋を渡っているかがわかった。サイラス商会ごと潰されるかもしれない。家族も使用人も、倉庫も道も失うかもしれない。
それでも、彼は帳簿を閉じなかった。
「ええ、商人風情です。だから荷と金の動きだけは、立派な方々より見落としません」
アリシアが濡れた手袋を外した。
指先は白い。怒りを押し殺す時の癖だ。彼女は折れた封蝋つきの控えを広げ、アルディスではなく、周囲の衛兵たちへ見えるように差し出した。
「第三巡察隊への追跡命令は、王命ではありません。宰相府経由の臨時通達です。しかも、現場へ渡された控えと、王宮に残された控えが差し替えられている」
雨粒が紙の端を濡らす。アリシアはそれを拭わない。
「騎士団を、使ったのね」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。だが、王国騎士が王国騎士団を歪められた怒りは、剣より鋭く廊下へ残った。
アルディスは、ほんの少しだけ首を傾ける。
「レインハルト団長。あなたは情に流されている。王女殿下を救いたいという思いが、傭兵団に利用されている可能性を見落としているのでは?」
うまい逃げ方だった。
王女を否定しない。騎士を罵らない。ただ、黒羊を疑わせる。俺たちを悪者にできれば、王女の言葉まで濁せる。
セリアが動いた。
剣は抜かない。ただ、王女の担架と宰相府の官吏たちの間へ歩いて立つ。濡れた銀髪が肩に貼りつき、片手だけが柄に添えられている。鯉口は切らない。けれど、その場にいた衛兵の誰も、彼女の横を通ろうとはしなかった。
「利用している相手を、ここまで血まみれで運ぶか」
声は静かだった。
「王宮の綺麗な廊下で考えるには、少し汚い話かもしれないがな」
アルディスはセリアを見ない。見れば、彼女の圧を認めることになるからだろう。
ミラは壁際の装飾柱に背を預け、弓を低く構えていた。矢はまだ放たない。派手な射ではなく、ただ見ている。王宮弓兵の指、肘、肩、弦の張り。誰が撃つ気で、誰が怯えているか。
「三人」
ミラが小さく呟いた。
俺だけに聞こえるくらいの声だ。
「右の弓兵、指が強い。奥の二人は命令待ち」
「撃たせるな」
「撃つ前に止める」
短い。だが、それで足りた。ミラの目があるだけで、弓兵たちは弦を引ききれない。
アルディスは王女へ向き直る。
「殿下。私はあなたを案じているのです。今ここで語れば、あなたのお言葉は政争の道具にされる。まずは奥でお休みになり、国王陛下へは私から――」
「その“あとで”の間に、私は閉じ込められたんです」
エリスティアの言葉が、柔らかな逃げ道を断った。
長く話せる喉ではない。ノエルの指が王女の背で強くなる。それでも、王女は顔を上げていた。
「父に伝えるべき言葉を、あなた方は預かったふりをして奪った。だから今、ここで言わせていただきます」
リーシャが息を止める。
彼女は王女の手を握ったまま、泣かなかった。今泣けば、王女が心配する。王女が心配すれば、言葉が鈍る。それを、もう全部わかっている顔だった。
エリスティアは衛兵たちへ視線を向けた。
「私は白鐘離宮で囚われていました。眠り草を使われ、父王への言葉を奪われました。これを記録してください。今、この場で」
廊下が黙った。
紙を持つ官吏の喉が鳴る。槍を持つ衛兵の手が汗で滑る。命令書はまだある。宰相もまだ立っている。だが、王女本人の言葉を聞いてしまった者たちの顔は、もう少し前とは違っていた。
俺は懐から黒い管理札を出した。
黒外套が落とした札だ。雨で濡れても、宰相府の黒い蝋は残っている。
「白鐘離宮の外庭で俺たちを止めた黒外套が持っていた。離宮兵でも王宮衛兵でもない。宰相府の札だ」
アルディスの目が、ほんの一瞬だけ動いた。
それは小さな動きだった。だが、アリシアは見た。サイラスも見た。セリアは剣を抜かないまま、口元だけで笑った。
「今、顔に出たな」
「セリア」
「なんだ?ただ言ったみただけだ」
アルディスはすぐに表情を戻した。だが、もう遅い。穏やかな仮面に、細い傷が入っていた。
その時、広間の奥から拍手が聞こえた。
乾いた音ではない。静かで、丁寧で、場違いなほど柔らかい拍手だった。
白い外套の青年が、燭台の明かりの中へ歩み出る。第一王子ルシオン・ベルガリオン。整った顔立ちに疲れたような微笑を浮かべ、最初に見たのは俺たちではなく、担架の上の妹だった。
「おおエリス」
その呼び方に、エリスティアの指がリーシャの手を強く握った。
兄妹にしか許されない距離の呼び名だ。だが、王女の反応は安堵ではなかった。身体がわずかに固くなる。ノエルがそれに気づき、支える手を少しだけ変えた。
ルシオンは悲しそうに眉を寄せる。
「そんな顔をしないでくれ。君が戻ってきて、兄としてどれほど安心したと思っている」
優しい声だった。
優しすぎる声だった。
彼は一歩近づこうとし、ガドの盾が音もなく前へ出た。セリアの手が剣の柄へ添えられる。ミラの視線が、ルシオンの背後に立つ護衛の指を拾った。
ルシオンは足を止め、困ったように笑う。
「なるほど。ずいぶん頼もしい護衛を得たようだね」
その言葉は褒めている形をしていた。だが、黒羊を見る目には、汚れた荷物でも見るような薄い冷たさがある。
「だがエリス、今の君は立っているのもつらいはずだ。王宮の者としてではなく、兄として言う。休みなさい。話は、私が聞く」
エリスティアの唇が震えた。
怒りか、恐怖か。たぶん、その両方だった。
アリシアの肩が強張る。サイラスは帳簿を閉じ、ガドは痛む肩で盾を担架の前へ寄せた。ノエルは王女の背を支えたまま、唇をきつく結ぶ。
セリアが小さく呟く。
「宰相よりも厄介なやつが出てきたな」
俺はルシオンの微笑を見返した。宰相の嘘は、崩れ始めた。
だが、王宮の奥から出てきたものは、もっと厄介な顔で笑っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
少しでも「続きが気になる」「黒羊傭兵団いいな」と思っていただけたら、
ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると嬉しいです。
感想も励みになります!
次話もよろしくお願いします。




