第2話 遠い分家の少年
客間の扉を閉めた久世湊は、畳の上に置いたキャリーケースを見下ろした。
一年間の生活に必要なものを詰め込んだはずなのに、荷物はそれほど多くない。足りないものは現地で買えばいいと母から言われている。
両親の海外赴任が決まったとき、湊は日本に残ることを選んだ。
高校二年生という時期に、言葉も生活習慣も違う国へ移るよりはいい。そう考えた結果、以前から交流のあった九条院家に預けられることになった。
九条院家とは、家系図をたどらなければつながりが分からないほど遠い親戚だった。
古くから続く特別な家系。
大きな日本屋敷に住み、代々奇妙な儀式を受け継いでいる。
幼い頃、親戚からそんな話を聞いた覚えがある。
遠い分家に当たる湊の家にも、陰陽師や妖怪にまつわる昔話はいくつか残されていた。もっとも、湊はそのどれも信じていない。
だから九条院家で暮らすと聞いたときは、山奥にある古い屋敷を想像していた。
実際に案内されたのは、静かな住宅街に建つ二階建ての一戸建てだった。
門に難しい文字が刻まれているわけでもなければ、庭に不気味な石像が並んでいるわけでもない。
客間も、ごく普通の和室だ。
窓際には小さな机が置かれ、壁には新しい制服が掛けられている。畳からは、日に干したばかりの匂いがした。
「思ってたのと全然違うな……」
湊は呟き、畳へ腰を下ろした。
夕食の席でも、九条院家の三人は湊を温かく迎えてくれた。
父親の直人は、細い銀縁眼鏡を掛けた穏やかな男性だった。大学図書館で働いているらしく、話し方にもどこか静かな落ち着きがある。
「一年ほどになるけど、遠慮する必要はないからね。ここを自分の家だと思ってくれればいい」
「それは難しいと思いますけど、なるべく迷惑はかけないようにします」
「最初から遠慮しているじゃないか」
直人が困ったように笑う。
肩までの黒髪を後ろでまとめた美冬は、湊の前へ料理を並べながら尋ねた。
「苦手な食べ物はある?」
「特にはありません」
「アレルギーは?」
「それもないです」
「よかった。足りなければ遠慮なく言ってね」
両親が不在となる事情には触れず、ごく自然に迎え入れてくれた。その気遣いが分かったからこそ、湊も素直にありがたいと思えた。
そして、二人の向かいには九条院伊織が座っていた。
学校の制服から私服に着替えていたが、姿勢のよさと中性的に整った顔立ちは変わらない。短い青黒の髪と、灰色を帯びた濃い青の瞳が印象的だった。
親戚とはいえ、会ったのは今日が初めてだ。
それでも妙な気まずさを感じないのは、伊織が無理に距離を縮めようとしてこないからだろう。
湊が気になったのは、その右腕に巻かれた包帯だった。
「その腕、どうしたんですか」
「学校で少し転んだんだ」
「転んだ?」
「運動部の助っ人をしていてね」
伊織はそう言って、何でもないように笑った。
しかし、包帯は手首から肘の近くまで巻かれている。単に転んだだけなら、あれほど広い範囲を覆う必要はないだろう。
湊は疑問に思ったが、初対面の相手へ深く尋ねることではない。
「九条院さんも運動部なんですか?」
「いや。頼まれたときに手伝うくらいだよ」
「伊織はいろんな部から声をかけられるの」
美冬がどこか誇らしげに言った。
「本人は困っているみたいだけど、学校では結構人気があるのよ」
「お母さん」
「本当のことでしょう?」
伊織はわずかに眉を下げる。
学校で人気があると言われれば納得できる容姿ではある。ただ、それを本人へ伝える必要もないので、湊は黙って食事を続けた。
食事を終えた湊は、自分の食器だけでなく、空いた皿も重ねて台所へ運んだ。
「あら、置いておいていいのよ」
「これくらいはやります。世話になっているのに、何もしない方が落ち着かないので」
「まだ来たばかりなんだから、そんなに気を遣わなくてもいいのに」
「性格なので」
湊が食器を流し台へ置く。
客として世話をされるだけでは落ち着かない性格らしい。
美冬は少しだけ困った顔をした後、柔らかく笑った。
「それなら、これからもお願いしようかしら」
「はい。その方が助かります」
◇
それからしばらくして、伊織は自室の机へ向かっていた。
制服の上へカーディガンを羽織り、陰陽寮から支給された端末に任務報告を入力する。
《発生地点・旧星守北商店街》
《対象・三等妖魔、縋り手》
《一般人被害・一名。軽度の霊的接触あり》
《対象の核を白月により切断。討伐完了》
伊織の指が止まる。
消滅する直前に聞いた声が、耳の奥に残っていた。
まだ、終わりたくなかった。
忘れないでくれ。
討伐自体は間違っていない。
縋り手を放置していれば、女子中学生は閉鎖された店舗へ引きずり込まれていた。最悪の場合、命を落としていただろう。
それでも、縋り手には少女を殺そうとする明確な意思がなかった。
ただ、誰にも忘れられたくなかった。
あの場所から、人がいなくなることを受け入れられなかった。
『手が止まっているぞ』
机の下からクロの声がした。
黒い中型犬に近い姿で伏せているが、その金色の瞳は伊織ではなく、壁の向こうを見ている。
「考えていただけ」
『あれを斬ったことか』
「討伐命令に従っただけだよ」
『なら、悩む必要もないだろう』
「別に悩んでない」
『お前は昔から、嘘をつくのが下手だな』
クロは鼻を鳴らした。
伊織は報告書の備考欄に、縋り手が残した言葉と発生原因について入力する。
入力を終えて端末を閉じると、クロがゆっくりと立ち上がった。
『今夜は我が見張る』
「久世君を?」
『ほかに誰がいる』
「客間には入らないで。普通の人にはクロもただの犬に見えるけど、夜中に部屋へ入ったら驚かせるでしょう」
『あの小僧が、本当に普通の人間ならな』
「まだ疑っているの?」
『あれから漂うものは、妖気でも人間の霊力でもない。我が知らぬものを警戒するのは当然だ』
「久世君は、家族の事情で預けられただけだよ。陰陽師のこととは関係ない」
『そうであればいいがな』
「驚かせるようなことはしないでよ」
『約束はせん』
「クロ」
『部屋には入らぬ。それで文句はあるまい』
クロの身体が床へ沈む。
煙のように揺れる黒い輪郭は、そのまま伊織の影へ溶け込んで消えた。
「本当に、何もしないでよ」
伊織は足元の影へ呼びかけたが、返事はなかった。
◇
深夜。
湊は暗い客間で目を開けた。
枕元の時計は、午前一時を少し過ぎた時刻を示している。
疲れていたはずなのに、深く眠ることができなかった。
見知らぬ天井のせいだろうか。
それとも、ここへ来る途中に見た夢のせいか。
暗い場所にいた。
どこからか声をかけられた気もする。
しかし、思い出そうとすると額の奥が痛み、肝心な部分だけが霧に包まれてしまう。
「水でも飲むか……」
湊は布団から出て、客間の扉を開けた。
廊下の照明は消えている。
足音を立てないように台所へ向かおうとしたところで、廊下の奥に何かがいることに気づいた。
黒い犬。
最初は、クロだと思った。
しかし、その姿は玄関で見たものとは違っていた。
暗闇に溶け込んだ身体は犬よりも大きく、輪郭が煙のように揺れている。二つの金色の光だけが、闇の中に浮かんでいた。
「クロ……?」
湊が名前を呼ぶ。
黒い影は答えなかった。
瞬きをした次の瞬間、その姿は消えていた。
廊下には何もない。
窓も玄関も閉まっている。
目を覚ましたばかりで、暗がりを見間違えたのだろうか。
湊はしばらく廊下の奥を見つめていたが、やがて台所へ向かった。
「疲れてるんだな」
自分へ言い聞かせるように呟く。
冷たい水を飲んで客間へ戻る途中、廊下の照明が一度だけ明滅した。
湊は足を止めた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
ただ、誰かに見られているような感覚だけが残っていた。
◇
「久世君、起きてる?」
翌朝、扉の向こうから伊織の声がした。
「起きてます」
「朝食ができてるよ。学校の準備も忘れないで」
「分かりました」
湊が制服へ着替えて食卓へ向かうと、伊織はすでに朝食を終えかけていた。
白いシャツには皺一つなく、青黒の髪もきれいに整えられている。右腕の包帯は制服の袖に隠れ、注意して見なければ負傷しているとは分からない。
「眠れなかった?」
伊織が尋ねた。
「少し。知らない家だからだと思います」
「何か気になることがあったら言って。できる範囲で対応するから」
「九条院さんは、いつもそんなに早いんですか」
「朝の鍛錬があるからね」
「鍛錬?」
「体力作り。運動部の助っ人を頼まれることが多いから」
伊織は迷いなく答えた。
湊はその顔を見たが、嘘をついているようには見えない。
「食べ終わったら一緒に行こう。学校まで案内するよ」
「お願いします」
二人は朝食を終え、並んで家を出た。
星嶺学園までは徒歩で二十分ほどだった。
住宅街を抜ける間、近所の人たちが次々と伊織へ声をかける。
「伊織ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「今日も早いねえ」
「遅刻したくありませんから」
伊織は相手の年齢に関係なく、立ち止まって丁寧に挨拶を返していた。
「有名なんですね」
「昔から住んでるから、顔を覚えられてるだけだよ」
「学校でも人気があるって聞きましたけど」
「お母さんの話は気にしなくていい」
伊織の返事が、ほんの少しだけ早くなる。
湊はそれ以上追及しなかった。
やがて、白い校舎と大きな正門が見えてくる。
私立星嶺学園高等部。
門を通った途端、周囲の空気が変わった。
「伊織さん、おはようございます!」
「九条院先輩、昨日はありがとうございました!」
「王子様、今日の放課後は空いてますか?」
女子生徒たちが、次々と伊織の周囲へ集まってくる。
上級生も下級生も関係ない。何人かは伊織を見るだけで頬を赤くしており、遠巻きに手を振っている生徒までいた。
「おはよう。昨日の荷物は片づいた?」
「はい! 先輩のおかげです!」
「放課後はまだ分からないんだ。ごめんね」
伊織は困ったように笑いながらも、一人ずつに返事をしている。
玄関での美冬の話を、湊は少し大げさだと思っていた。
どうやら、王子様という呼び名は冗談ではないらしい。
やがて、一人の女子生徒が湊の存在に気づいた。
「伊織さん、その人は?」
周囲の視線が一斉に湊へ向けられる。
「久世湊君。遠い親戚なんだ。家の事情で、昨日からうちで預かることになった」
「同じ家に住んでるんですか?」
「そうだけど」
女子生徒たちの間に、わずかなどよめきが広がる。
湊は面倒な誤解が生まれる前に口を挟んだ。
「昨日初めて会ったくらい遠い親戚です。九条院さんとは、特別な関係じゃありません」
「久世君、そこまで説明しなくても……」
「説明しておいた方がよさそうだったので」
伊織は周囲を見回し、否定できないと判断したのか小さく息をついた。
「久世君は職員室へ行くんだよね」
「はい」
「校舎に入って右側の階段を上がれば分かるよ。私は教室に行くから、また後で」
「案内、ありがとうございました」
伊織は女子生徒たちに囲まれたまま、昇降口へ向かっていった。
湊はその背中を見送る。
家では、傷を隠して静かに食事をしていた少女。
学校では、誰からも慕われる王子様。
どちらが本当の九条院伊織なのか。
おそらく、どちらも本人なのだろう。
◇
職員室で手続きを終えた湊は、担任の教師とともに廊下を歩いていた。
「久世は二年三組だ。九条院と同じクラスだから、分からないことがあれば聞くといい」
「同じクラスなんですか」
「なんだ、聞いてなかったのか?」
「学校が同じだとは聞いていましたけど、クラスまでは」
「ちょうどよかったじゃないか。知り合いが一人いるだけでも違うだろう」
「そうですね」
担任が教室の前で足を止める。
扉の向こうから、大勢の話し声が聞こえていた。
「それじゃあ、久世。入るぞ」
担任が教室の扉へ手をかける。
湊は小さく息を整えた。
扉が開き、教室中の視線が一斉に湊へ向けられた。




