第7話 二度と貴族にはお仕えしません
私は確かに「何杯でも」と言った。
でもまさか、本当に鍋が空になるまで飲み干されるとは思わなかった。
男は四杯目のお椀を置くと、空になった鍋に名残惜しそうな視線を向けた。
その様子を見て、ピノが小さく噴き出す。
「だんな、鍋の底まで飲み尽くす客なんて、初めて見たぜ」
「……失礼した」
「いいえ。作り手としてはうれしい限りです」
男は居住まいを正すと、思い出したように懐へ手を入れ、銀貨を――いや、大銀貨をテーブルの上に置いた。
「待ってください。お代は結構と言ったはずです。それに、こんなには受け取れません」
「これはスープの代金と……口止め料だ」
「口止め料、ですか?」
すると、男は極めて真剣な顔で言った。
「……先ほどのことは、他言無用に願う」
……ひょっとして、泣いてしまったことを言っているのか。
予想外にかわいらしい一面を見せられて、私は吹き出しそうになるのを必死にかみ殺しながら、大銀貨を押し返した。
「うちは口の堅い店ですのでご安心を。とは言え、何も受け取らないのは不安が残るでしょうから……お代のほうは、いただいておきましょう」
「おれの口も相当堅いぜ。銅貨一枚もありゃ、墓場に持っていって――」
「ピノ」
私に一喝されて、ピノは舌をペロっと出しながら厨房へ逃げていった。やれやれ……。
◇◇◇
「――俺の名は、ジェラルド・ヴァルクという」
改めて、と前置きしてから、男はそう名乗った。
「王国騎士団の第二師団長だ。毒物対策室の室長も兼任している」
「ヴァルク……もしや、辺境伯家の」
「三男だ。家督とは無縁の、ただの騎士と思ってもらえばいい」
……なるほど。上等な黒い制服の正体は、騎士団の師団長サマだったか。それも、毒物対策室の室長ときた。
「今朝、東三区の井戸の一件が対策室に報告された。『舌ひとつで毒を言い当てた食堂の女主人』という話と一緒にな。気になって、確かめに来たというわけだ」
第二師団長といえば、王都の治安にも関わる要職のはず。そんな方が、下町の井戸の事件を聞いて、自ら足を運ぶとは。
「その舌は、生まれつきか」
「ええ。祖母譲りのものです」
「そうか。先ほど実際に確かめさせてもらったわけだが……報告にあった以上の力のようだな」
ジェラルド様は、まっすぐに私を見た。
「単刀直入に言う。王宮で働く気はないか。毒物対策室の鑑定役だ。俸給は望みのままに出す。住まいも待遇も保証する」
王宮――。
その言葉に、ふと祖母のノートに挟まっていた宮廷風の献立が頭をよぎった。
上質な紙に書かれた、あの献立……。
……まさか、ね。
私は、お椀を拭く手を止めずに答えた。
「お断りします」
「……即答か」
「ええ。私はもう二度と、貴族にはお仕えしません」
店の中が静かになった。
ピノも皿を拭く手を止めて、私の様子を窺っている。
「理由を聞いてもいいか?」
「大した話ではありませんよ」
私は拭き終えたお椀を重ねてから、布巾を畳んだ。
「私、先日まで四年ものあいだ、さる公爵家の夫人を務めていましたの。それも、毒見役を兼ねた夫人です。屋敷の者が口にするものは、全部私の舌を通りました。毒を飲んで三日寝込んだこともありましたね」
「……それは」
「あら、同情はご無用です。食卓の蝋燭となんら変わらない――役目が済んだなら、いくらでも取り替えればいい立場に過ぎませんから。実際、取り替えられましたし」
淡々とそう言えた自分に、少しだけ驚く。それらはもう傷ではなく、ただの過去になりつつあるらしい。
――この店と、下町のおかげで。
「私はもう、誰かの道具に戻るつもりはありません。この竈の前で、お客様にお出しする料理のために、この舌を使っていきたいのです」
私の答えを聞いて、ジェラルド様は長いこと黙っていた。
さて次は……怒るだろうか、それともさらに好条件を出すだろうか。
貴族というものは、大体そのどちらかだ。この方はどちらを選ぶだろう――なんて考えながら、私は待ち構えていた。
けれど、彼は、そのどちらでもなかった。
「……そう考えるのも、致し方なしだな」
低い声でそれだけ言って立ち上がると、ジェラルド様は私に向かって深々と頭を下げた。
下町の小さな食堂で、騎士団の師団長が礼をする……そんな異様な光景を前にして、ピノの口が、ぽかんと開いた。
「不躾な申し出だった。忘れてくれ」
「いいえ。光栄なお話をいただき、ありがとうございます」
ジェラルド様は、そのまま戸口へまっすぐ向かい――敷居の手前で、ピタリと止まった。
「ひとつ、確認したい」
「はい」
「この店は、客を選ぶのか」
「……いいえ? お代を払っていただけるなら、どなたでも」
「そうか」
ジェラルド様は振り返り、生真面目そのものの顔で言った。
「なら、明日から客として通う。客なんだから、文句はないな」
「……はい?」
「夕刻に来る。席を空けておいてもらえるとありがたい」
言うだけ言って、師団長サマは夜の橙通りへ消えていった。
その広い背中を見送りながら、私は器の縁から感じた、あの冷たさを思い出していた。
底の見えない、古い古い呪い。あんなもの、あの程度のスープを四杯飲んだくらいで消えるはずがない。またすぐ味を失ってしまったとしても、不思議ではなかった。
――そんな人にとって、久しぶりに味わえた食事というのは、どれほどうれしいものだったのだろう。
私とピノは、しばらく戸口を眺めていた。
「……姉ちゃん、今のって……客が増えたってことで、いいんだよな?」
「……いいんじゃないかしら」
「けどさ、ああいうお偉いさんの『また来る』って、当てになんのか?」
「ならないわね。経験上、貴族の約束と朝霧は、日が昇れば消えるものよ」
まあ、いい。少なくともさっきまでは確かにお客さんだったのだ。
――そのときの私は、その程度に考えていた。
◇◇◇
翌朝、夜が明けたばかりのこと。
水汲みに出ようと戸を開けた私は、そのまま固まってしまった。
店の前に、ジェラルド様が立っていたのだ。
彼は朝日を浴びながら、黒い制服の襟まできっちり留めて、背筋を伸ばしている。
「……おはようございます、ヴァルク様」
「おはよう、店主殿」
「お食事をお出しするのは、まだ先ですが」
「知っている。だからここで待っているのだ」
「夕刻にいらっしゃるとおっしゃっていたはずですが?」
「今日は非番だ。それに……夕刻では、席が埋まっているかもしれんからな」
大真面目にそう答えられて、私は半ば感心しながら尋ねた。
「ちなみに、朝食は?」
「食べてきた。いつも通り、味のしないものをな」
さらりと言うが、つまりはそういうこと。昨日のスープで戻った味覚は、どうやら一時的なものだったらしい。
「……お食事の時間まで、そちらでお待ちに?」
「ああ」
それきり、会話が終わってしまった。
井戸端へ水を汲みに来たご近所の人たちが、遠巻きにひそひそと話しているのが聞こえてきた。
どうしたものかと考えていると――。
「おはよう、リゼットちゃん! 朝から立派な門番がいるじゃないか!」
「マルタさん!」
向かいの店先から、実にいい笑顔で手を振られた。
マルタさんに見られたということは、きっと今日の昼までには、この光景が下町中の噂になっていることだろう。
……貴族の約束と朝霧は、日が昇れば消えるものじゃなかったの?
そんなことを考えていると、ピノが寝ぼけまなこで戸口から顔を出し、ジェラルド様を見上げてぼそりと言った。
「……姉ちゃん、店の前に騎士の石像なんか建てたのか」
――どうやら、とんでもない常連がついてしまったらしかった。




