第5話 井戸に毒を入れたのは誰?
井戸に毒を入れているなんて、黙っていられるわけがない。
翌朝、私は食堂の仕込みを始める前に、水の味見に取りかかった。
「ピノ、頼んでおいた分は?」
「持ってきたぜ。北の井戸と、東の共同井戸と、革具屋の裏のやつ。あと、水売りの樽からも一杯」
テーブルに並んだ水瓶を、端から順にひと匙ずつ確かめていく。
東の井戸水は、澄んだ土の味がした。
革具屋の裏の水は、少し鉄っぽいけれど害はない。
水売りの樽の水も特に問題なし。
そして、北の井戸の水はというと――舌に載せた瞬間、刺すような苦味が広がった。
「やっぱり、北の井戸だけがやられているようね。それも、昨日の水より苦味が濃くなってる」
「……姉ちゃん、いまさらだけどさ。毒なんて舐めて平気なのか? ていうかよく舐めれるな……」
「この程度の毒なら、ひと口含むくらい大丈夫よ。それに、毒見しない毒消しなんて、味見しない料理人も同然でしょう」
「ぜってえ真似できねえ……」
「しなくていいわよ。それより――問題はこっち」
私は北の井戸の水が入った水瓶を、指先でコツンと叩いた。
「これは、今朝汲んだ水なのよね?」
「ああ。夜が明けてすぐ汲んできた」
「なら、昨日の昼から今朝までの間に、毒の量が増えたことになるわね……」
人を殺せるほどの量ではない。けれど、毎日飲み続ければ腹を壊し、体の弱い老人や子供なら寝込んでしまうだろう。
そんな水を、この先も使い続けようと思う人はいない。
「――何者かが、この井戸を誰も使えないようにしたがっている……のかもしれないわね」
◇◇◇
真相への手掛かりは、マルタさんがくれた情報にあった。
「土地の買い取り? ああ、来てる来てる。北側の長屋に、このところ何度もね」
昼過ぎ、パンの精算がてら尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。
マルタさんは眉をひそめながら、話を続ける。
「ゴーチェとかいう男さ。近ごろは土地を安く買い叩くような仕事ばかりしててね。『井戸が呪われてる』『値が下がる前に売っちまいな』って、年寄りの家を回ってるんだよ」
「呪われてる……ですか」
もし呪いなら、あの水からは独特の冷たさを感じるはずだ。けれど北の井戸に混じっていたのは、呪いではなく毒だった。
井戸の水を悪くして土地の値を下げ、安く買い叩く。
まだ証拠はないけれど、筋は通っている。
――その晩、店を閉めてから、私はガストンさんと職人の皆さんに事情を説明して頭を下げた。
「今夜、皆さんに北の井戸の見張りをお願いできないでしょうか?」
「おう、お安い御用だ。嬢ちゃんはどうするんだ?」
「まずは皆さんの張り込み用の夜食を作ります。それと――答え合わせを」
◇◇◇
夜明け前の北の井戸は、耳が痛くなるほど静かだった。
物陰にはガストンさんと職人の皆さん。その手には、兎の骨でとった熱いスープと、マルタさんのパン。夏とはいえ夜は冷えるので、張り込みには湯気の立つ食べ物がいちばんだ。
「……うめえ」
「しっ。声がでけえぞ、マルコ」
「だってよう、骨の出汁が腹に沁みるんだ。夜明け前ってのは、どうしてこう腹が減る……」
物陰のあちこちから、押し殺した啜り音が聞こえる。頼もしいやら、頼りないやら……。
「……おい、来やがったぞ」
空がわずかに白み始めたころ、頭巾を被った男がひとり現れた。
男は何度も辺りを見回しながら井戸へ近づき、懐から小さな紙包みを取り出す。
その中身を井戸へ落とそうとした瞬間、物陰から伸びた熊のような腕が、男の手首を掴んだ。
「よう。朝の水汲みにしちゃあ、ずいぶん身軽だなあ?」
「ひっ……!?」
男が取り落とした紙包みを、私はすかさず拾い上げる。
中身は――灰色の粉だった。
そのまま口にするのは危険なので、持参した水筒の水にほんの少しだけ溶かし、舌先に一滴だけ載せた。
――刺すような、苦味だった。
「間違いないわ。この井戸に入れられていた毒と同じものよ」
「な、なんでわかるんだよ……!?」
「私は毒消しの食堂の、主ですもの」
紙包みを閉じ、男と正面から向き合う。
「衛兵に引き渡す前にひとつだけ聞いておくわ――あなた、誰に頼まれたの?」
ガストンさんの手に、ぐっと力が入る。男はますます青ざめ、ついに観念したように言った。
「ゴ……ゴーチェの親分だ! おれは、渡された粉を撒いてただけで……!」
これで裏は取れた。
夜が明けると同時に、ピノが手筈どおり衛兵の詰め所へ走る。
並行して、マルタさんが住人たちへ事情を知らせて回ってくれた。
程なくして駆けつけた衛兵のうち、二人が頭巾の男と毒の包みを引き取り、残りはゴーチェの家へと駆けていった。
しばらくして、寝間着姿のゴーチェが衛兵に連れられてきた。井戸のまわりは、すでに北側の住人たちがぐるりと囲んでいる。
「い、言いがかりだ! 井戸水の質が悪くなっていたのは前からで――」
「前から、ですか」
私は、衛兵が預かっている紙包みを示した。
「では、あなたの使いが夜明け前に井戸へ入れようとしていたこの粉は、何なのでしょう?」
「し、知らん! そいつが勝手にやったことだ!」
「へっ……ひでえや、親分。毎晩、粉をおれに寄こしてたのはあんたじゃねえか」
縄をかけられた男のひと言に、住人たちがどっとざわめいた。
ゴーチェの顔色が、白から赤へ、そして土気色へと変わっていく。
「井戸の水を悪くして、住人を不安にさせる。そのうえで土地を安く買い取ろうとしていたんですね」
今度こそ、ゴーチェは何も答えなかった。
「生憎と、こちらは人のお腹を守るのが商売です。毒なんかで商売する方を、見過ごすわけにはいきません」
◇◇◇
その後、ゴーチェと手下は衛兵に連れていかれた。
住人たちから何度も頭を下げられ、むしろ私のほうが恐縮することになった。
ただ、ひとつだけ気になることが残っていた。
毒を撒かれた井戸が、北のひとつだけとは限らない。私は衛兵に頼んで、ゴーチェの持ち物に他の井戸の記録がないか調べてもらった。
幸い、他の井戸を狙った形跡は見つからなかったらしい。
けれど、押収された手帳を調べていた衛兵が、ある商会の名前について私に尋ねてきた。
「この商会に心当たりはあるか?」
そのページには、土地の買い取りに使う前金の出所らしい名前が記されていた。
『ルヴェル商会』
「……いいえ。聞いたこともありません」
下町の小悪党に、土地を買うための金を出していた商会。
どうやら、ゴーチェひとりで終わる話ではないらしい。
◇◇◇
翌日は店を開けるなり、すぐに満席になった。
北の井戸の一件で、北側の住人たちが次々と押し寄せ、兎を三羽に増やした大鍋も、日暮れ前には底をついた。ピノは皿を運びながら、鼻高々といった様子だ。
「な、姉ちゃん。おれたちの店、もう下町いちばんの有名店じゃねえか?」
「なにが『おれたちの店』よ」
「い、いいじゃねえかよ別に」
「悪いなんて言ってないわよ。ただ……いい響きだと思って」
時間はあっという間に過ぎていき、気がつくと日が傾いていた。
最後のお客さんを送り出し、掃除のために箒を手に取る。
と、そのとき――。
戸口から差し込んでいた光が、ふっと遮られた。
顔を上げると、黒い制服を着た大男が立っていた。逆光で顔はよく見えなかったが、戸枠につっかえそうな肩幅と、腰に下げた剣だけはかろうじて見て取れた。
一見のお客様と呼ぶには、立ち姿に隙がなさすぎる。腰の剣も、飾りには見えない。
それに、仕立てのいい黒い制服は、どう見てもこの辺りの職人や商人のものではなかった。
「……ここが、毒消しの食堂か」
低く、よく通る声だった。




