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学園の王子様は放課後、妖魔を斬る――正体不明の仮面の神、その器は同居中の少年でした――  作者: situ725


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第5話 消えた夜

 午前零時を過ぎた頃、九条院家は静まり返っていた。


 二階の客間では、久世湊が布団の中で眠っている。


 枕元の机には、転入に関する書類とスマートフォンが置かれていた。閉じられたカーテンの隙間から、細い月明かりが差し込んでいる。


 湊の呼吸は規則正しい。


 やがて、その呼吸が一度だけ止まった。


 閉じていた瞼が静かに開く。


 薄い茶色だった瞳が、青白い光へ変わっていた。


 湊は音もなく上半身を起こした。


 寝起きの戸惑いも、周囲を確認する様子もない。普段よりも冷たい表情で正面を見つめている。


 布団から出ると、机の上に置かれていた家の鍵とスマートフォンを手に取り、部屋の隅に置かれていた靴を履いた。


 その後、部屋着の上から黒い外套を形成する。


 夜の闇が集まり、身体を覆っていく。


 黒いフード付きの長衣。


 布地を走る銀色の文様。


 顔を覆う白い仮面には、額から顎へ縦一本の黒い亀裂模様が刻まれていた。


 外見から、湊の面影は完全に消えている。


 仮面の人物が客間の壁へ手を伸ばした。


 指先が壁へ触れる直前、空間に青白い波紋が広がる。


 身体が壁の向こうへ沈み、何の痕跡も残さず部屋から消えた。


     ◇


 黒い装束が、月明かりに照らされた屋根の上へ現れる。


 仮面の人物は星守市の夜景を見渡した。


 住宅街の明かり。


 遠くを走る電車。


 繁華街に立ち並ぶ看板。


 その下には、人間の目では見ることのできない無数の気配が漂っている。


 人の不安から生まれた黒い靄。


 行き場のない怒りに引き寄せられた小さな妖魔。


 地下を流れる霊脈と、九条院家を中心に張られた結界。


 仮面の奥で、青白い瞳が細められた。


 夜の町に、妖気とは異なる痕跡が残されている。


 神の気配。


 しかし、それは一つではなかった。


 細く引き延ばされた痕跡が、いくつもの方角へ分かれている。


 仮面の人物は屋根を蹴った。


 黒い外套が夜風を受けて広がる。


 その姿は空間へ溶け、住宅街から消えた。


     ◇


 伊織は、自室の寝台で目を開けた。


 枕元に置かれていた護符が、かすかな音を立てて揺れている。


 九条院家を囲む結界に、何かが触れた。


 妖魔が侵入したときの激しい反応ではない。


 風が水面を撫でた程度の、ごく小さな揺らぎだった。


「クロ」


 伊織が呼ぶと、足元の影から金色の瞳が現れた。


『起きている』


「今の、分かった?」


『境界が揺れた』


「妖魔?」


『分からん。妖気は感じなかった』


 伊織は上着を羽織り、内ポケットへ木製の御守りと数枚の護符を入れた。


 右腕の傷には、まだ鈍い痛みが残っている。美冬からは安静にするよう言われていたが、家族が眠る家を放置するわけにはいかない。


 窓を開けると、冷たい夜風が部屋へ入り込んできた。


「外を調べるよ」


『お前は寝ていろ。我だけで十分だ』


「結界が反応した場所を確認するだけ。戦わないよ」


『お前の言う確認は信用ならん』


「何もいなければ、すぐに戻るから」


 伊織は窓枠へ足をかけ、音を立てずに庭へ降りた。


 クロも影の中を移動し、その後を追う。


 家の外壁に沿って調べると、客間の真下に当たる場所で結界の流れがわずかに乱れていた。


 伊織は護符を取り出し、空中へかざす。


 白い紙は燃えず、色も変わらない。


「何も反応しない」


『通過した痕跡だけがある』


「外から中へ?」


『いや』


 クロの金色の瞳が、二階の壁を見上げる。


『中から外へ抜けている』


 伊織も視線を上げた。


 二階の客間は暗く、窓も閉まっている。


『真上は、あの小僧の部屋だ』


「だからといって、眠っている部屋へ勝手には入れないよ」


『この状況でもか』


「妖気も敵意もない。探知符を置いて、もう一度反応したら確認する」


『甘い判断でなければよいがな』


「久世君はまだ来たばかりなんだよ。夜中に部屋へ入って怖がらせたくない」


『怖がらせるだけで済めばよいがな』


 伊織は庭から道路へ出た。


 周囲に人影はなく、住宅街は静まり返っている。


 霊視を使っても、妖魔の姿は見つからなかった。


「学校で感じた妖気と関係があるのかな」


『気配が違う。あれは弱い妖魔だった。今のものには、妖気そのものがない』


「それなら、結界の誤作動かもしれないね」


『九条院家の結界が、理由もなく揺れるものか』


「明るくなったら、もう一度調べよう」


 伊織は家の周囲へ新しい探知符を配置した。


 誰かが再び結界を通過すれば、今度は伊織とクロの両方へ反応が伝わる。


 最後に二階の客間を見上げる。


 窓の向こうに動くものはない。


 湊の不在を疑うことなく、伊織は家へ戻った。


     ◇


 仮面の人物は、星守市の東側にある河川敷へ降り立った。


 橋の上を走る車の音が、遠くから聞こえてくる。


 川沿いの遊歩道には街灯が並んでいるが、深夜に歩いている人間はいない。


 その中の一つだけが、不規則に明滅していた。


 街灯の下に、黒い塊がうずくまっている。


 大型の鼠に似た身体。


 背中からは、濡れた人間の髪のようなものが伸びている。人間が川辺へ捨てたごみや、暗い水面へ抱いた恐怖から生まれた小型の妖魔だった。


 妖魔は地面の匂いを嗅ぎながら、何かの痕跡を追っている。


 仮面の人物が、その前へ降り立った。


 小型妖魔が顔を上げる。


 相手の正体を感じ取った瞬間、黒い身体が大きく震えた。


『か、神……』


「この痕跡を残した者はどこにいる」


 仮面の人物が足元を示す。


 地面には、人間には見えない青黒い光の筋が残されていた。


『知らない。俺は、呼ばれただけだ』


「誰に呼ばれた」


『声だけだ。姿は見ていない』


「何を命じられた」


『集めろ、と』


「何を」


『人の怒り。妬み。恐れ。苦しいものなら、何でも』


 仮面の人物が右手を上げる。


 小型妖魔の身体が地面から浮き上がった。


 逃げようと四肢を動かしても、その場から動くことはできない。


『本当に、それしか知らない!』


「記憶を確認する」


 青白い光が、小型妖魔の頭部を覆う。


 妖魔の目に、いくつもの光景が映った。


 夜の繁華街。


 閉鎖された建物。


 学校、病院、企業の事務所。


 人間の負の感情が集まりやすい場所へ、小さな妖魔たちが誘導されている。


 しかし、それを命じた者の姿はない。


 聞こえるのは、正体の分からない声だけだった。


 痕跡は意図的に分断され、複数の妖魔へ広げられている。


 青白い光が消える。


 小型妖魔の身体が、地面へ下ろされた。


『俺を、消さないのか』


「お前は、まだ均衡を乱していない」


『均衡……』


「人を襲えば回収する。去れ」


 小型妖魔は怯えながら後ずさりし、そのまま川沿いの暗がりへ逃げていった。


 仮面の人物は追わない。


 人間を襲っていない妖魔を消す理由はなかった。


 河川敷に残る神の痕跡へ、再び視線を向ける。


 青黒い光は川の上流と下流、さらに対岸へ分かれていた。


 仮面の人物は、分岐した痕跡を順番に見渡した。


「痕跡を分けたか」


 川風の中へ、冷たい声が落ちる。


「こちらが降りたことも、すでに察している」


 白い仮面に刻まれた銀色の文様が、一度だけ明滅した。


 同時に、仮面の人物の身体がわずかに揺れる。


 黒い外套の輪郭が薄れ始めていた。


 人間の器で活動できる時間には限界がある。


 仮面の人物は九条院家の方角へ顔を向けた。


 空間を渡ろうと右手を上げる。


 しかし、銀色の文様が消え、青白い瞳の光も弱まった。


 黒い外套が夜気へ溶ける。


 白い仮面に亀裂が走り、光の粒となって崩れた。


 その下から、久世湊の顔が現れる。


 薄い茶色の瞳は閉じたままだった。


 湊の身体は力を失い、河川敷の草の上へ倒れ込んだ。


 手にしていたスマートフォンと家の鍵が、濡れた地面へ落ちた。


     ◇


 頬に触れる冷たさで、湊は目を覚ました。


 空は薄く明るくなり始めている。


 土と草の匂い。


 近くを流れる川の音。


 見覚えのない橋。


「どこだ、ここ……」


 湊はゆっくりと上半身を起こした。


 全身がひどく重い。


 長時間走り続けた後のように、脚と腰が痛んでいる。


 服には泥が付き、袖の一部が濡れていた。右手の甲と膝には、覚えのない浅い傷がある。


 昨夜は九条院家の客間で眠ったはずだった。


 外へ出た記憶はない。


 河川敷へ来た覚えもない。


 立ち上がろうとしたところで、足元にスマートフォンと家の鍵が落ちていることに気づいた。


 どちらも客間の机へ置いたはずのものだ。


 スマートフォンの画面を確認する。


 午前五時十二分。


 地図を開くと、九条院家から数キロ離れた河川敷にいることが分かった。


 着信もメッセージもない。


「寝ぼけて歩いてきたのか?」


 口に出してみても、納得できなかった。


 湊には夢遊病の経験などない。


 数キロもの距離を歩いたのなら、身体や服が汚れていることには説明がつく。


 しかし、どうして鍵とスマートフォンを持っているのか。


 なぜ途中で一度も目を覚まさなかったのか。


 昨夜の記憶を探ろうとすると、暗いトンネルと青白い目が浮かんだ。


 同時に頭痛が起こり、湊は額を押さえる。


「また、あの夢か……」


 それ以上考えるのをやめた。


 今は、九条院家へ戻る方が先だ。


 家族が起きて不在に気づけば、大きな騒ぎになる。


 湊は泥を払い、痛む脚を引きずりながら歩き出した。


     ◇


 九条院家へ戻った頃、時刻は午前六時を少し過ぎていた。


 住宅街には新聞配達のバイクが走っているだけで、人通りはほとんどない。


 湊は家の前で周囲を確認し、持っていた鍵で玄関を開けた。


 家の中は静かだった。


 靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を進む。


 二階へ続く階段の近くには、新しい護符が貼られていた。


 昨夜まではなかったはずだ。


 湊には、白い紙に描かれた模様の意味は分からない。


 遠い家系に残る、古い習慣のようなものだろうと思い、その横を通り過ぎた。


 伊織の部屋の前でも足を止める。


 中から物音はしない。


 家族の誰も、湊がいなかったことに気づいていないようだった。


 客間へ戻ると、掛け布団は乱れたまま残されていた。


 湊は汚れた服を脱ぎ、鞄の奥へ押し込んだ。


 鞄からタオルを取り出し、部屋に置いていたペットボトルの水で濡らして、泥と傷口を拭った。


 幸い、どの傷も浅い。


 服で隠せば、家族に気づかれることはないだろう。


 湊は新しい服へ着替え、布団の上へ腰を下ろした。


 手の中には、家の鍵がある。


 自分で持ち出した記憶のない鍵。


 夢遊病だとすれば、また同じことが起きるかもしれない。


 誰かに相談するべきだと分かっていた。


 それでも、預けられた直後から余計な心配をかけたくはない。


 次に同じことが起きたら、そのときに考えればいい。


 湊は鍵を机へ戻した。


 家族が目を覚ますまで、河川敷で何があったのかを誰にも話さないことにした。


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