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学園の王子様は放課後、妖魔を斬る――正体不明の仮面の神、その器は同居中の少年でした――  作者: situ725


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第1話 王子様と、仮面の神

 夜の神社に、風はなかった。


 それでも境内を囲む木々は激しくざわめき、無数の葉を黒い空へ巻き上げている。


 古びた鳥居は半ばから折れ、石畳には幾筋もの亀裂が走っていた。拝殿のさらに奥では、闇そのものを切り取ったような巨大な亀裂が脈打っている。


 九条院伊織は、霊刀を支えにして立ち上がった。


 青みがかった黒いショートボブは乱れ、普段は涼しげな濃い青の瞳にも疲労がにじんでいる。制服の上に展開した濃紺の装束は裂け、左肩から流れた血が袖を濡らしていた。


 呼吸をするたび、脇腹の古傷が焼けるように痛む。


『伊織、もう動くな』


 足元の影から、クロの苦しげな声が響く。


 黒い獣は負傷し、姿を保つことすらできない。金色の瞳だけが、揺れる影の奥から伊織を見上げていた。


「そういうわけにはいかない」


『相手を見ろ。お前が勝てるものではない』


「分かっているよ」


 石段の先に、一人の人物が立っていた。


 背の高い身体を包む、黒いフード付きの長衣。夜の闇よりも深い布地には、淡く光る銀色の文様が走っている。


 顔を覆う白い仮面には、額から顎へ縦一本の黒い亀裂模様が刻まれていた。


 仮面の奥で、青白い二つの光が伊織を見る。


「退け、陰陽師」


 男とも女とも判別できない声だった。


「お前に構っている時間はない」


 仮面の人物が拝殿の奥へ向き直る。


 その先へ行かせてはならない。


 理由は、それだけで十分だった。


 伊織は震える手で白月を握り直し、切っ先を仮面へ向けた。


「行かせない」


「すでに結果は示したはずだ」


「一度負けたくらいで、諦めるように教えられていないんだ」


「無意味だ」


「それを決めるのは、あなたじゃない」


 仮面の人物が、わずかに沈黙した。


 伊織は残っている霊力を両脚へ集める。筋肉が軋み、傷口から新たな血がにじんだ。


『やめろ、伊織!』


 石畳が砕ける。


 伊織は夜気を切り裂き、白い仮面へ踏み込んだ。


 刃が届く、その直前――。


     ◇


 七か月前。


「九条院先輩、待ってください!」


 四月の柔らかな日差しが差し込む渡り廊下で、伊織は呼び止められた。


 振り返ると、一人の女子生徒が大きな段ボール箱を抱えて歩いてくる。箱は明らかに持ち主の視界を塞いでおり、その足取りも危なっかしい。


「それ、職員室まで?」


「はい。先生に頼まれたんですけど、思ったより重くて……」


「半分持つよ」


「えっ、でも――」


 伊織は返事を待たず、箱を軽々と受け取った。


 身長は女子としては高い百七十センチ。細身ながら、日々の鍛錬によって無駄なく引き締まった身体をしている。


 顎の辺りで揃えた青みがかった黒髪が、春風に揺れた。灰色を帯びた濃い青の瞳と切れ長の目、中性的に整った顔立ちは、男子生徒よりも凛々しく見えることがある。


 着崩していない制服姿で廊下を歩いているだけでも、自然と周囲の視線を集めてしまう。


「どこまで運べばいい?」


「第二職員室です。ありがとうございます、王子様!」


「その呼び方はやめてくれると嬉しいんだけどな」


 伊織が困ったように笑うと、女子生徒は顔を赤くした。


 二人が廊下を進む間にも、すれ違う生徒たちから声がかかる。


「伊織さん、今日の体育すごかったです!」


「九条院先輩、今度はテニス部にも来てください!」


「王子様、放課後は空いてますか?」


 一つずつ笑顔で応じながら、伊織は箱を第二職員室まで運んだ。


 教室へ戻ると、机の上には返却された数学の小テストが置かれていた。右上に記された点数は百点。その隣では、バスケットボール部の女子が両手を合わせている。


「お願い、伊織。今日だけ練習試合に入って。部員が一人休んじゃって」


「ごめん。今日は家にお客さんが来るんだ」


「そこをなんとか!」


「また今度なら手伝うよ」


「本当? 約束だからね!」


 女子生徒は機嫌を直し、伊織の手を両手で握ってから離れていった。


「相変わらず大変そうですね、王子様」


 隣から静かな声がした。


 朝比奈小春が、柔らかな栗色の髪を耳へかけながら伊織を見ている。


 伊織より一回り小柄で、肩を越える栗色のセミロングと、薄い茶色の瞳を持つ少女だった。華やかさよりも柔らかな雰囲気があり、控えめな微笑みは、周囲に不思議な安心感を与える。


「小春までそう呼ぶの?」


「皆さんの前では合わせた方がいいかと思って」


「合わせなくていいよ」


「では、伊織さん」


「うん。それが一番落ち着く」


 小春は小さく笑うと、伊織の机に紙パックの紅茶を置いた。


「購買へ行ったついでです。体育の後、何も飲んでいなかったでしょう」


「見られていたんだ」


「伊織さんは、自分のことを後回しにしすぎですから」


「ありがとう。今度、何かお返しするよ」


「お返しが欲しくて買ったわけではありません」


 小春がわずかに頬を膨らませる。


 伊織が謝ろうとしたとき、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。


 画面に表示されたのは、天気予報を装った通知だった。


《星守市北部、局地的な気圧異常。旧星守北商店街付近。警戒レベル三》


 一般人に見られても不自然ではない文章だが、それが陰陽寮から届いた任務連絡であることを伊織は知っていた。


 陰陽寮――政府の裏側で妖魔事件を処理する組織から届いた、正式な出動要請だった。


 家に客が来るまで、あと二時間。


「ごめん、小春。少し用事ができた」


「また、家の用事ですか?」


「うん。そんなところ」


 伊織は紅茶を鞄へ入れて立ち上がった。


 小春は追及せず、その代わりに伊織の顔をじっと見つめる。


「無理はしないでくださいね」


「大丈夫。すぐに帰るよ」


 いつもの笑顔でそう答え、伊織は教室を後にした。


     ◇


 旧星守北商店街は、三年前に閉鎖されていた。


 並んでいる店舗の大半はシャッターを下ろし、看板は色あせている。再開発区域を囲む金属製の柵には立入禁止の札が掛かり、人の気配はなかった。


 伊織は路地裏へ入り、制服の内ポケットから十センチほどの木製の御守りを取り出した。


「九条院の名において、白月を解く」


 御守りを包む白い組紐がほどけ、淡い光があふれる。


 木片だったものが伸び、反りを持つ刀身と黒い柄を形作った。数秒後、伊織の手には鞘に収まった一振りの刀が握られていた。


 続けて護符を制服の胸元へ押し当てる。


「隠形、展開」


 護符が青白い炎となって消え、濃紺の装束が制服の上から伊織を覆った。一般人の目には、黒い上着かコートのようにしか見えない。


 伊織の足元の影が膨らみ、一匹の黒い犬が姿を現した。


 中型犬ほどの大きさだが、特定の犬種には似ていない。金色の瞳は暗闇の中でも鋭く輝き、黒い身体の輪郭は煙のようにわずかに揺らいでいる。


『来るのが遅い』


「学校から急いできたんだけど」


『人間の事情など知るか。それより、奥だ』


 クロの金色の瞳が、商店街の暗がりを睨んだ。


『気配は一つ。三等程度。だが、人間が巻き込まれている』


「案内して」


『命令するな。こっちだ』


 クロは不満そうに鼻を鳴らしながら、閉ざされた商店街へ駆け込んだ。


 伊織が後を追う。


 空気が一歩ごとに冷たくなっていく。左右のシャッターから、爪で金属を引っかくような音が聞こえた。


 前方に、制服姿の少女がいた。


 中学生だろう。肩まで伸ばした黒髪を乱し、青ざめた顔で倒れた自転車のそばに座り込んでいる。


 少女は何もない空間へ鞄を引かれていた。本人には見えていないのだろうが、その肩と足首には灰色の腕が絡みついている。


「助けて……誰か……」


 少女の背後で、閉鎖された店舗のシャッターが内側から膨らんだ。


 金属を突き破り、無数の腕が伸びてくる。


 腕の根元には、いくつもの黒い人影が絡み合っていた。店主、客、住民。顔のない人影が互いへしがみつき、一つの異形を作っている。


『縋り手か』


 クロが低く唸る。


『店を守れなかった者たちの無念。忘れられた場所へ残った寂しさ。随分と溜め込んだものだ』


「原因の分析は後。あの子を離す」


 伊織は白月を抜いた。


 刀身が月光のような白い光を帯びる。


「クロ、周囲を封じて」


『人使いの荒い娘だ』


「妖魔使いだよ」


 クロの身体が影へ沈み、商店街の四方へ黒い線が走った。一般人を遠ざける簡易結界が形成される。


 縋り手が一斉に腕を伸ばした。


 伊織は霊力を脚へ流し込み、地面を蹴る。最初の腕を斬り、二本目をかわす。そのまま少女へ伸びる腕を続けて切断した。


 黒い霧が噴き出し、耳元で何人もの声が重なる。


『帰るな』


『ここにいろ』


『置いていかないでくれ』


 妖魔に殺意はない。


 それでも、細い腕に込められた力は少女の身体を壊しかねなかった。


「その子は、あなたたちの寂しさを埋めるためにいるんじゃない」


 伊織は少女の前へ滑り込み、迫ってきた腕を白月で受け止めた。


 別の腕が死角から伸びる。


『右だ!』


 クロの影が腕へ絡みつき、動きを止めた。


 伊織は振り返りざまに斬り払う。しかし、切断したはずの腕が床を這い、少女の足首を再びつかんだ。


 少女が悲鳴を上げる。


 伊織は白月を左手へ持ち替え、右腕で少女を抱えて引き寄せた。


 遅れて伸びた爪が、伊織の右腕を裂く。


「っ……!」


 制服の袖に赤い線が走った。


『伊織!』


「かすり傷。それより、本体の核は?」


『一番奥の影だ! 潰れた時計の下!』


 人影の中心に、壁へ掛かった古い時計があった。


 針は閉店時刻を示したまま止まっている。その下で、黒い塊が心臓のように脈打っていた。


 伊織は防護符を少女の胸元へ貼りつける。


「ここから動かないで」


「お姉さん、腕が……」


「大丈夫。すぐ終わるから」


 伊織は少女を背にして立った。


 白月を両手で構え、残った霊力を刃へ集める。


 無数の腕が行く手を塞いだ。


「クロ!」


『三秒だ!』


 影から現れたクロの身体が、三メートル近い黒狼へ変わる。煙のように揺らぐ巨大な身体から金色の瞳だけが鋭く輝いていた。


 クロの前脚が地面を打ち、広がった影がすべての腕を縫い止める。


 伊織は駆けた。


 一秒。


 正面の腕を斬る。


 二秒。


 人影の隙間へ踏み込む。


 三秒。


「白月――断て!」


 白い斬撃が、止まった時計ごと妖魔の核を貫いた。


 黒い塊に亀裂が入り、無数の人影がゆっくりと崩れていく。


『まだ、終わりたくなかった』


 かすかな声がした。


『忘れないでくれ』


 残った一本の腕が、何かを求めるように伊織へ伸びる。


 伊織は白月を下ろさず、その腕が光の粒となって消えるまで見届けた。


 静けさを取り戻した商店街に、壊れた看板が風で揺れる音だけが残った。


『人を襲った。だから斬った。それだけか?』


 元の大きさへ戻ったクロが尋ねる。


「それ以外に、何があるの」


『さあな』


 クロはそれ以上何も言わなかった。


 伊織は倒れた少女へ向き直り、震える肩へ自分の上着を掛けた。


「もう大丈夫。立てる?」


 少女は伊織の手を借りて立ち上がった。


「どうして、こんな場所に入ったの?」


「近道をしようとしたら、誰かに呼ばれた気がして……気づいたら、ここにいました」


「呼ばれた?」


「男の人や女の人の声が、たくさん聞こえたんです。こっちへ来て、帰ってきてって……」


 縋り手が、通りかかった少女を閉鎖区域へ誘い込んだのだろう。


 妖魔そのものは見えなくても、その声や気配が一般人へ届くことはある。


「もう声は聞こえない?」


「はい」


「それなら大丈夫。外まで送るよ」


 伊織が安心させるように笑うと、少女はようやく小さくうなずいた。


 商店街の外まで少女を送り届けた後、伊織は陰陽寮へ討伐完了を報告した。


 間もなく、一般車両に偽装した陰陽寮の車が到着する。保護担当者が少女を引き取り、妖魔の影響が残っていないか確認することになった。


 壊れたシャッターや店舗の被害は、老朽化による倒壊として処理される。


 妖魔が存在した痕跡は、いつものように一般社会から消されていく。


 伊織は血のにじんだ右腕を押さえながら、その様子を黙って見つめていた。


     ◇


「少し深いわね」


 自宅のリビングで、美冬は娘の右腕へ包帯を巻いていた。


 肩までの黒髪を後ろで一つにまとめた、穏やかな目元の女性だ。伊織とは顔立ちがあまり似ていないが、その落ち着いた話し方には、娘の張り詰めた気持ちを和らげるものがあった。


 消毒液が染みるたび、伊織の指先がわずかに動く。


「縫うほどじゃないよ」


「判断するのは負傷した本人ではありません」


「お母さん、戦えないのに手当てだけは本家の人より上手だよね」


「喜んでいいのかしら、それ」


 美冬が包帯を結び、呆れたように息をつく。


 向かいの椅子では、父の直人が難しい顔をしていた。


 短く整えた黒髪には、わずかに白いものが混じっている。細い銀縁の眼鏡の奥にある目元は伊織とよく似ていたが、娘よりも表情が顔へ出やすい。


「未成年を一人で現場へ出す仕組み自体がおかしいんだ」


「クロもいたから、一人じゃないよ」


『我を数に入れて安心するな。今日は危なかったぞ』


 ソファの下に伏せていたクロが口を挟む。


 直人と美冬には、その声は聞こえない。ただ黒い犬が喉を鳴らしたようにしか感じられない。


「分かってる」


「何が分かってるの?」


「こっちの話」


 伊織が笑ってごまかしたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。


 美冬が時計を見る。


「あら、もう着いたのね」


「例の親戚?」


「湊君。遠い親戚といっても、あなたと同い年なんだから仲良くしてあげてね」


「努力します」


 伊織は立ち上がり、美冬とともに玄関へ向かった。


 扉を開けると、大きなキャリーケースを引いた少年が立っていた。


 身長は伊織より少し高い。前髪が目元にかかる程度に伸びた、やや癖のある焦げ茶色の髪。薄い茶色の瞳と、少し眠そうに見える穏やかな目元をしている。


 細身で特に目立つ体格ではない。学校の中にいれば、人混みへ自然に紛れてしまいそうな、ごく普通の少年に見えた。


 ただ、長旅の疲れだけでは説明できないほど顔色が悪い。


「久世湊です。今日からしばらく、お世話になります」


「よく来たわね。疲れたでしょう」


「電車で少し寝たので大丈夫です。途中、変な夢を見ましたけど」


「夢?」


「暗いところにいた気がするだけです。もう、ほとんど覚えてません」


 湊はそう言ってから、伊織へ視線を移した。


「九条院伊織です。久世君でいい?」


「ああ。じゃあ俺も、九条院さんで」


 学校の生徒たちのように、目を輝かせることもない。


 王子様と呼ぶこともない。


 湊は伊織の包帯へ一瞬だけ目を向けたが、事情を尋ねずに軽く頭を下げた。


 その足元へクロが近づく。


「犬、飼ってるんですね」


「クロっていうんだ」


「よろしく、クロ」


 湊が手を伸ばす。


 クロは触れられる直前に身を引き、金色の瞳で少年を見上げた。


「人見知りかな」


「普段はもう少し愛想がいいんだけど」


『誰の話だ』


 湊には聞こえない声で悪態をつきながらも、クロは彼から目を離さなかった。


 夕食を終えると、湊は案内された客間へ入った。


 扉が閉じるのを待ち、クロが伊織の足元へ寄る。


『伊織』


 普段の皮肉っぽさが消えた声だった。


「どうしたの?」


 クロは閉じた客間の扉を睨んでいる。


『あの小僧、本当に人間か?』


「何を言ってるの。普通の男の子にしか見えなかったよ」


『見た目の話ではない』


 金色の瞳が細められる。


『あれは、人間だけの匂いじゃない』


 伊織は扉へ目を向けた。


 その向こうから物音はしない。


 ただ廊下の照明が、一度だけ小さく明滅した。


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