第14話 王女の声
サイラス商会の旧倉庫へ戻った時、雨はまだ止んでいなかった。
マルグリットは戻っていない。古道側で追手を迷わせると言って別れたきりだが、あの灰狼が簡単に倒れる姿は想像できなかった。
扉が閉まると、外の音が厚い木板に押し潰される。濡れた外套、血の匂い、薬草の匂い、担架の軋み。夜明け前の倉庫は、商人の荷置き場ではなく、戦場の後始末そのものだった。
「そこへ。灯りを増やしてください。ガドさんは壁際、王女殿下は中央です!」
ノエルの声が飛ぶ。いつもの静けさは残っているが、余裕はなかった。若い団員がランタンを吊るし、片頬の男が担架を作業台の横へ寄せる。ガドは左肩を押さえながら座り込もうとして、ノエルに見られた瞬間、なぜか背筋を伸ばした。
「ノエル先生、俺は後でいい。王女様を先に」
「当然です」
「そこは少し迷ってくれてもよくねえか……?」
ノエルは返事の代わりに、ガドの肩から滲む血を一瞥した。その目だけで、ガドは口を閉じる。文句はあるが、逆らう気はない。彼は盾を手放さないまま、壁際へ腰を下ろした。
エリスティア王女は担架の上で薄く目を開いていた。リーシャはその手を握ったまま、呼吸を殺している。自分も立っているのがやっとのくせに、離す気はないらしい。
ノエルは王女の脈を取り、瞼を見て、首元へ指を添えた。薬箱から小瓶を出すと、苦い匂いが倉庫に広がる。灰鐘薬のように命を無理やり引き上げる薬ではない。喉に残った痺れをほどき、意識を言葉の場所まで戻すための処置薬だ。
ただ、匂いはひどかった。
近くにいた団員が顔をしかめ、ガドまで肩の痛みを忘れたように身を引いた。
「それ、前に飲まされて舌が死んだやつじゃねえか……」
「死んでいません。大げさです」
ノエルは小瓶を指先で温めるように持ち、王女の喉元へ視線を落とした。いつもの冷たい調子ではある。けれど、薬を含ませる手つきだけは慎重だった。
「少量だけです。殿下、苦いですが……飲み込めますか?」
エリスティアは、かすかに瞬きをした。
覚悟の返事だった。
リーシャが王女の手を握る力を強める。声は出さない。ここで励ましの言葉を重ねれば、王女が無理に応えようとする。それを、もう彼女も理解していた。
ノエルは薬を一滴ずつ含ませた。王女の眉が苦みに寄り、細い喉が震える。倉庫の中で、誰も急かさなかった。ガドでさえ口を閉じ、痛む肩を押さえたまま、王女が飲み込むのを見守っている。
やがて、エリスティアの青い瞳がゆっくりと焦点を結んだ。
最初に見たのは、リーシャだった。
「……リーシャ」
掠れていた。
けれど、確かに声だった。
リーシャの顔が崩れた。涙が一筋だけ落ちる。それでも泣き崩れない。王女の手を両手で包み、震える息を飲み込んで、深く頭を下げた。
「はい。戻りました。殿下のお言葉を、届けに」
その声に、倉庫の中の誰もが一瞬だけ動きを止めた。
声を奪われていた王女が、声を取り戻した。
それは治療の成功だけではない。王宮が隠そうとしたものが、今ここで息を吹き返したということだった。
サイラスが帳簿を抱えて近づく。口元はいつも通り嫌味な商人だが、紙を持つ指は少し硬い。
「王女殿下。無礼は承知で確認します。この薬務記録、白鐘離宮への納品控え、宰相府の管理印。これらは、殿下を黙らせるために使われたものですね?」
リーシャが顔を上げる。そんな聞き方をするな、と言いたかったのだろう。だが、エリスティア本人が弱い指でリーシャの手を押さえた。
「……そうです」
短い一言だった。
サイラスは帳簿を閉じかけ、途中で手を止める。俺でさえ、喉の奥に嫌な熱が残った。
「療養では、ありません。私は、王宮で……宰相アルディスの不正を、父に伝えようとしました。その前に、白鐘離宮へ移されました」
「これは商売ではなく、首を賭ける帳簿ですね」
サイラスの顔から、わずかに血の気が引く。
「今更、怖くなったか?」
俺が聞くと、サイラスは唇だけで笑った。
「怖いですよ。だから丁寧にやるんです。雑に扱えば、全員まとめて吊るされますから」
その時、倉庫の裏口が短く叩かれた。
セリアの指が剣へ触れ、ミラは梁の陰へ移動する。ガドまで立とうとして肩を押さえ、ノエルに睨まれて座り直した。
「安心して。私アリシアよ」
聞こえた声に、俺は息を吐いた。
アリシア・レインハルトが濡れた外套のまま入ってくる。王国第二騎士団団長の顔だが、目の下には疲れがあった。彼女も王都で走り回っていたのだろう。
「第三巡察隊への命令、出所が割れたわ。正式な王命じゃない。宰相府経由の臨時通達よ。しかも控えが差し替えられているわ」
そこで王女に気づき、アリシアは膝をついた。
「エリスティア殿下……よくぞご無事で……」
「アリシア。顔を上げてください」
掠れた声でも、そこには王族の響きがあった。守られるだけの姫ではない。命を削られた後でも、人を立たせる声だった。
アリシアが顔を上げる前に、エリスティアの視線が俺へ向く。
「レオ・グレイン」
自分の名を呼ばれて、少しだけ嫌な汗が出た。
王女の青い目が、雨の夜を越えて、もっと古いどこかを見ている。
「また、助けられてしまいましたね」
セリアがこちらを見る。ミラも梁の陰から目だけを向けている。ノエルは王女の脈を取っているが、聞こえていないふりが下手だった。アリシアの表情まで、わずかに動く。
「また?」
俺は王女を見返した。
「申し訳ありません。覚えがないです」
エリスティアは笑おうとして、喉の痛みに眉を寄せた。ノエルがすぐに水を寄せる。王女は一口だけ含み、今度は無理に笑わなかった。
「昔、王都の北門で……私は馬車から落ちかけました。あの日はひどい雨の日でした。あなたは叱られるのも忘れて、私を抱えてくれた」
雨の日。王都北門。
記憶の底を探る。はっきりした絵は浮かばない。だが、助けた子供は何人かいた。荷馬車に轢かれそうな子、転んだ侍女、迷子の貴族令嬢。騎士だった頃の俺は、そういう小さな面倒をよく拾っていた。
その中に、王女がいたのか。
セリアは俺を見たまま、静かに息を吐いた。
「覚えていないのに、助けられた女だけが覚えている。なかなかひどい男だな」
「今それを言うか」
俺が返すと、彼女は倉庫の入口へ目を向けた。軽口の形をしているが、視線はもう外の警戒へ戻っている。
「今言っておく。後で揉めると、もっと面倒だからな」
梁の上で、ミラが弓を抱え直した。
「もう揉めてる」
「お前まで言うな」
リーシャが涙の残る顔で、ほんの少しだけ笑った。王女も、声にならない息で笑おうとした。緊張がほどけたのは一瞬だけだ。
サイラスが帳簿を閉じる音で、倉庫の空気が戻る。
「感動的なところ申し訳ありませんが、今夜は情に浸るほど安全ではありません」
サイラスの声はいつもの嫌味に戻っていた。だが、帳簿を押さえる指は白い。彼も怖いのだ。怖いからこそ、紙と数字に逃げ道を探している。
「夜が明ければ、宰相府は命令書を整えます。第三巡察隊も、離宮兵も、黒外套も、後から正当化される。こちらが先に王宮の記録へ叩き込まなければ、全部なかったことにされます」
アリシアは濡れた外套の裾を握ったまま、王女と証拠の紙片を見比べた。怒りを表に出す女ではない。けれど、拳の形だけは隠せていなかった。
「王宮へ入る道は作るわ。ただ、殿下を連れて正面から行けば必ず狙われる」
「危険じゃない道が残っているなら教えてくれ」
俺が言うと、アリシアは一瞬だけ昔の同僚を見る目になった。
「相変わらず、嫌な言い方をするわね」
「今は傭兵になったからな」
「違うわ。昔からよ」
その声に、セリアの眉がわずかに動く。けれど彼女は口を挟まなかった。入口、団員の配置、王女の呼吸。全部を見ている。団長として、もう次の一手を測っていた。
壁際で、ガドが低く呻いた。
左肩に刺さった矢の周りは、応急で巻いた布ごと赤く染まっている。さっきまで盾を構えていた腕が、今は膝の上で重そうに落ちていた。それでも本人は、痛みより気まずさの方が勝っている顔で、ノエルの方を見ないようにしている。
「ノエル先生……俺の肩、まだついてるよな」
「ついています。余計なことをしなければ、しばらくはね」
ノエルは王女の脈をもう一度確かめてから、薬杯をリーシャへ預けた。声は静かだったが、ガドを見る目だけは冷えている。怒っている、というより、怒らずに済ませる余裕がない顔だった。
ガドはその目を見て、情けないくらい背筋を伸ばす。
「……悪い。怒ってるか?」
「怒る前に処置します」
それは、怒っていないという意味ではなかった。
片頬の男と若い団員が、言われる前にガドの左右へ回る。さっきまで王女の担架を支えていた二人だ。今度は、ガドが逃げないように膝と肩を押さえる位置についた。
ガドが目を剥く。
「お前ら、何してんだ」
若い団員は視線を逸らさなかった。ふざけた顔ではない。けれど、口だけは黒羊らしく軽い。
「壁が逃げたら、俺たちが困るんで」
「俺は逃げねえよ!」
「前にノエル先生の針見て逃げたろ」
「今それ言うか!?」
声が少し大きくなり、ノエルの指がぴたりと止まった。
それだけで、ガドは口を閉じた。
倉庫の隅でミラが小さく肩を揺らす。セリアも口元を隠すように横を向いたが、笑うには場が悪いと判断したのだろう。すぐに入口へ視線を戻した。
ノエルは矢の周りの布を外す。
傷口を見た瞬間、空気が変わった。冗談を挟める余地が、そこで消える。革鎧の下で肉が裂け、矢じりは思ったより深く入っていた。ガド自身もそれを見て、喉を鳴らす。
「……どれくらい悪いんだこれ」
「あなたが黙るくらいには悪いですね」
ノエルは薬布を広げた。返事は短い。けれど、その手つきは荒くない。矢を抜いたあとに血が噴かないよう、押さえる場所を指で探っている。
ガドはようやく顔を逸らした。
「それ、かなり悪いやつじゃねえか」
「だから黙って座っていてください」
ノエルは布を一枚、ガドの口元へ差し出した。
「噛んでください。動いたら、縫う場所が増えます」
「脅し方が医者じゃねえよ……」
「医者だから言っているんです」
ガドは何か言い返そうとして、やめた。ノエルの顔を見れば、これ以上の軽口が通じないことくらい、彼にもわかったのだろう。
大きな手が布を受け取り、奥歯で噛む。
ノエルは一度だけガドの目を見た。
「歯を食いしばってください」
ガドが小さく頷く。
その直後、ノエルの手が動いた。
三つ数える、とは言わなかった。待てと言われる隙も与えなかった。矢が抜ける鈍い音と、ガドの喉奥で潰れた悲鳴が、ほとんど同時に倉庫の梁へ吸われる。
片頬と若い団員が、全身でガドを押さえた。
「っ、ぐ……!」
ガドの額に汗が浮く。盾で矢を受けた時より、よほど苦しそうな顔だった。それでも暴れない。王女の担架を揺らしてはいけないことを、痛みの中でも覚えている。
ノエルは抜いた矢を床へ落とし、すぐ薬布を押し当てた。血が布へ広がる。彼女の指は速い。容赦はないが、雑ではなかった。
「よく我慢しました」
ガドは布を噛んだまま、涙目でノエルを見る。
「……褒めるなら、抜く前にしてくれ」
「次に肩で矢を受ける時は、先に相談してください」
その声には、ほんの少しだけ怒りが混じっていた。
ガドは冗談で返しかけて、やめる。ノエルが怒っている理由を、たぶん理解したのだ。彼女は怪我を責めているのではない。黙って傷を抱えたまま、盾を下げなかったことを怒っている。
「担架に通すわけにいかなかったんだよ」
ガドの声は、布越しにくぐもっていた。
ノエルの手が一瞬だけ止まる。
王女も、リーシャも、若い団員も、片頬の男も。その全員を、ガドはあの盾と肩で守った。ノエルはそれをわかっている。わかっているからこそ、怒っている。
「……なら、次も生きて帰ってください」
「おう!」
ガドは痛みで顔を歪めたまま、少しだけ笑った。
「壁が倒れたら、困るからな」
俺は作業台の上へ証拠を並べた。
王女が隠していた薬務記録、白鐘離宮への納品控え、宰相府の管理札、アリシアが持ち込んだ臨時通達の写し、サイラスの帳簿。紙が揃っていくほど、王宮の嘘が形になる。
エリスティア王女が担架の上で体を起こそうとした。ノエルがすぐ支える。王女は無理に動かず、俺たちを見た。
「私が、話します」
掠れた声だった。
だが、倉庫にいた誰もがその一言を聞いた。
リーシャが息を止める。アリシアは膝をついたまま拳を握った。サイラスは帳簿を閉じる手を止める。セリアでさえ、すぐには軽口を挟まなかった。
声を奪われていた王女が、声を取り戻した。
その意味を、全員が遅れて理解した。
「父や王宮に。民に。私の言葉で」
リーシャが涙を拭い、背筋を伸ばした。アリシアは騎士として頭を垂れ、サイラスは帳簿を抱え直す。セリアは王女を見て、それから俺を見た。
「王宮に喧嘩を売るのか?」
俺は濡れた証拠の紙片を、一つずつ油紙へ包んだ。
「違う。王宮の嘘を、王女本人が返しに行くんだ」
外ではまだ雨が降っている。
夜明けまで、時間はない。
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