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第6話 味などわからん

「……ここが、毒消しの食堂か」


 男はそれだけ言うと、私の返事も待たずに店の敷居をまたいだ。


 黒い制服に、腰の剣。短く刈った黒髪に、左の眉尻をかすめる古い傷。歳は二十代の後半あたりだろうか。


 その鉄色の瞳を店の中にひと巡りさせたあと、彼はいちばん奥の席へ向かって歩き出す。大きな体の割に、ほとんど足音がしなかった。


 ピノがカウンターの陰から、警戒した顔でこちらを見ている。


 私は緊張を表に出さぬよう努めながら、声をかけた。


「ご注文は何になさいますか?」


「……食事を。何でもいい」


 何でもいい、ときたか。


「今日の煮込みはもう売り切れてしまったんです。賄い用のスープとパンなら、お出しできますけれど」


「食えるものなら、何でもいい」


「では、うちでいちばんおいしい『何でもいい』をお持ちしますね」


 男は怪訝そうに私を見たものの、それ以上は何も言わなかった。


 ピノが私にそっと近寄り、声を潜める。


「姉ちゃん、あれ絶対ヤバいやつだって。それにあの上等な黒い制服……衛兵なんかよりずっと偉いぜあれは」


「そうね。……でも、お客様よ」


「もし姉ちゃんが斬られそうになったら、おれ、裏から親方呼んでくるからな」


「ふふ、頼もしいこと」


 私は小鍋を火にかけた。うちは食堂で、あちらはお腹を空かせたお客様。それなら、私がやることはひとつしかない。


◇◇◇


 朝から取っておいた兎の骨出汁に、残った根菜を加えたスープ、それにマルタさんのパンを添えて、奥の席へ運んだ。


 男は「……頂く」とだけ言って、スプーンを手に取った。


 そして彼がひと口ふた口食べた時点で、私はその食べ方がおかしいことに気づいた。


 スプーンですくう量も、口へ運ぶ間合いも、噛む回数さえほとんど同じだった。立ちのぼる香りを楽しむ様子もなければ、熱いはずのスープにも眉ひとつ動かさない。


 あれは、食事をしているというより……必要なものを体へ詰め込んでいる――そんな食べ方だった。


 私が公爵家に嫁いだばかりのころ、あの家の厨房に、似た食べ方をする古参の毒見役がいたことを思い出す。何年も食を味わうことを許されず、食べ物をただの仕事として口に運ぶようになった人だった。


 けれど、この人の食べ方はもっと徹底している。


 まるで、味わうことそのものを、とっくに諦めてしまったような……。


 やがてお椀は、きれいに空になった。


「……会計を」


「その前に、ひとつ伺っても?」


「何だ」


「お味はいかがでした?」


 男の動きが、一瞬止まった気がした。


「……味などわからん。何を食おうがな」


 予想していた通りの答えだった。


 それでも、胸の奥が少しざわつく。


「いつからです?」


「……覚えていない。少なくとも十年は、ずっとこの有り様だ」


 それきり男は口を閉ざしてしまった。


 舌の病気かもしれないし、昔負った別の怪我が原因かもしれない。確かめようにも、たぶん、これ以上尋ねても答えてはくれないだろう。


 まあ、それならそれで――別の方法を使うまでだ。


「その前に、器をお下げしますね」


 本来、会計前に食器を下げるというのは礼儀に反する行為だ。けれど、まだこの人には、ここにいてもらわなければ困る。だから――ごめんなさい。


 胸の内でそう詫びながら、私は竈のほうへ向き直り、受け取ったお椀の縁に、ほんの少しだけ口をつけた。


 ――瞬間、背筋が粟立った。


 冷たい。


 ガストンさんの肩に残っていた呪いの残滓とは、比べものにならない。底が見えないほど古くて、深くて……長い年月をかけて凍りついた氷のような冷たさが、器の縁にまで染みついている。


 舌の病気でも、怪我でもない。この人は、ずっと昔から、重苦しい呪いの底で生きているのだ。


「……どうした」


「――いいえ、何でもありません」


 そういえば祖母のノートに、よく似た話が書いてあった気がする。


 確か――長く強い呪いにさらされた者は、ときに体の感覚まで冷えきってしまう。痛みや温度だけでなく、味さえ感じなくなることがある――だったか。


「――お客様。もう一品だけ、お付き合いいただけませんか? もちろんお代は結構ですので」


「施しを受けるつもりはない」


「そんな上等なものではありません。ただ個人的に少し、試したいことがあるだけです」


「俺で、か」


 私がニコリと微笑むのを見て、男は眉をひそめた。


「……毒でも盛る気か」


「あら。毒を盛る店なら、看板に『毒消し』なんて書きませんよ」


「……よく回る口だな」


 立ち上がりかけていた男は、少しだけ考えてから椅子に座り直した。どうやら、付き合っていただけるらしい。


◇◇◇


 竈の前に立ち、ひとつ深呼吸をする。


 祖母のノートにあった、味を失った人のための料理を思い出す。


 朝からじっくり取った骨出汁を小鍋に移し、日向草を加える。そこへ、冷えきった体の芯まで届くように、甘みのある根菜と香草を少しずつ足していく。


 強い火で無理に温めてはいけない。


 冷えきったものを解きほぐすには、激しい熱ではなく、ゆっくり染み込んでいくようなぬくもりがいい――祖母はノートを通してそう教えてくれた。


 小鍋がコトコトと小さな音を立て、店の中に骨出汁と香草の匂いが広がっていく。


「な、なあ姉ちゃん。おれの分は?」


「お客様が先よ。ふふ、大丈夫。ピノの分もちゃんとあるから」


「へへ」


 ピノが嬉しそうに喉を鳴らす。


 その向こうでは、男が身じろぎもせずに待っている。


「――お待たせしました。毒消しのスープです」


 骨の旨みが溶け込んだ、白く濁ったひと椀を置く。


 男は無表情のままスープにスプーンを沈め、口へ運んだ。


 ――その手が、ピタリと止まる。


 スプーンを持ったまま、微動だにしない。


 湯気だけが、鉄色の瞳の前をゆっくりと上っていく。


「……お口に合いませんでした?」


 返事はなかった。


 代わりに、ぽたり、と音がした。


 お椀の中に雫がひとつ落ち、小さな波紋が広がる。


 男は自分の頬に手をやり、指先についた涙を、信じられないものでも見るように凝視していた。


 さっきまで何事にも動じそうになかった顔が、今はまるで、どうしていいかわからない子供のように見えた。


「……味が」


 掠れた声が、男の口から漏れた。


「味が……する」


「それはよかった。どうかゆっくり、味わってくださいね」


「食事を、味わう……この、俺が……」


 言葉は、そこで途切れた。


 大きな背中が、お椀の上でゆっくりと丸くなる。


 ピノが一瞬何か言おうとしたようだが、そのまま黙ってそっと近づき、洗いたての手拭いをテーブルの端に置いた。


「……小僧」


「べ、別に。姉ちゃんの飯は、そういう飯なんだよ。おれも最初に食べたとき、泣きそうになっちまったし」


「……そうか」


「そうだよ」


 私は何も聞かず、竈へ戻って鍋をかき混ぜた。


 泣きながら食べている人のそばでは、いつも通り料理の音を聞かせてあげればいい。


 昔、祖母が教えてくれたことだった。


 しばらくしてお椀の底が見えたところで、男は一度鼻をすすり、お椀を両手でそっと差し出してきた。


「……もう一杯頼む」


 その声は、かすかに震えていた。


「はい、よろこんで」


 私はお椀を受け取って、男に笑いかけた。


「何杯でも、どうぞ」

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