第9話 市場に手がかりアリ
「あなたに、正式に依頼させてほしい」
翌朝、開店前の店内で、ジェラルド様はテーブルに着くなり頭を下げた。
「もちろん、対策室の鑑定役としてではなく――この店の客として、だ。あなたの舌を、一日だけ借りたい」
「――お断りします……と、言いたいところですが」
私は、エプロンの紐を結び直した。
革具屋のご子息――トマさんの眠ったままの顔と、彼のお母さんのあの目が、今も脳裏に焼き付いている。
それに、私の舌でも突き止められない味があるというのも、正直少し悔しかった。そんな得体の知れないものが、この王都のどこかで作られている――それを見て見ぬふりができるほど、私はできた人間ではないのだ。
「お客様のご依頼とあらば、是非、お受けさせていただきます」
ジェラルド様はうなずいて、懐から折り畳んだ書面を出した。対策室の紋の入った、いかにも堅苦しい依頼書である。
「あ、それは必要ありません。お客様からのご注文は、口頭で承っておりますので」
「……そうか」
あっさり書面を懐へ戻すジェラルド様だったが、その顔はどこか寂しそうに見えた。
「――依頼料についてだが、今回の依頼、いくらになる?」
「そうですね……煮込みひと皿分――銅貨二十枚、といったところでしょうか」
ジェラルド様は真顔のまま、何度もまばたきをした。
「……安すぎる」
「あら、うちの煮込みひと皿では、安すぎると? そんなことを言うお客さんは、あなたが初めてですよ」
「そういう意味では――いや、いい。わかった」
生真面目な人をからかうのって、意外と楽しいかもしれない。
とまあ、おふざけは程々にしておいて、私はピノに店番を頼み、買い出し用のかごを腕にかけた。
「ではヴァルク様、参りましょうか。まずは、トマさんが倒れる前に立ち寄ったとされる場所から調べてみましょう」
◇◇◇
トマさんが倒れた日の足取りは、彼のお母さんから聞き出してあった。
その日、彼は仕事帰りに市場で買い食いし、それから市場の外れの安酒場で一杯やったあと、家に帰ってそのまま眠りについたのだという。
――そして、そのまま目を覚まさなくなった。
というわけで、最初にやってきたのは、大勢の人で賑わう朝の市場である。
「彼が口にしたものを、私の舌で順に調べてみましょうか」
パン屋の売れ残り、屋台の串焼き、果物売りのリンゴ。トマさんが口にしたと思しきものを、ひと口ずつ買っては舌に載せ、白か黒かを判別していく。
「白。……これも白。ん、この串焼きの塩は換えたほうがいいですね。古い樽の匂いが移ってしまっています」
「……あなたは買い出しのとき、いつもこうなのか」
「いつもはもっと値切ってから買いますけどね。今回は悠長にしてもいられませんので」
ちなみにかごは今、ジェラルド様に持ってもらっている。王国騎士団の第二師団長サマにかごを持たせるなんて申し訳ないからと断ったのだが、「あなたにすべて放り投げて、何もせずただ立っているだけなど、騎士団の名折れだ。ここは俺に任せてほしい」と真顔で言われ、押し切られてしまった。
市場のおかみさんたちが、そんな私たちの姿を、にやにやと覗き見てくる。
「あらぁ、リゼットちゃん。早速いい人を見つけて一緒に買い出しかい」
「違います。これはれっきとした仕事で――」
「なるほどぉ、お仕事ねぇ。はいこれ、旦那さんの分」
果物売りのおばさんが、かごにリンゴをひとつ多めに放り込んできた。
「だから違――」
「気遣い感謝する。もらっておこう」
ジェラルド様が真顔で礼をするので、訂正の機会は完全に失われた。この人は黙っているか、何でも真に受けるかの二択しかしないのか……。
さらにジェラルド様は、私が人混みで肩をぶつけそうになるたび、その大きな手でさり気なく壁を作って守ってくれた。
確かに騎士サマが依頼人を護衛するのは自然なことかもしれないけど……。
なんだか、調子が狂うなぁ。
◇◇◇
昼を回ったところで、私は屋台の揚げパンをふたつ買った。
「そのパンは今回の調査とは関係ないのではないか」
「これはただの昼食ですよ。腹が減っては仕事はできませんので」
そう言って片方のパンを差し出すと、彼は素直に受け取り、ひと口、ふた口とかじり――。
そこで食べるのをやめ、残りを静かに返してきた。
「……腹を満たすだけなら、これで十分だ。残りはあなたが食べたほうが、このパンも浮かばれるだろう」
ああ、そうだった。
この人にとっては、市場の匂いも、料理のあたたかさも、ほとんど意味を持たないのだ。
……いつか。
いつかこの人に、この市場を「おいしい」と言いながら歩かせてみせる。
揚げパンをかじりながら、私は密かにそう決めた。
◇◇◇
市場の外れの安酒場は、まだ昼だというのにすでに開いていた。
「トマ? ああ、来たよ。いつもの安麦酒――いや、あの晩は確か、別の新しいやつを飲んでいったな」
店主が奥から出してきたのは、赤茶けた香辛料の入った壺だった。
「南方の香辛料を効かせた香り酒だ。近ごろ取引してる商人が安く回してくれてよ。ああそうだ、あの香辛料の樽は確か五日前に開けたばっかりで、トマがこれを飲んだ最初の客だったはずだ」
「……その香辛料、少しだけ頂けますか」
杯に酒を注ぎ、香辛料をひと摘み入れてから手に取ろうとしたところで、横から大きな手が伸びてきて、杯ごと押さえつけられた。
「おい、まさかそれを飲むつもりか?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと計算してありますので。トマさんの場合、このお酒を一杯飲んで寝たきりになってしまった。今回は、香辛料をひと摘みだけ加えたものを、杯の縁からほんの少し舐めるだけです」
「……万が一ということがあるだろう」
「万が一のときは、あなたが助けてくださるのでしょう?」
ジェラルド様は納得できないという顔をしつつも、渋々杯から手を離してくれた。
私は笑顔でお礼の気持ちを伝えると、杯を少し傾け、酒のついた縁を舐めた。
香辛料の華やかな味が口の中に広がる。けれど、その中に――何の味もしない冷たい部分があった。革具屋でスプーンに口をつけたときに感じた、あの冷たい「無味」だ。
どうやら顔に出ていたようで、ジェラルド様がすぐさま低い声で尋ねてきた。
「――っ、まさか、この香辛料が?」
「はい。昨日と同じ、味が抜け落ちたような、冷たい感覚が確かにありました。強い香りに紛れて気づき難くなっているようです」
ジェラルド様は表情を引き締め、懐から対策室の徽章を出して店主に示した。
「この香辛料の仕入れ先を教えてくれ」
「ひっ……あ、あんた役人だったのかい。勘弁してくれよ。うちは仕入れただけで」
「あなたを咎めるつもりはない。仕入れ先を聞くだけだ」
店主が震える手で仕入れ台帳を差し出す。
ジェラルド様が台帳をめくっていくと、南方の香辛料を四樽仕入れた記録が見つかる。
そしてその仕入れ先の欄には、几帳面な字でこう書かれていた。
『グランメゾン商会』
――っ!
「……どうした?」
黙り込んだ私を見て、ジェラルド様が不思議そうに尋ねた。
私は台帳の文字をもう一度確かめた。
……見間違いではない。四年間、嫌というほど目にした名前が、確かにそこにある。
「……ずいぶん、懐かしい名前ですね」
「知っているのか」
「ええ、それはもう」
いつものように笑ってみせたつもりだけど、果たしてうまく笑えていただろうか。
「――私の『元』嫁ぎ先ですもの」




