第3話 トンネルの中の声
教室の扉が開き、中にいた生徒たちの視線が一斉に久世湊へ向けられた。
「席に着け。今日は転校生を紹介する」
担任の言葉で、教室内のざわめきが少しだけ大きくなる。
湊は短く息を吸い、教室へ足を踏み入れようとした。
その瞬間、額の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
視界が大きく揺れる。
湊はとっさに扉の縁へ手をついた。
「久世?」
担任が振り返る。
返事をしようとしたが、声が出なかった。
周囲の話し声が遠ざかり、代わりに車輪が線路を走る音が聞こえてくる。
鉄の匂い。
規則的な振動。
窓の外を流れていく、夕暮れの町並み。
痛みの奥から、失われていた記憶が浮かび上がった。
◇
九条院家へ向かう電車の中で、湊は窓際の席に座っていた。
足元には大きなキャリーケースが置かれている。
車内に乗客は多くなかった。向かいの席ではスーツ姿の男性が目を閉じ、その隣では制服姿の女子生徒がスマートフォンを操作している。
湊の手にも、母から届いたメッセージが表示されていた。
《九条院さんに迷惑をかけないようにね》
《着いたら連絡する》
《困ったことがあれば、すぐに相談するのよ》
《分かってる》
短い返信を送ると、湊はスマートフォンをポケットへ入れた。
両親と離れて暮らすことに、不安がないわけではない。
それでも海外へついていくより、日本に残る方がいいと決めたのは自分だ。
九条院家がどのような家なのかは、ほとんど知らない。
遠い親戚。
古くから続く家系。
昔は陰陽師をしていたという、信じ難い話。
今の時代に妖怪や陰陽師などいるはずがない。湊にとっては、親戚の間で受け継がれている昔話の一つにすぎなかった。
電車が速度を落とさないまま、長いトンネルへ入った。
窓の外が暗くなる。
その直後、車内の照明がすべて消えた。
「停電か?」
湊が顔を上げる。
非常灯すら点灯していない。
窓の外だけでなく、車内まで完全な闇に包まれていた。
電車が走る音も消えている。
揺れも、車輪の音も、乗客の話し声もない。
耳が痛くなるほどの静寂だった。
「すみません」
湊は向かい側へ呼びかけた。
返事はない。
スマートフォンを取り出そうとしたが、腕が動かなかった。
指先だけではない。
肩も、脚も、首も動かせない。
身体が座席へ縫い止められたようだった。
目だけを動かして周囲を見る。
向かいに座っていた男性も、女子生徒も、暗闇の中で動きを止めていた。
眠っているのではない。
呼吸さえしていないように見える。
「何だよ、これ……」
自分の声だけが、暗い車内に響いた。
そのとき、窓の外に二つの光が浮かんだ。
青白い目。
人間よりも高い位置から、湊を見下ろしている。
電車はトンネルの中を走っているはずなのに、それは窓のすぐ外に立っていた。
「誰だ」
青白い目が、ゆっくりと近づく。
窓ガラスも車体の壁も関係なく、黒い何かが車内へ入り込んできた。
人の形に似ている。
けれど、輪郭は闇に溶け、顔も身体も見えない。
ただ二つの目だけが、湊を捉えている。
『見つけた』
男とも女とも分からない声だった。
耳からではなく、頭の内側へ直接響いてくる。
「何を……」
『境界を渡るための器』
黒い影が、湊の前で止まる。
『しばらく借りる』
「器って何だ。ふざけるな」
湊は身体を動かそうとした。
しかし、指一本動かせない。
青白い目が、何の感情も見せずに湊を見つめる。
「断る。俺の身体だ」
『同意は求めていない』
影が右手のようなものを伸ばした。
冷たい感触が湊の胸へ触れる。
氷を押し込まれたような冷気が、胸から全身へ広がった。
「やめ――」
拒絶の言葉を最後まで口にする前に、湊の意識は闇へ沈んだ。
◇
「久世君!」
誰かに名前を呼ばれた。
湊の意識が、教室前の廊下へ引き戻される。
身体が傾いていた。
床へ倒れる直前、誰かの腕が湊の身体を支えた。
灰色を帯びた濃い青の瞳が、すぐ近くにある。
「九条院……さん?」
「聞こえる?」
教室から駆けつけた伊織が、湊の片腕を自分の肩へ回していた。
細身の身体からは想像できないほど、しっかりと湊を支えている。
「大丈夫です。少し、頭が痛くなっただけで」
「それを大丈夫とは言わないよ」
担任も心配そうに湊の顔を覗き込む。
「顔色が悪いな。九条院、悪いが保健室まで連れていってくれるか」
「分かりました」
「一人で歩けます」
「また倒れたら危ないでしょう」
伊織は湊の返事を待たず、その身体を支えたまま歩き出した。
教室にいた女子生徒たちが、心配そうに二人を見送っている。
「転校初日から、すみません」
「謝ることじゃないよ」
「九条院さんまで教室を抜けることになりました」
「久世君が倒れたのに、そのまま授業を始める方が難しいでしょう」
伊織の声は穏やかだったが、湊を支える手に迷いはない。
歩いている間にも頭痛は少しずつ治まり、保健室へ到着する頃には一人で立てるほどになっていた。
◇
「熱はないわね」
養護教諭が体温計を確認する。
血圧にも異常はなく、頭を打った形跡もない。
「環境が変わったばかりだから、疲れが出たのかもしれないわ。少し横になっていきなさい」
「もう大丈夫です」
「大丈夫かどうかを決めるのは先生です」
昨日の美冬と似たことを言われ、湊は反論を諦めた。
保健室の寝台へ横になり、白いカーテンが閉じられる。
養護教諭は職員室へ連絡するため、一度保健室を出ていった。
「九条院さんも、教室に戻っていいですよ」
湊がカーテンの向こうへ声をかける。
「先生が戻ってくるまではいるよ」
「本当に、もう痛くないです」
「さっきもそう言って倒れたでしょう」
カーテンが少しだけ開き、伊織が顔を覗かせた。
涼しげな目元に、心配の色が浮かんでいる。
「少し確認してもいい?」
「何をですか」
「目を見るだけ」
伊織は寝台の横へ来ると、湊の瞼へ指先を近づけた。
灰色を帯びた濃い青の瞳に、淡い光が宿る。
伊織は短時間だけ霊視を使い、湊の身体を調べた。
妖魔に取り憑かれた人間には、身体の内側や周囲に妖気が残る。先ほどの頭痛が妖魔によるものであれば、何らかの痕跡が見えるはずだった。
しかし、湊の身体に妖気はない。
戦闘に使えるほどの霊力も感じられなかった。
見えるのは、ごく普通の人間が持つ弱い生命の光だけだ。
「九条院さん?」
湊の声で、伊織は霊視を解いた。
目の奥に、針で刺されたような小さな痛みが残る。
「充血はしていないね」
「それを確認してたんですか?」
「念のために」
伊織は何事もなかったように答えた。
寝台の下で、彼女の影がわずかに揺れる。
『何か見えたか』
影の中に潜んでいるクロの声だった。
その声は伊織にしか聞こえない。
伊織は答えず、ごく小さく首を横へ振った。
妖気も、異常な霊力もない。
それなら、クロが感じた人間ではない匂いは何なのか。
廊下から、養護教諭の戻ってくる足音が聞こえた。
伊織が保健室の扉へ顔を向ける。それに合わせ、足元の影に潜むクロの意識も扉の外へ向いた。
その瞬間、湊の閉じた瞼の奥を、青白い光がかすかに横切った。
光は伊織が振り返るより早く消え、誰にも気づかれることはなかった。
保健室の扉が開き、養護教諭が戻ってくる。
「担任の先生には連絡しておいたわ。落ち着くまで、もう少し休みなさい」
「分かりました」
湊は目を開け、何事もなかったように答えた。
◇
「さっき、何か思い出した気がします」
しばらく休んだ後、湊が口を開いた。
頭痛は完全に消えている。
「思い出した?」
「ここへ来る途中、電車で見た夢です」
「昨日話していた夢?」
「たぶん」
湊は天井を見つめた。
暗い車内。
動かない乗客。
青白い二つの目。
確かに何かを言われた。
けれど、言葉の内容を思い出そうとすると、記憶が指の間からこぼれるように消えていく。
「トンネルに入った後、電車の照明が消えた気がします。誰かに話しかけられて……その先は、よく覚えてません」
「停電があったの?」
「分かりません。目を開けたときには、普通に電車が走っていましたから」
「ほかの乗客は?」
「何事もなかったみたいでした」
「それなら、本当に夢だった可能性もあるね」
「俺もそう思います。昨日は朝から移動して、疲れていたので」
口ではそう言いながらも、湊の胸には冷たい感触が残っていた。
ただの夢にしては、生々しすぎる。
それでも妖怪や陰陽師より、疲労による夢だと考える方が現実的だった。
「九条院さんは、夢占いとか信じますか」
「どうして私に聞くの?」
「九条院家には、そういう昔話が残ってると聞いたので」
「昔話は昔話だよ」
伊織は穏やかに答える。
陰陽師として妖魔を討っている本人が言っているのだから、湊にとっては随分と奇妙な返事だった。
「そうですよね」
「ただ、同じ夢を何度も見るようなら教えて。頭痛も続くようなら、病院で調べてもらおう」
「分かりました」
養護教諭から、もう少し休んでからなら教室へ戻ってよいと許可が出た。
伊織も先に戻ろうとしたが、湊が起き上がるまで保健室に残った。
「過保護ですね」
「預かった人を放っておけないだけだよ」
「俺と同い年でしょう」
「そうだけど、昨日来たばかりだから」
湊は制服の上着を整え、寝台から立ち上がった。
「本当に平気?」
「九条院さんは、自分が怪我をしても隠すのに、人のことは心配するんですね」
伊織の視線が、自分の右腕へ向く。
制服の袖の下には、縋り手に負わされた傷がある。
「私のは、動けないほどの怪我じゃないから」
「俺の頭痛も、もう動けないほどじゃありません」
「久世君、意外と言うね」
「言うべきことは言う性格なので」
伊織は少し驚いた後、小さく笑った。
学校で女子生徒たちへ向けていた完璧な笑顔とは違う。
どこか力の抜けた、普通の少女らしい笑い方だった。
「分かった。でも、また痛くなったらすぐに言って」
「九条院さんも、腕が痛くなったら言ってください」
「それは誰に?」
「少なくとも、家の人には」
「善処します」
「それ、言わない人の返事ですよね」
二人は保健室を出て、並んで教室へ向かった。
教室の前に着いても、湊の頭に痛みはなかった。
伊織が扉を開ける。
中から、再び大勢の視線が向けられた。
「入れる?」
「大丈夫です」
今度こそ、湊は教室へ足を踏み入れた。




