第5話 消えた夜
午前零時を過ぎた頃、九条院家は静まり返っていた。
二階の客間では、久世湊が布団の中で眠っている。
枕元の机には、転入に関する書類とスマートフォンが置かれていた。閉じられたカーテンの隙間から、細い月明かりが差し込んでいる。
湊の呼吸は規則正しい。
やがて、その呼吸が一度だけ止まった。
閉じていた瞼が静かに開く。
薄い茶色だった瞳が、青白い光へ変わっていた。
湊は音もなく上半身を起こした。
寝起きの戸惑いも、周囲を確認する様子もない。普段よりも冷たい表情で正面を見つめている。
布団から出ると、机の上に置かれていた家の鍵とスマートフォンを手に取り、部屋の隅に置かれていた靴を履いた。
その後、部屋着の上から黒い外套を形成する。
夜の闇が集まり、身体を覆っていく。
黒いフード付きの長衣。
布地を走る銀色の文様。
顔を覆う白い仮面には、額から顎へ縦一本の黒い亀裂模様が刻まれていた。
外見から、湊の面影は完全に消えている。
仮面の人物が客間の壁へ手を伸ばした。
指先が壁へ触れる直前、空間に青白い波紋が広がる。
身体が壁の向こうへ沈み、何の痕跡も残さず部屋から消えた。
◇
黒い装束が、月明かりに照らされた屋根の上へ現れる。
仮面の人物は星守市の夜景を見渡した。
住宅街の明かり。
遠くを走る電車。
繁華街に立ち並ぶ看板。
その下には、人間の目では見ることのできない無数の気配が漂っている。
人の不安から生まれた黒い靄。
行き場のない怒りに引き寄せられた小さな妖魔。
地下を流れる霊脈と、九条院家を中心に張られた結界。
仮面の奥で、青白い瞳が細められた。
夜の町に、妖気とは異なる痕跡が残されている。
神の気配。
しかし、それは一つではなかった。
細く引き延ばされた痕跡が、いくつもの方角へ分かれている。
仮面の人物は屋根を蹴った。
黒い外套が夜風を受けて広がる。
その姿は空間へ溶け、住宅街から消えた。
◇
伊織は、自室の寝台で目を開けた。
枕元に置かれていた護符が、かすかな音を立てて揺れている。
九条院家を囲む結界に、何かが触れた。
妖魔が侵入したときの激しい反応ではない。
風が水面を撫でた程度の、ごく小さな揺らぎだった。
「クロ」
伊織が呼ぶと、足元の影から金色の瞳が現れた。
『起きている』
「今の、分かった?」
『境界が揺れた』
「妖魔?」
『分からん。妖気は感じなかった』
伊織は上着を羽織り、内ポケットへ木製の御守りと数枚の護符を入れた。
右腕の傷には、まだ鈍い痛みが残っている。美冬からは安静にするよう言われていたが、家族が眠る家を放置するわけにはいかない。
窓を開けると、冷たい夜風が部屋へ入り込んできた。
「外を調べるよ」
『お前は寝ていろ。我だけで十分だ』
「結界が反応した場所を確認するだけ。戦わないよ」
『お前の言う確認は信用ならん』
「何もいなければ、すぐに戻るから」
伊織は窓枠へ足をかけ、音を立てずに庭へ降りた。
クロも影の中を移動し、その後を追う。
家の外壁に沿って調べると、客間の真下に当たる場所で結界の流れがわずかに乱れていた。
伊織は護符を取り出し、空中へかざす。
白い紙は燃えず、色も変わらない。
「何も反応しない」
『通過した痕跡だけがある』
「外から中へ?」
『いや』
クロの金色の瞳が、二階の壁を見上げる。
『中から外へ抜けている』
伊織も視線を上げた。
二階の客間は暗く、窓も閉まっている。
『真上は、あの小僧の部屋だ』
「だからといって、眠っている部屋へ勝手には入れないよ」
『この状況でもか』
「妖気も敵意もない。探知符を置いて、もう一度反応したら確認する」
『甘い判断でなければよいがな』
「久世君はまだ来たばかりなんだよ。夜中に部屋へ入って怖がらせたくない」
『怖がらせるだけで済めばよいがな』
伊織は庭から道路へ出た。
周囲に人影はなく、住宅街は静まり返っている。
霊視を使っても、妖魔の姿は見つからなかった。
「学校で感じた妖気と関係があるのかな」
『気配が違う。あれは弱い妖魔だった。今のものには、妖気そのものがない』
「それなら、結界の誤作動かもしれないね」
『九条院家の結界が、理由もなく揺れるものか』
「明るくなったら、もう一度調べよう」
伊織は家の周囲へ新しい探知符を配置した。
誰かが再び結界を通過すれば、今度は伊織とクロの両方へ反応が伝わる。
最後に二階の客間を見上げる。
窓の向こうに動くものはない。
湊の不在を疑うことなく、伊織は家へ戻った。
◇
仮面の人物は、星守市の東側にある河川敷へ降り立った。
橋の上を走る車の音が、遠くから聞こえてくる。
川沿いの遊歩道には街灯が並んでいるが、深夜に歩いている人間はいない。
その中の一つだけが、不規則に明滅していた。
街灯の下に、黒い塊がうずくまっている。
大型の鼠に似た身体。
背中からは、濡れた人間の髪のようなものが伸びている。人間が川辺へ捨てたごみや、暗い水面へ抱いた恐怖から生まれた小型の妖魔だった。
妖魔は地面の匂いを嗅ぎながら、何かの痕跡を追っている。
仮面の人物が、その前へ降り立った。
小型妖魔が顔を上げる。
相手の正体を感じ取った瞬間、黒い身体が大きく震えた。
『か、神……』
「この痕跡を残した者はどこにいる」
仮面の人物が足元を示す。
地面には、人間には見えない青黒い光の筋が残されていた。
『知らない。俺は、呼ばれただけだ』
「誰に呼ばれた」
『声だけだ。姿は見ていない』
「何を命じられた」
『集めろ、と』
「何を」
『人の怒り。妬み。恐れ。苦しいものなら、何でも』
仮面の人物が右手を上げる。
小型妖魔の身体が地面から浮き上がった。
逃げようと四肢を動かしても、その場から動くことはできない。
『本当に、それしか知らない!』
「記憶を確認する」
青白い光が、小型妖魔の頭部を覆う。
妖魔の目に、いくつもの光景が映った。
夜の繁華街。
閉鎖された建物。
学校、病院、企業の事務所。
人間の負の感情が集まりやすい場所へ、小さな妖魔たちが誘導されている。
しかし、それを命じた者の姿はない。
聞こえるのは、正体の分からない声だけだった。
痕跡は意図的に分断され、複数の妖魔へ広げられている。
青白い光が消える。
小型妖魔の身体が、地面へ下ろされた。
『俺を、消さないのか』
「お前は、まだ均衡を乱していない」
『均衡……』
「人を襲えば回収する。去れ」
小型妖魔は怯えながら後ずさりし、そのまま川沿いの暗がりへ逃げていった。
仮面の人物は追わない。
人間を襲っていない妖魔を消す理由はなかった。
河川敷に残る神の痕跡へ、再び視線を向ける。
青黒い光は川の上流と下流、さらに対岸へ分かれていた。
仮面の人物は、分岐した痕跡を順番に見渡した。
「痕跡を分けたか」
川風の中へ、冷たい声が落ちる。
「こちらが降りたことも、すでに察している」
白い仮面に刻まれた銀色の文様が、一度だけ明滅した。
同時に、仮面の人物の身体がわずかに揺れる。
黒い外套の輪郭が薄れ始めていた。
人間の器で活動できる時間には限界がある。
仮面の人物は九条院家の方角へ顔を向けた。
空間を渡ろうと右手を上げる。
しかし、銀色の文様が消え、青白い瞳の光も弱まった。
黒い外套が夜気へ溶ける。
白い仮面に亀裂が走り、光の粒となって崩れた。
その下から、久世湊の顔が現れる。
薄い茶色の瞳は閉じたままだった。
湊の身体は力を失い、河川敷の草の上へ倒れ込んだ。
手にしていたスマートフォンと家の鍵が、濡れた地面へ落ちた。
◇
頬に触れる冷たさで、湊は目を覚ました。
空は薄く明るくなり始めている。
土と草の匂い。
近くを流れる川の音。
見覚えのない橋。
「どこだ、ここ……」
湊はゆっくりと上半身を起こした。
全身がひどく重い。
長時間走り続けた後のように、脚と腰が痛んでいる。
服には泥が付き、袖の一部が濡れていた。右手の甲と膝には、覚えのない浅い傷がある。
昨夜は九条院家の客間で眠ったはずだった。
外へ出た記憶はない。
河川敷へ来た覚えもない。
立ち上がろうとしたところで、足元にスマートフォンと家の鍵が落ちていることに気づいた。
どちらも客間の机へ置いたはずのものだ。
スマートフォンの画面を確認する。
午前五時十二分。
地図を開くと、九条院家から数キロ離れた河川敷にいることが分かった。
着信もメッセージもない。
「寝ぼけて歩いてきたのか?」
口に出してみても、納得できなかった。
湊には夢遊病の経験などない。
数キロもの距離を歩いたのなら、身体や服が汚れていることには説明がつく。
しかし、どうして鍵とスマートフォンを持っているのか。
なぜ途中で一度も目を覚まさなかったのか。
昨夜の記憶を探ろうとすると、暗いトンネルと青白い目が浮かんだ。
同時に頭痛が起こり、湊は額を押さえる。
「また、あの夢か……」
それ以上考えるのをやめた。
今は、九条院家へ戻る方が先だ。
家族が起きて不在に気づけば、大きな騒ぎになる。
湊は泥を払い、痛む脚を引きずりながら歩き出した。
◇
九条院家へ戻った頃、時刻は午前六時を少し過ぎていた。
住宅街には新聞配達のバイクが走っているだけで、人通りはほとんどない。
湊は家の前で周囲を確認し、持っていた鍵で玄関を開けた。
家の中は静かだった。
靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を進む。
二階へ続く階段の近くには、新しい護符が貼られていた。
昨夜まではなかったはずだ。
湊には、白い紙に描かれた模様の意味は分からない。
遠い家系に残る、古い習慣のようなものだろうと思い、その横を通り過ぎた。
伊織の部屋の前でも足を止める。
中から物音はしない。
家族の誰も、湊がいなかったことに気づいていないようだった。
客間へ戻ると、掛け布団は乱れたまま残されていた。
湊は汚れた服を脱ぎ、鞄の奥へ押し込んだ。
鞄からタオルを取り出し、部屋に置いていたペットボトルの水で濡らして、泥と傷口を拭った。
幸い、どの傷も浅い。
服で隠せば、家族に気づかれることはないだろう。
湊は新しい服へ着替え、布団の上へ腰を下ろした。
手の中には、家の鍵がある。
自分で持ち出した記憶のない鍵。
夢遊病だとすれば、また同じことが起きるかもしれない。
誰かに相談するべきだと分かっていた。
それでも、預けられた直後から余計な心配をかけたくはない。
次に同じことが起きたら、そのときに考えればいい。
湊は鍵を机へ戻した。
家族が目を覚ますまで、河川敷で何があったのかを誰にも話さないことにした。




