第8話 冷たい無味
石像――もとい、騎士サマの襲来から、十日が経った。
ちなみに先日早朝の襲来時、ジェラルド様は開店と同時に一番乗りで席に着き、スープを四杯飲んでいった――だけに留まらず、さらにその日の夕刻にもまた来店して、私とピノを再び驚かせた。
そんな彼の振る舞いは、今や下町の語り草となっている。
それ以降、ジェラルド様は宣言通り、毎日夕刻になると決まって店にやって来るようになった。毎回いちばん奥の席に座り、生真面目な顔でこう言うのだ。
「……何でもいい」
「はい。本日いちばんおいしい料理ですね」
もはや、うちの裏メニューとなりつつある。このごろは職人の皆さんまで「おれも何でもいい」と注文する始末で、困ったものである。
ジェラルド様は毎日きっちり銅貨で払い、きっちりおかわりをして、きっちり同じ時刻に帰る。
最初の三日ほど、職人の皆さんは黒い制服に遠慮して隅に固まっていた。
――それが、今ではどうだ。
「だんな、剣より重いもん持ったことあるかい? これなんかどうだ。いつもおれが運んでる、石灰の袋だ」
「……それは剣より重いのか?」
「おう、試してみるか!」
真顔で聞き返すジェラルド様は、下町の職人たちにとって格好の話し相手になっていた。もっとも、本人は懐かれている自覚はないようだけど。
――それから、これは誰にも言っていないことだけれど。
先日、うっかり手の甲が竈の火に触れてしまい、軽い火傷を負った翌日のこと。
ジェラルド様が食べ終わったテーブルの片付けに向かうと、隅に小さな薬包がひとつ置いてあったのだ。
『対策室の常備品だ。よく効く』
添えられた紙には、恐ろしく四角四面な字が並んでいた。
そして、その通り薬はよく効いて……少し悔しかった。
「姉ちゃん、なんかにやにやしてる……」
「してません。さっさとお皿を下げてちょうだい」
最初はピノがからかってくる程度だったけど、最近はマルタさんたちまで何やら裏でコソコソしているみたいだ。銅貨を使った賭け事をしているとかなんとか……果てさて、賭けの中身はいったい何なのやら。
◇◇◇
ある日の夕刻、ジェラルド様はいつものように奥の席で、四杯目のスープを飲んでいた。
戸が乱暴に開かれたのは、そんなときだった。
「リゼットちゃん!」
息を切らして中に駆け込んできたのは、マルタさんだった。頬には小麦粉がついたままだ。よほど急いでいたのだろう。
「北の袋小路の、革具屋の息子……トマ坊が、倒れた!」
「まあ、それは大変。お腹でも下したんですか? それなら――」
「違うんだ」
マルタさんは首を横に振った。
「三日前の朝から、ずっと眠ったまま……起きないんだってさ。医者も、もう手の施しようがないって」
背後で、椅子を引く音がした。
振り返ると、ジェラルド様が騎士然としてそこに立っていた。
「案内を頼む」
◇◇◇
革具屋の二階には、薬と蝋燭の匂いが漂っていた。
ベッドに横たわっているのは、二十歳前の青年だった。
顔色はそれほど悪くないし、呼吸も落ち着いている。
そう――ただ、眠っているだけなのだ。名前を呼んでも、体を揺すっても、青年は決して目を覚まさなかった。
「熱が出たわけでもなけりゃ、どこか怪我したわけでもねえ。薬や毒を飲んだような痕も見当たらん」
年配の医者が、力なく言った。
「五十年も医者をやって、いろんな毒を見てきた。だが、これはそのどれとも違う。眠り病とも思えん。……わしにはもう、原因がわからんのだ」
「……あの、リゼットさん」
トマさんのお母さんが、すがるような目で私を見た。井戸の一件以来、下町の人は、医者でもわからないことがあるとうちの店へ相談に来るようになっていた。
「うちの子のこと、見てやってくれないかい?」
「……少し、確かめさせてください」
枕元には、水差しと小さなスプーンが置かれていた。水には少量の蜜が混ぜてあり、お母さんはそのスプーンで、夜通し息子の唇を湿らせていたのだという。
私は断りを入れ、スプーンの縁にそっと口をつけた。
水の味。蜜の甘み。それから、母の祈るような真心のあたたかさ。
その奥にあるものに触れた瞬間、ぞわりと全身が粟立った。
……何も、ない。
毒の苦味も、悪意の濁りもない。呪いの冷たさとも違う。呪いなら、氷を口に含んだような、はっきりとした味がする。
けれど、これは違った。
水や蜜の味は確かにあるのに、その奥にあるはずのものだけが、ぽっかりと抜け落ちている。そこに触れると、舌の感覚まで失われるような、奇妙な冷たさだけが残った。
毒は苦い味。呪いは冷たい味。悪意は濁った味。祖母に教わってからずっと、私の舌は色々なものを味として感じ取ってきた。
なのに、これは……。
「味が……ない」
自分が何を言っているのか、わからなくなりそうだった。
「これは……毒の苦味でも、呪いの冷たさでもない。味が抜け落ちたような、何も感じ取れない部分がある。なのに、そこだけ妙に冷たい。こんなもの、初めてで……」
言いながら、ジェラルド様の器の縁に口をつけたときに感じた、あの底知れない冷たさを思い出していた。
……似ている。けれど、違う。
あれには古い呪いの味が、確かにあった。けれど、これはその味さえ感じられない。
スプーンを持つ手が、震える。
――その手を、横から伸びてきた大きな手が、そっと包んだ。
「落ち着け。ゆっくり息をしろ」
「……はい」
「もういい。少し休め」
「で、でも……」
「あなたにも味の正体が掴めないというのは、ある意味重要な手がかりだ。少なくとも、これまで俺たちが調べてきた毒や呪いとは違う可能性がある、ということだろう」
言われて、気づいた。
祖母のノートには、毒や呪いなど、ありとあらゆる味について書かれていた。
けれど、「無味」についての説明は――いや、ちょっと待って。
――あった……のかもしれない。
そう、私が結局読むことのできなかった、あの、最後のページに。
…………いや、考えすぎか。
とりあえず今は、目の前のことに集中しよう。
ジェラルド様は私をベッドから少し離れた椅子へ座らせると、トマさんの顔をじっと見下ろした。その表情には、今まで見たことのない険しさがあった。
怒り……だけではない。何かを思い出しているような、苦しげな表情も混ざっているように見える。
「ヴァルク様?」
「……四ヶ月ほど前からだ」
私の呼びかけに応じるように、ジェラルド様は低い声でぽつぽつと話し始めた。
「実は王都で、同じように眠ったまま目を覚まさなくなった者が七人出ている。……この青年で、八人目かもしれん。毒物対策室が総出で調べているが、原因はおろか、どうやって被害に遭ったのかさえ掴めていない」
「その七人には、何か繋がりが?」
「それもまだわかっていない。歳も身分も、住んでいる区もばらばらだ。怨恨の線や金銭関係も調べたが、共通点はなかった。完全に手詰まりな状態だ」
それでさっき、マルタさんの話を聞いてすぐに立ち上がったのか。
トマさんが眠ったまま起きないと聞いた瞬間から、ジェラルド様には心当たりがあったのだ。
彼はこちらを振り返ると、まっすぐに私を見た。
「あなたが正体を掴みかねているというその味について、詳しく聞かせてくれ。これまで追ってきた事件の、初めての手がかりになるかもしれん」




