第4話 毒消しの食堂、開店です
開店初日の朝は、憎らしいほどの快晴だった。
「……お客様、いらっしゃらないわね」
「さっき看板出したばっかだろ。落ち着けって」
エプロン姿のピノが、腕を組んで偉そうに言う。これじゃどちらが店主かわからない。
ガストンさんは約束どおり、朝までに雨漏りを塞いでくれていた。おまけに扉の上には、削りたての木の看板まで掛かっている。
『毒消しの食堂』
無骨な看板だけれど、そこに彫られた店名はとても輝いて見えた。
店の外観だけでなく、もちろん店内の準備も万全だ。
本日の献立は、兎と香草の煮込み。お代は銅貨二十枚。
夜明け前にピノと市場へ行き、丸々太った兎を二羽と、根菜をひと籠買ってきた。教わったとおり朝一番に訪ねた野菜売りのご老人は、確かに機嫌がよくて、少し萎びた葱をおまけでつけてくれた。
兎は骨ごとぶつ切りにして、香味野菜と一緒に炒める。そこへ水を注ぎ、香草を束にして入れたら、あとはコトコト煮込むだけ。骨から出た旨みで汁が澄んだ金色になったところで、最後に塩で味を調える。
朝からいい匂いが、通りまで漂っているはずなのだけれど……。
「なあ姉ちゃん、昼になっても誰も来なかったらさ――」
ピノが言いかけた、そのときだった。
「おうい、開いてるかい!」
戸を勢いよく開けて入ってきたのは、なんと熊! ――もとい、ガストンさんだった。さらにその後ろから、見知らぬ男たちが四名、ぞろぞろと続いて入ってきた。
「連れてきたぜ、嬢ちゃん。左官のマルコに、屋根職人の兄弟、それから石大工のじいさんだ。おら、みんな座れ座れ」
「ようこそ、毒消しの食堂へ」
――それが嵐の始まりだとは、このときの私はまだ知る由もなかった。
◇◇◇
「……おい親方。その肩、本当にここの飯食って楽になったのかよ」
「なんだマルコ、疑ってんのか? そんならてめえのその腰も、今すぐ嬢ちゃんに見てもらえ」
「い、いや、おれの腰はただの働きすぎで……」
疑わしそうな顔でスプーンを取った左官の男は、ひと口食べたところで黙り、ふた口目にはお椀を抱え込んだ。
「……なんだこれ。兎って、こんなにうまかったか?」
「骨ごと香草と煮込んでありますから」
スプーンでつつくだけで、骨のまわりの肉がほろりと落ちる。金色の汁には香草の爽やかな香りが溶け込み、飲み下せば腹の底からじんわりと温まっていく。これが――兎と香草の煮込みである。
働きづめの男たちにとっては、まさに至高の一品だった。
「おかわり!」
「こっちも頼む!」
石大工のご老人は三杯目を平らげ、屋根職人の兄弟はわざわざ厨房まで鍋の残りを覗き込みに来ていた。ピノはそんな男たちと厨房との間を、皿を抱えながら忙しそうに行ったり来たりしている。
男衆の騒がしい声を聞きつけたのか、それともようやく匂いが方々に行き渡ったおかげか、いつの間にか色々な人たちが入れ替わり立ち替わり戸口から顔を出すようになっていた。
――先代の孫が帰ってきたらしいぜ。
――大工の親方の肩を治したって本当かい。
気がつけばそんな噂まで行き交っていた。
そして昼を少し回ったころ、恰幅のいい女性が店にやってきた。腕に抱えた籠からは、焼きたてのパンの香りが漂っている。
「あんたが噂のリゼットちゃんかい。あたしはマルタ。向かいでパン屋をやってる」
「まあ。いつも窓越しにいい匂いを届けてくださり、ありがとうございます」
「おや、口がうまい子だねえ」
マルタさんは愉快そうに笑うと、籠のパンをカウンターに並べ始めた。
「煮込みといったら、やっぱりパンだろ。うちのを置くといい」
「よろしいんですか?」
「売れた分だけあとで払ってくれりゃいいさ。アメリーばあさんには、うちの亭主が世話になったからね。それに――」
彼女はぐっと声を落とした。ここからが本題、とでも言いたげな顔だ。
「あたしはここらじゃ生き字引と言われててね。この辺りの噂なら、パンが焼けるより早く耳に入るんだ」
厨房で手を動かしながら話を聞いてみたところ、確かにその言葉に嘘はなかった。東の市場で起きた喧嘩の顛末から、教会の若い司祭がやらかした失敗談まで、この下町にまつわる話が次から次へと出てくる。
そして、ふと思い出したようにマルタさんが言った。
「そういや、貴族街の話なんだけどさ。グランメゾン公爵家の夜会で、客が三人も腹を下したんだと。給仕頭が真っ青になって、医者を呼ぶわ原因を探すわで、大騒ぎだったらしいよ」
動かしていた手が、一瞬だけ止まった。
――あら。ずいぶん、お早いこと。
「まあ、それは大変ですね」
「おや、あんまり興味なかったかい? まあ、貴族サマの腹具合なんて、あたしらには関係ないか」
ええ。もう、関係ありませんとも。
◇◇◇
日が暮れ、最後のお客さんを見送った。
兎二羽ぶんの大鍋は、日暮れ前にはきれいに空になっていた。今日の売り上げは銅貨三百四十枚。マルタさんへのパン代を払っても、明日の仕入れには十分な額が残る。
卓の上に銅貨を積み上げ、ピノと二人でしばらく眺めた。
「……売れたな、姉ちゃん」
「売れたわね」
「兎、明日はもっと要ると思うぜ」
もちろん、まだまだ大儲けには程遠い。それでも、誰かのお腹を満たして受け取ったお金は、公爵夫人だったころに身につけていた宝石より、ずっと重く感じられた。
満たされた気分になったところで、一日の締めくくりに、働き通しだったピノと自分のためにお茶を淹れる。
これで、心だけでなく体も満たされる……はずだった。
私は、お茶をひと口含んだところで、すぐにカップを置いた。
――苦い。
お茶の苦味とは違う。ほんのかすかだけれど、舌を刺すような嫌な味が混じっている。
「ピノ。そのお茶、飲まないで」
まだ口をつけていなかったピノのカップを、そっと遠ざけた。
かなり薄くはあるけれど……間違いない。
――毒だ。
「このお茶、ピノが汲んできてくれた水を使ったのだけれど――裏の井戸のものじゃないでしょう?」
「え? ああ……昼にさ、汲み置きが切れちまって。裏の井戸だけじゃ間に合わなかったから、北の井戸から汲んできたんだ。……なんかまずかったか?」
「ええ。この水、毒が混じっている。ほんのわずかだけれど」
ピノの顔から、さっと血の気が引いた。
「ど、毒って……おれ、みんなに飲ませ――」
「安心して。昼の分は洗い物に回していたから、口に入るものに使ったのは、このお茶が初めてよ。煮込みは全部、裏の井戸の水。それに、これくらいの薄さなら一杯や二杯飲んだ程度ですぐ倒れるようなものではないわ」
「そ、そっか……よかった……いや、よくねえ!」
ピノは椅子から勢いよく立ち上がった。
「北の井戸って、みんなが使ってんだぞ。そういや最近、あの辺りのやつらがよく腹を壊してるって……年寄りや赤ん坊が何人か寝込んでるって聞いた」
「お医者様は?」
「ただの水あたりだろうって」
そんなはずはない。ただの水あたりなら、こんな味はしない。
私は、今度は水そのものを舌に載せて確かめた。
刺すような苦味の奥に、薬草を煮詰めたような独特の渋みがある。これは、井戸の泥や鉱石が溶け出した味ではない。
――誰かが、手を加えて作ったものだ。
しかも、普通の舌ではまず気づけないほど味を薄めて。
偶然、何かが井戸へ落ちたとは考えにくい。
…………誰かが北の井戸に、毒を入れている。




