第3話 大工の親方と、呪いの味
この下町の『毒消し』になる――そう宣言はしたものの……。
翌朝、私は早速つまずいてしまっていた。
「……蝶番がもげてしまったわ」
「姉ちゃん、椅子も脚がぐらついてるやつばっかだぜ。あと雨漏りもしてるし……昨夜、おれの頭に水が落ちてきたぞ」
昨晩は結局、ピノは帰らず店に泊まった。帰る場所がないみたいだったけれど、事情はまだ聞いてはいない。向こうから話してくれるのを待つつもりだ。
そんなピノと一緒になって、朝から頭を抱えていた。八年も放置されていたとなると、やはり掃除だけでは、店の傷みはどうにもならないみたいだった。
明日にでも店を開こうと決めた矢先に、店のほうが先に音を上げるとはね……。
おまけに、今は盛夏であるにも関わらず、外の空気はある意味で冷たかった。
朝の水汲みに、ピノと一緒に東の共同井戸へ向かうと、集まっていた女たちの話し声がピタリと止まる。無視して通り過ぎたところ、背中からヒソヒソと声が届いてきた。
――あれだろ。貴族街から流れてきたお嬢様っていうのは。
――貴族サマの道楽で、先代の店を開けるんだとさ。
ピノがその場で石を拾って投げようとしたので、私は首を振りながらそれを制止した。
「よしなさい。これからお店の料理の味で納得させていけばいいのよ」
「……昨日から思ってたけど、姉ちゃんって商人より図太い心してるよな」
「褒め言葉として受け取っておくわ。それより、この町の大工さんに心当たりはない?」
「大工なら親方んとこだ。腕は下町一だけど――かなりの頑固者だぜ」
◇◇◇
その日の昼前、熊のような大男が私の店を訪れた。彼こそが、今朝、店の修理を依頼した大工の親方さんだった。
親方さんはガストンと名乗ってから、店の中をぐるりと見回し、それから私のことを頭から足元までじろりとした目つきで眺めた。
「……先代には世話んなった。だから仕事は受ける。だがな嬢ちゃん、先に言っとくぞ」
太い指が、ドン、と床板を指した。
「下町は、貴族サマの遊び場じゃねえ。飽きたら帰る、なんて抜かして中途半端にほっぽり出しやがったら、ただじゃ置かねえからな」
「肝に銘じます。ではガストンさん、お代の相談なのですが――実は懐が厳しくて。半分はお金で、残り半分はお食事で支払わせていただけませんか?」
「食事だぁ?」
「ええ。いらっしゃっている間、毎食お出しいたしますわ。なにせうちは、食堂なのですから」
その言葉を聞いてガストンさんは鼻を鳴らすと、どさりと道具箱を床に下ろした。どうやら、交渉は成立したらしかった。
◇◇◇
ピノが下町一だと言うだけあって、ガストンさんの大工としての腕は本物だった。外れた蝶番は昼には直っており、ぐらついていた椅子の脚も午後にはすっかり元通りになっていた。
ただ、梁へ手を伸ばすたび、左腕の動きだけがほんのわずかに遅れているように見えた。肩をかばっているような、そんな動きだ。私は気づかないふりをして、鍋の様子を見に戻った。
今回ガストンさんに振る舞う食事は、祖母の鍋で朝からじっくり煮込んだ自信作――豆と塩漬け肉の煮込みだ。
ピノは昨日と同じく勢いよく平らげた。ところが、ガストンさんはひと口食べたところで眉間に皺を寄せ、スプーンを睨みつけた。
「……嬢ちゃんよ。こいつぁ、何の味だ」
「――何かおかしいですか?」
「妙に金属くせえ。錆びた鉄でも噛んでるみてえだ」
「え、うそだろ? すげえうまいじゃん」
ピノが目を丸くする。同じ鍋からよそった、同じ煮込みなのだから、そんなはずはない――とでも言いたげだ。
――同じ鍋の料理なのに、ひとりだけ違う味がするなら、鍋ではなく、その人自身を疑え。
祖母のノートにあった言葉が、頭に浮かんだ。
私は鍋からひと匙すくい、自分でも味を確かめてみる。豆の甘みと肉のコク、香草の香り。毒も呪いも混じっていない、いつもの味だった。
金属のような味……それと、作業中ずっとかばっていた、左肩――。
「――ガストンさん。左肩を、痛めていらっしゃいますね?」
ガストンさんの手が、ぴたりと止まった。
「……何ともねえよ」
「そうですか。では――失礼、器を検めさせていただきますね。あ、これは当店の作法になっていまして」
答えを待たずにお椀を引き取り、縁にほんの少しだけ――口をつけた。
――瞬間、刺すような冷たさが、舌を駆け巡った。
豆の甘みも肉のコクも突き抜けて、氷の針が舌に触れたようだった。そして少し遅れて、薄っすらとした濁りが舌を覆っていく。
これは、悪意ではなく……強がって嘘をついている人の、味だった。
「……嘘の味がしますね。ガストンさん、その左肩――呪いの残滓が潜んでいるようですね。それも、ずいぶん前に受けた呪いのようで……」
ガストンさんの顔から、表情が消えた。
「――なんでわかったんだ?」
「私の舌は、そういうふうにできているんです。祖母に教わりました。それで――その肩、どうされたんですか?」
ガストンさんはしばらく黙っていたが、やがて観念したように太い息を吐いた。
「……あれは三年前のことだ。潰れた屋敷を取り壊しているときによ、妙な呪具をうっかり素手で掴んじまったんだ。すぐに教会でお祓いはしてもらったし、『もう大丈夫』とお墨付きももらってる」
そう言いながら、左肩を忌々しげにさする。
「……だがそれからずっと左肩だけ、冬になると氷柱をぶっ刺されたみてえに疼きやがる。医者や薬師に聞いても、『気のせい』としか言わなかった」
「気のせいではありません。お祓いで消せるのは呪いの本体だけで、骨にまで染みついた呪いの残滓までは、ぬぐい去ることはできないんです」
私は食べかけのお椀を受け取り、新しい鍋に水を張った。
「少し、試してみましょう」
「……まさか、治せるっていうのか?」
「ええ。うちは『毒消し』の食堂ですから。まだ開店していませんけど」
骨付き肉を割り、骨の髄の旨みまでじっくり煮出す。そこへ祖母のノートに書かれていた日向草をひと束入れる。
そのページの隅にはこう書かれていた――体にこびりついた古い呪いの残滓は、腹の底から温め、ゆっくり溶かして洗い流すのだ、と。
そうして出来上がったのは、骨の旨みが溶け込んだ、白く濁った濃い煮込みだった。
ガストンさんは疑わしそうにしつつも、おそるおそるひと口食べた。
すると次の瞬間、その目が見開かれ、それからはスプーンが止まらなくなった。
「……あ」
ガストンさんの手が、不意に左肩へ伸びた。
「肩が熱い……いや、こりゃあ……あったけえ。おい、嬢ちゃん、これって」
「痛みのほうはいかがですか?」
「さっきまでの痛みが嘘みてえだ。三年ぶりだぞ……こんなに動くのは、三年ぶりだ……」
「よかった。ちゃんと効いたみたいですね」
熊のような巨体のガストンさんが、スプーンを握ったままぼろぼろと涙をこぼすのを見て、ピノがぎょっと固まった。
やがてガストンさんは目元をぬぐうと、まっすぐに私を見た。
「あんた、先代の……アメリーばあさんとはどういう関係だい」
「孫です。名はリゼットと申します」
「――そうかい……帰ってきたのかい」
何度も頷きながら、ガストンさんは道具箱を担ぎ直し、入口のほうへと静かに歩きだした。
「雨漏りは明日の朝までに塞いどく。金はいらねえ。支払いはすべて飯でいい。そのかわりよ、嬢ちゃん」
入口の手前で振り返った顔には、とびきりの笑みが浮かんでいた。
「明日には店を開くんだろう。早速、仲間を連れてきてやらぁ。下町の連中はな、みぃんな、体のどっかしらを傷めながら生きてやがるからな」
店の外は、いつの間にか橙色の夕暮れに染まっていた。
私の――『毒消し』の食堂の、開店前夜だった。




