第1話 王子様と、仮面の神
夜の神社に、風はなかった。
それでも境内を囲む木々は激しくざわめき、無数の葉を黒い空へ巻き上げている。
古びた鳥居は半ばから折れ、石畳には幾筋もの亀裂が走っていた。拝殿のさらに奥では、闇そのものを切り取ったような巨大な亀裂が脈打っている。
九条院伊織は、霊刀を支えにして立ち上がった。
青みがかった黒いショートボブは乱れ、普段は涼しげな濃い青の瞳にも疲労がにじんでいる。制服の上に展開した濃紺の装束は裂け、左肩から流れた血が袖を濡らしていた。
呼吸をするたび、脇腹の古傷が焼けるように痛む。
『伊織、もう動くな』
足元の影から、クロの苦しげな声が響く。
黒い獣は負傷し、姿を保つことすらできない。金色の瞳だけが、揺れる影の奥から伊織を見上げていた。
「そういうわけにはいかない」
『相手を見ろ。お前が勝てるものではない』
「分かっているよ」
石段の先に、一人の人物が立っていた。
背の高い身体を包む、黒いフード付きの長衣。夜の闇よりも深い布地には、淡く光る銀色の文様が走っている。
顔を覆う白い仮面には、額から顎へ縦一本の黒い亀裂模様が刻まれていた。
仮面の奥で、青白い二つの光が伊織を見る。
「退け、陰陽師」
男とも女とも判別できない声だった。
「お前に構っている時間はない」
仮面の人物が拝殿の奥へ向き直る。
その先へ行かせてはならない。
理由は、それだけで十分だった。
伊織は震える手で白月を握り直し、切っ先を仮面へ向けた。
「行かせない」
「すでに結果は示したはずだ」
「一度負けたくらいで、諦めるように教えられていないんだ」
「無意味だ」
「それを決めるのは、あなたじゃない」
仮面の人物が、わずかに沈黙した。
伊織は残っている霊力を両脚へ集める。筋肉が軋み、傷口から新たな血がにじんだ。
『やめろ、伊織!』
石畳が砕ける。
伊織は夜気を切り裂き、白い仮面へ踏み込んだ。
刃が届く、その直前――。
◇
七か月前。
「九条院先輩、待ってください!」
四月の柔らかな日差しが差し込む渡り廊下で、伊織は呼び止められた。
振り返ると、一人の女子生徒が大きな段ボール箱を抱えて歩いてくる。箱は明らかに持ち主の視界を塞いでおり、その足取りも危なっかしい。
「それ、職員室まで?」
「はい。先生に頼まれたんですけど、思ったより重くて……」
「半分持つよ」
「えっ、でも――」
伊織は返事を待たず、箱を軽々と受け取った。
身長は女子としては高い百七十センチ。細身ながら、日々の鍛錬によって無駄なく引き締まった身体をしている。
顎の辺りで揃えた青みがかった黒髪が、春風に揺れた。灰色を帯びた濃い青の瞳と切れ長の目、中性的に整った顔立ちは、男子生徒よりも凛々しく見えることがある。
着崩していない制服姿で廊下を歩いているだけでも、自然と周囲の視線を集めてしまう。
「どこまで運べばいい?」
「第二職員室です。ありがとうございます、王子様!」
「その呼び方はやめてくれると嬉しいんだけどな」
伊織が困ったように笑うと、女子生徒は顔を赤くした。
二人が廊下を進む間にも、すれ違う生徒たちから声がかかる。
「伊織さん、今日の体育すごかったです!」
「九条院先輩、今度はテニス部にも来てください!」
「王子様、放課後は空いてますか?」
一つずつ笑顔で応じながら、伊織は箱を第二職員室まで運んだ。
教室へ戻ると、机の上には返却された数学の小テストが置かれていた。右上に記された点数は百点。その隣では、バスケットボール部の女子が両手を合わせている。
「お願い、伊織。今日だけ練習試合に入って。部員が一人休んじゃって」
「ごめん。今日は家にお客さんが来るんだ」
「そこをなんとか!」
「また今度なら手伝うよ」
「本当? 約束だからね!」
女子生徒は機嫌を直し、伊織の手を両手で握ってから離れていった。
「相変わらず大変そうですね、王子様」
隣から静かな声がした。
朝比奈小春が、柔らかな栗色の髪を耳へかけながら伊織を見ている。
伊織より一回り小柄で、肩を越える栗色のセミロングと、薄い茶色の瞳を持つ少女だった。華やかさよりも柔らかな雰囲気があり、控えめな微笑みは、周囲に不思議な安心感を与える。
「小春までそう呼ぶの?」
「皆さんの前では合わせた方がいいかと思って」
「合わせなくていいよ」
「では、伊織さん」
「うん。それが一番落ち着く」
小春は小さく笑うと、伊織の机に紙パックの紅茶を置いた。
「購買へ行ったついでです。体育の後、何も飲んでいなかったでしょう」
「見られていたんだ」
「伊織さんは、自分のことを後回しにしすぎですから」
「ありがとう。今度、何かお返しするよ」
「お返しが欲しくて買ったわけではありません」
小春がわずかに頬を膨らませる。
伊織が謝ろうとしたとき、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
画面に表示されたのは、天気予報を装った通知だった。
《星守市北部、局地的な気圧異常。旧星守北商店街付近。警戒レベル三》
一般人に見られても不自然ではない文章だが、それが陰陽寮から届いた任務連絡であることを伊織は知っていた。
陰陽寮――政府の裏側で妖魔事件を処理する組織から届いた、正式な出動要請だった。
家に客が来るまで、あと二時間。
「ごめん、小春。少し用事ができた」
「また、家の用事ですか?」
「うん。そんなところ」
伊織は紅茶を鞄へ入れて立ち上がった。
小春は追及せず、その代わりに伊織の顔をじっと見つめる。
「無理はしないでくださいね」
「大丈夫。すぐに帰るよ」
いつもの笑顔でそう答え、伊織は教室を後にした。
◇
旧星守北商店街は、三年前に閉鎖されていた。
並んでいる店舗の大半はシャッターを下ろし、看板は色あせている。再開発区域を囲む金属製の柵には立入禁止の札が掛かり、人の気配はなかった。
伊織は路地裏へ入り、制服の内ポケットから十センチほどの木製の御守りを取り出した。
「九条院の名において、白月を解く」
御守りを包む白い組紐がほどけ、淡い光があふれる。
木片だったものが伸び、反りを持つ刀身と黒い柄を形作った。数秒後、伊織の手には鞘に収まった一振りの刀が握られていた。
続けて護符を制服の胸元へ押し当てる。
「隠形、展開」
護符が青白い炎となって消え、濃紺の装束が制服の上から伊織を覆った。一般人の目には、黒い上着かコートのようにしか見えない。
伊織の足元の影が膨らみ、一匹の黒い犬が姿を現した。
中型犬ほどの大きさだが、特定の犬種には似ていない。金色の瞳は暗闇の中でも鋭く輝き、黒い身体の輪郭は煙のようにわずかに揺らいでいる。
『来るのが遅い』
「学校から急いできたんだけど」
『人間の事情など知るか。それより、奥だ』
クロの金色の瞳が、商店街の暗がりを睨んだ。
『気配は一つ。三等程度。だが、人間が巻き込まれている』
「案内して」
『命令するな。こっちだ』
クロは不満そうに鼻を鳴らしながら、閉ざされた商店街へ駆け込んだ。
伊織が後を追う。
空気が一歩ごとに冷たくなっていく。左右のシャッターから、爪で金属を引っかくような音が聞こえた。
前方に、制服姿の少女がいた。
中学生だろう。肩まで伸ばした黒髪を乱し、青ざめた顔で倒れた自転車のそばに座り込んでいる。
少女は何もない空間へ鞄を引かれていた。本人には見えていないのだろうが、その肩と足首には灰色の腕が絡みついている。
「助けて……誰か……」
少女の背後で、閉鎖された店舗のシャッターが内側から膨らんだ。
金属を突き破り、無数の腕が伸びてくる。
腕の根元には、いくつもの黒い人影が絡み合っていた。店主、客、住民。顔のない人影が互いへしがみつき、一つの異形を作っている。
『縋り手か』
クロが低く唸る。
『店を守れなかった者たちの無念。忘れられた場所へ残った寂しさ。随分と溜め込んだものだ』
「原因の分析は後。あの子を離す」
伊織は白月を抜いた。
刀身が月光のような白い光を帯びる。
「クロ、周囲を封じて」
『人使いの荒い娘だ』
「妖魔使いだよ」
クロの身体が影へ沈み、商店街の四方へ黒い線が走った。一般人を遠ざける簡易結界が形成される。
縋り手が一斉に腕を伸ばした。
伊織は霊力を脚へ流し込み、地面を蹴る。最初の腕を斬り、二本目をかわす。そのまま少女へ伸びる腕を続けて切断した。
黒い霧が噴き出し、耳元で何人もの声が重なる。
『帰るな』
『ここにいろ』
『置いていかないでくれ』
妖魔に殺意はない。
それでも、細い腕に込められた力は少女の身体を壊しかねなかった。
「その子は、あなたたちの寂しさを埋めるためにいるんじゃない」
伊織は少女の前へ滑り込み、迫ってきた腕を白月で受け止めた。
別の腕が死角から伸びる。
『右だ!』
クロの影が腕へ絡みつき、動きを止めた。
伊織は振り返りざまに斬り払う。しかし、切断したはずの腕が床を這い、少女の足首を再びつかんだ。
少女が悲鳴を上げる。
伊織は白月を左手へ持ち替え、右腕で少女を抱えて引き寄せた。
遅れて伸びた爪が、伊織の右腕を裂く。
「っ……!」
制服の袖に赤い線が走った。
『伊織!』
「かすり傷。それより、本体の核は?」
『一番奥の影だ! 潰れた時計の下!』
人影の中心に、壁へ掛かった古い時計があった。
針は閉店時刻を示したまま止まっている。その下で、黒い塊が心臓のように脈打っていた。
伊織は防護符を少女の胸元へ貼りつける。
「ここから動かないで」
「お姉さん、腕が……」
「大丈夫。すぐ終わるから」
伊織は少女を背にして立った。
白月を両手で構え、残った霊力を刃へ集める。
無数の腕が行く手を塞いだ。
「クロ!」
『三秒だ!』
影から現れたクロの身体が、三メートル近い黒狼へ変わる。煙のように揺らぐ巨大な身体から金色の瞳だけが鋭く輝いていた。
クロの前脚が地面を打ち、広がった影がすべての腕を縫い止める。
伊織は駆けた。
一秒。
正面の腕を斬る。
二秒。
人影の隙間へ踏み込む。
三秒。
「白月――断て!」
白い斬撃が、止まった時計ごと妖魔の核を貫いた。
黒い塊に亀裂が入り、無数の人影がゆっくりと崩れていく。
『まだ、終わりたくなかった』
かすかな声がした。
『忘れないでくれ』
残った一本の腕が、何かを求めるように伊織へ伸びる。
伊織は白月を下ろさず、その腕が光の粒となって消えるまで見届けた。
静けさを取り戻した商店街に、壊れた看板が風で揺れる音だけが残った。
『人を襲った。だから斬った。それだけか?』
元の大きさへ戻ったクロが尋ねる。
「それ以外に、何があるの」
『さあな』
クロはそれ以上何も言わなかった。
伊織は倒れた少女へ向き直り、震える肩へ自分の上着を掛けた。
「もう大丈夫。立てる?」
少女は伊織の手を借りて立ち上がった。
「どうして、こんな場所に入ったの?」
「近道をしようとしたら、誰かに呼ばれた気がして……気づいたら、ここにいました」
「呼ばれた?」
「男の人や女の人の声が、たくさん聞こえたんです。こっちへ来て、帰ってきてって……」
縋り手が、通りかかった少女を閉鎖区域へ誘い込んだのだろう。
妖魔そのものは見えなくても、その声や気配が一般人へ届くことはある。
「もう声は聞こえない?」
「はい」
「それなら大丈夫。外まで送るよ」
伊織が安心させるように笑うと、少女はようやく小さくうなずいた。
商店街の外まで少女を送り届けた後、伊織は陰陽寮へ討伐完了を報告した。
間もなく、一般車両に偽装した陰陽寮の車が到着する。保護担当者が少女を引き取り、妖魔の影響が残っていないか確認することになった。
壊れたシャッターや店舗の被害は、老朽化による倒壊として処理される。
妖魔が存在した痕跡は、いつものように一般社会から消されていく。
伊織は血のにじんだ右腕を押さえながら、その様子を黙って見つめていた。
◇
「少し深いわね」
自宅のリビングで、美冬は娘の右腕へ包帯を巻いていた。
肩までの黒髪を後ろで一つにまとめた、穏やかな目元の女性だ。伊織とは顔立ちがあまり似ていないが、その落ち着いた話し方には、娘の張り詰めた気持ちを和らげるものがあった。
消毒液が染みるたび、伊織の指先がわずかに動く。
「縫うほどじゃないよ」
「判断するのは負傷した本人ではありません」
「お母さん、戦えないのに手当てだけは本家の人より上手だよね」
「喜んでいいのかしら、それ」
美冬が包帯を結び、呆れたように息をつく。
向かいの椅子では、父の直人が難しい顔をしていた。
短く整えた黒髪には、わずかに白いものが混じっている。細い銀縁の眼鏡の奥にある目元は伊織とよく似ていたが、娘よりも表情が顔へ出やすい。
「未成年を一人で現場へ出す仕組み自体がおかしいんだ」
「クロもいたから、一人じゃないよ」
『我を数に入れて安心するな。今日は危なかったぞ』
ソファの下に伏せていたクロが口を挟む。
直人と美冬には、その声は聞こえない。ただ黒い犬が喉を鳴らしたようにしか感じられない。
「分かってる」
「何が分かってるの?」
「こっちの話」
伊織が笑ってごまかしたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
美冬が時計を見る。
「あら、もう着いたのね」
「例の親戚?」
「湊君。遠い親戚といっても、あなたと同い年なんだから仲良くしてあげてね」
「努力します」
伊織は立ち上がり、美冬とともに玄関へ向かった。
扉を開けると、大きなキャリーケースを引いた少年が立っていた。
身長は伊織より少し高い。前髪が目元にかかる程度に伸びた、やや癖のある焦げ茶色の髪。薄い茶色の瞳と、少し眠そうに見える穏やかな目元をしている。
細身で特に目立つ体格ではない。学校の中にいれば、人混みへ自然に紛れてしまいそうな、ごく普通の少年に見えた。
ただ、長旅の疲れだけでは説明できないほど顔色が悪い。
「久世湊です。今日からしばらく、お世話になります」
「よく来たわね。疲れたでしょう」
「電車で少し寝たので大丈夫です。途中、変な夢を見ましたけど」
「夢?」
「暗いところにいた気がするだけです。もう、ほとんど覚えてません」
湊はそう言ってから、伊織へ視線を移した。
「九条院伊織です。久世君でいい?」
「ああ。じゃあ俺も、九条院さんで」
学校の生徒たちのように、目を輝かせることもない。
王子様と呼ぶこともない。
湊は伊織の包帯へ一瞬だけ目を向けたが、事情を尋ねずに軽く頭を下げた。
その足元へクロが近づく。
「犬、飼ってるんですね」
「クロっていうんだ」
「よろしく、クロ」
湊が手を伸ばす。
クロは触れられる直前に身を引き、金色の瞳で少年を見上げた。
「人見知りかな」
「普段はもう少し愛想がいいんだけど」
『誰の話だ』
湊には聞こえない声で悪態をつきながらも、クロは彼から目を離さなかった。
夕食を終えると、湊は案内された客間へ入った。
扉が閉じるのを待ち、クロが伊織の足元へ寄る。
『伊織』
普段の皮肉っぽさが消えた声だった。
「どうしたの?」
クロは閉じた客間の扉を睨んでいる。
『あの小僧、本当に人間か?』
「何を言ってるの。普通の男の子にしか見えなかったよ」
『見た目の話ではない』
金色の瞳が細められる。
『あれは、人間だけの匂いじゃない』
伊織は扉へ目を向けた。
その向こうから物音はしない。
ただ廊下の照明が、一度だけ小さく明滅した。




