第4話 王子様のいる教室
九条院伊織に続いて教室へ入ると、久世湊へ再び視線が集まった。
つい先ほど、転校生として紹介される直前に倒れたのだ。注目されるのも無理はない。
「体調はもういいのか?」
教壇に立つ担任が尋ねる。
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「無理はするなよ。気分が悪くなったら、すぐに保健室へ行くように」
「分かりました」
湊が教壇の横へ立つ。
黒板には、担任が書いたらしい湊の名前が残されていた。
「それじゃあ、改めて自己紹介を」
「久世湊です。親の仕事の都合で転校してきました。よろしくお願いします」
短い自己紹介を終えて頭を下げる。
教室から拍手が起こった。
「久世の席は、窓際の一番後ろだ」
指定されたのは、伊織の席から斜め後ろに当たる場所だった。
湊が席へ向かう途中、女子生徒たちの小声が聞こえてくる。
「朝、伊織さんと一緒にいた人だよね」
「親戚だって」
「同じ家で暮らしてるって本当かな」
聞こえないふりをして椅子へ座る。
伊織が申し訳なさそうに振り返った。
湊は気にしていないことを示すため、小さく肩をすくめた。
◇
休み時間になった途端、湊の机は女子生徒たちに囲まれた。
「久世君、伊織さんの親戚なんだよね?」
「どれくらい近い親戚なの?」
「昨日から同じ家に住んでるって本当?」
「九条院さんとは、家系図を見ないとつながりが分からないくらい遠い親戚です。会ったのも昨日が初めてです」
朝も似たような説明をしたが、その場にいなかった生徒の方が多かったらしい。
「伊織さんって、家ではどんな感じ?」
「どんな感じと言われても……」
「やっぱり家でも格好いいの?」
「朝から完璧だったりする?」
「寝起きは? 寝癖とかつかないの?」
質問が次々と飛んでくる。
湊は困りながら、廊下側の席にいる伊織へ目を向けた。
伊織も別の女子生徒たちに囲まれている。
困っているはずなのに、表情には出していない。一人ずつの話を聞き、いつも通り穏やかな笑顔で応じていた。
「九条院さんの家での様子を、勝手に話すつもりはありません」
湊が答えると、女子生徒たちは顔を見合わせた。
「意外と口が堅い」
「昨日会ったばかりなんですけど」
「でも、一緒に住んでるんでしょう?」
「家の事情で預かってもらっているだけです。皆さんが期待しているような話は何もありません」
はっきり答えると、女子生徒たちはようやく納得したらしい。
質問の内容が、出身校や好きな教科へ変わっていく。
その様子を少し離れた場所から見ていた一人の女子生徒が、皆の会話が落ち着くのを待って近づいてきた。
「久世君」
柔らかな声に呼ばれ、湊は顔を上げた。
肩を越える栗色のセミロングと、薄い茶色の瞳を持つ小柄な少女だった。派手さはないが、穏やかで近づきやすい雰囲気がある。
「朝比奈小春です。伊織さんの友人です」
「久世湊です。よろしく」
「体調は、もう大丈夫ですか?」
「はい。少し疲れていただけだと思います」
「そうですか。よかった」
小春は手にしていた数枚のプリントを、湊の机へ置いた。
「朝の連絡事項です。保健室へ行っている間に配られたので」
「ありがとうございます」
「分からないことがあったら、私か伊織さんに聞いてください」
小春はそれだけ告げると、無理に会話を続けようとはしなかった。
ほかの女子生徒たちとは違い、伊織との同居についても尋ねてこない。
「朝比奈さんは、九条院さんと長いんですか?」
「同じクラスになったのは今年からです。でも、以前から何度か話したことはあります」
「王子様とその友人、ですか」
「私は、伊織さんを王子様だと思ったことはありません」
小春が静かに答えた。
「確かに格好よくて、頼りになる人です。でも、普通に疲れますし、無理をすることもありますから」
湊は、女子生徒たちに囲まれている伊織を見る。
表情は明るい。
しかし、時折、負傷した右腕をかばうように左手で荷物を受け取っていた。
「朝比奈さんは、よく見てるんですね」
「見ていないと、伊織さんは何も言ってくれませんから」
小春の視線が、一瞬だけ伊織の右腕へ向けられた。
◇
午前の授業が終わるまでに、湊は伊織が学校でどのような生徒なのかを少しずつ理解した。
教師から指名されれば、難しい問題にも迷わず答える。
授業で使う教材が足りなければ、自分のものを後ろの席へ回す。
女子生徒が落とした筆箱にも、教師が運ぼうとしていた資料にも、誰より早く気づいた。
どれも大げさな行動ではない。
自然に周囲を見て、困っている人へ手を差し伸べている。
王子様と呼ばれるのは、容姿や運動能力だけが理由ではないのだろう。
昼休みになると、その人気をさらに実感することになった。
「伊織、今日の放課後、バスケ部を手伝ってくれない?」
「九条院先輩、陸上部のリレー選考にも来てもらえませんか?」
「明日の体育館練習、バレー部も人数が足りなくて……」
複数の運動部員が、弁当を開く前の伊織へ声をかけている。
「今日はバスケ部を三十分だけ手伝って、その後なら陸上部にも――」
「伊織さん」
小春が伊織の言葉を遮った。
いつもの柔らかな声だが、少しだけ強い調子だった。
「今日は休んでください」
「でも、人が足りないみたいだから」
「右腕をかばっていますよね」
伊織の笑顔が、わずかに固まる。
女子生徒たちの視線が、その右腕へ集まった。
「昨日、少し転んだだけだよ」
「それなら、治るまで休むべきです」
「軽い傷だから、動かしても問題ないよ」
「問題がない人は、朝から一度も右手で荷物を持たないようなことはしません」
小春の言葉に、伊織は答えられなかった。
バスケットボール部の女子生徒が、心配そうに眉を下げる。
「ごめん、伊織。怪我してるって知らなくて」
「こちらこそ、ごめん。手伝えると思ったんだけど」
「謝らないでよ。怪我してる人に頼めないって」
「陸上部も、ほかの人を探します」
「バレー部も大丈夫です。無理しないでください」
女子生徒たちは伊織を責めることなく、心配そうに声をかけてから離れていった。
伊織は机の上に置いた弁当を見つめ、小さく息を吐く。
「迷惑をかけたな」
「どこがですか」
小春が伊織の前の席へ座った。
「皆さん、自分たちで何とかすると言っていました」
「最初から断れば、別の人を探す時間があったでしょう」
「伊織さんが断っても、誰も嫌いになったりしません」
「分かっているんだけどね」
そう答えながらも、伊織の表情は晴れない。
湊は自分の席から立ち、伊織たちの近くへ移動した。
「九条院さんは、頼まれたことを全部引き受けるつもりなんですか」
「久世君」
「バスケ部の後に陸上部へ行って、明日はバレー部。怪我がなくても無理があるでしょう」
「時間を分ければ、できないことはないよ」
「できるかどうかではなく、やる必要があるかという話です」
伊織が目を瞬く。
王子様として慕う女子生徒たちは、伊織が引き受けてくれることを喜ぶ。
小春は、伊織が疲れていないかを見ている。
湊には、学校での事情はまだ分からない。
ただ、家で傷の手当てを受けていた伊織が、無理をしていることだけは分かった。
「全部引き受けて九条院さんが倒れたら、家の人が心配します」
「久世君の言う通りです」
小春がうなずいた。
「二人で責めなくても」
「責めているのではなく、心配しているんです」
「俺は、美冬さんたちが心配すると思っただけです」
「久世君は素直じゃありませんね」
「朝比奈さんに言われる理由はないと思います」
小春が口元へ手を添えて笑った。
伊織も、つられるように小さく笑う。
多くの女子生徒に向ける整った笑顔ではない。家で見せたものと同じ、肩の力が抜けた表情だった。
「分かった。今日は何も引き受けないよ」
「明日も、腕が治っていなければ休んでください」
「小春は厳しいな」
「伊織さんが自分に甘ければ、私も何も言いません」
小春は購買で買った紙パックの紅茶を、伊織の机へ置いた。
「それと、先にお弁当を食べてください。昼休みが終わってしまいます」
「ありがとう、小春」
伊織はようやく弁当箱の蓋を開けた。
湊は自分の席へ戻りながら、二人の様子を振り返った。
小春だけは、伊織を王子様ではなく、一人の少女として見ている。
その言葉の意味が、少し分かった気がした。
◇
放課後、湊は担任から渡された転入関係の書類を確認していた。
教室には、部活動へ向かう生徒の姿がまだ残っている。
伊織は別の教師に呼ばれ、先に教室を出ていた。小春も図書委員の仕事があるらしい。
やがて、教室に残っていた生徒たちも一人ずつ帰っていく。
すべての書類を鞄へ入れた頃には、湊一人になっていた。
窓から差し込む夕日が、机と椅子の長い影を床へ伸ばしている。
湊は席を立ち、窓の外を見た。
運動場では、部活動の生徒たちが練習を始めている。掛け声と笛の音が、閉じた窓越しに聞こえてきた。
窓ガラスには、教室に立つ湊の姿が薄く映っている。
その背後を、黒い何かが横切った。
湊は振り返った。
誰もいない。
机と椅子が並んでいるだけだ。
「また見間違いか……」
もう一度、窓ガラスへ目を向ける。
今度は何も映っていなかった。
九条院家の廊下で見た黒い犬のような影。
先ほど窓に映った、人の形にも見える黒い影。
どちらも一瞬で消えている。
環境が変わったことによる疲労。
転校初日の緊張。
朝に起きた頭痛。
原因になりそうなものはいくらでもあった。
湊は深く考えず、鞄を肩へ掛けた。
教室を出る直前、どこからか小さな声が聞こえた気がした。
言葉の内容までは分からない。
振り返っても、夕日に染まった教室には誰もいなかった。
◇
湊が教室を出てから、しばらく後。
伊織は忘れていた教科書を取りに戻ってきた。
廊下には誰もいない。
教室の扉へ手をかけようとしたところで、足元の影が小さく揺れた。
『待て』
クロの低い声に、伊織の手が止まる。
「どうしたの?」
『何かいる』
伊織は周囲を見回した。
人の姿はなく、妖魔の気配もほとんど感じられない。
「教室の中?」
『少し前まではな』
伊織が扉を開ける。
夕日に染まった教室は静まり返っていた。
机の間を進み、窓際に立つ。
クロが伊織の影から顔だけを出した。金色の瞳が、窓ガラスと床を順番に見つめる。
『弱い妖気が残っている』
「四等妖魔?」
『そこまで形を持っていない。生まれかけか、気配を隠しているかのどちらかだ』
「どこへ行ったか分かる?」
『人間の匂いが多すぎる。ここでは追えん』
伊織は護符を一枚取り出し、窓ガラスへ近づけた。
白い紙の端が、わずかに黒く変色する。
何らかの妖魔が、ここにいた。
しかし、窓にも床にも核へつながる痕跡はない。
「学校の中で妖魔が生まれたのかな」
『珍しいことではない』
クロが冷たく答える。
『妬み、焦り、孤独、不満。大勢の人間が長時間集まる場所には、餌がいくらでもある』
窓の外では、生徒たちが部活動に励んでいた。
笑い声と掛け声が聞こえてくる。
その日常のすぐそばに、普通の人間には見えない何かが潜んでいる。
「調べる必要があるね」
『陰陽寮へ報告するか』
「報告はするよ。ただ、この程度の痕跡だけでは、大がかりな調査はできないと思う」
『なら、どうする』
「学校にいる間、私とクロで探る。はっきりした異常を見つけたら、すぐ葛城さんへ連絡するよ」
『一人で抱え込むなと言われたばかりではなかったか』
「報告したうえで調べるなら、抱え込んでないでしょう」
『都合のいい解釈だ』
「学校の中なら、私が一番動きやすいよ。それに、一般の陰陽師を大勢入れたら、生徒たちに気づかれるかもしれない」
『無茶をしないという約束は』
「できる範囲で調べるだけ。戦うと決まったわけじゃないよ」
クロは納得していないのか、低く鼻を鳴らした。
伊織は黒く変色した護符をしまい、机の上に置いていた教科書を鞄へ入れた。
「帰ろう。家に着いたら報告書を送る」
『あの小僧にも気をつけろ』
「久世君は関係ないでしょう」
『この教室に残った妖気の近くに、あの小僧の匂いがある』
「同じ教室にいるんだから、当たり前だよ」
『そうであればいいがな』
伊織は教室を見回した。
妖魔の姿はない。
微かな妖気も、すでに薄れ始めている。
これ以上ここにいても手がかりは得られないと判断し、教室を出た。
扉が閉まり、伊織の足音が遠ざかっていく。
誰もいなくなった教室で、窓ガラスを細長い影が音もなく横切った。
その影を見た者は、誰もいなかった。




