第2話 祖母のレシピノート
私は、カウンターの上のノートをそっと手に取った。
厚紙の表紙には、見慣れた癖のある字で『アメリー・アルディの覚え書き』と書かれている。八年前に死んだ祖母の、レシピノートだった。
埃を払って、最初のページを開く。
『毒を消すのは薬ではなく、食卓である。人はおいしいものを食べれば、身も心も素直になれるものだ』
「……ふふ、おばあちゃんらしい」
ページをめくっていく。煮込みの火加減、毒草と食べられる草の見分け方、熱冷ましの粥、呪いを溶かす出汁の組み合わせ……ノートには、料理と薬草の知恵が、みっちりと詰まっていた。
中には、ページの隅に、こんな教えが走り書きされていることもあった。
『同じ鍋の料理なのに、ひとりだけ違う味がするなら、鍋ではなく、その人自身を疑え』
そうしてノートを読み進めていくと、途中、一枚の古い紙片が挟まっているのを見つけた。それは下町の食堂には似つかわしくない上質な紙であり、宮廷風の献立がずらっと並んでいる。しかもその字は、明らかに祖母のものではなかった。
なぜこんなものが――と首を傾げながらさらにページをめくっていくと、最後のページに達したところで、私の手が止まった。
……読めない。
祖母の字であることは間違いない。なのに、並んでいる文字は、私が知るどの国の言葉とも違う。まるで、誰にも内容を知られないように書かれた暗号のようだった。
「……私への宿題、ということかしら」
私は少し泣きそうになりながら、ノートを胸に抱いた。
――いいかい、リゼット。
祖母はよく、竈の前の丸椅子に座って、幼い私をあやすようにこう言った。
――真実を見抜くあんたの舌は、とても素敵なものだ。でもね、それだけじゃ駄目。毒や嘘をちゃんと消すには、食事が必要なんだ。「舌」と「食」、どちらも大切にするんだよ。
あの頃は、祖母が何を言っているのかよくわからなかったけれど……毒見役として飼われた四年間のおかげで、今ではその言葉の意味が嫌というほどわかる。
ただ「舌」で見抜くだけでは、毒や嘘は消えてくれない。
おばあちゃん……私、これからは「食」のほうも頑張ってみるわ。
◇◇◇
いつまでも感傷に浸っている場合ではない。日が暮れる前に、寝る場所を整え、食べるものを用意しなくてはならない。
まずは竈の灰をかき出し、火を入れた。八年間ほったらかしにされていたのに、竈は文句ひとつ言わずに燃えてくれた。
戸棚を開けると、食材を保存しておく魔法が施された陶磁器の壺がいくつも並んでいた。中には下茹でした豆、塩漬けの骨付き肉、乾燥させた香草の束などが入っている。念のため少しずつ味を確かめてみたけど、どれも傷んではいなかった。さすがおばあちゃん。八年経っても、保存魔法はしっかり効いていたらしい。
それから裏の井戸の水を汲み、ひと口含んでみる。ほんのり甘い、澄んだ味がした。よかった、ここの井戸は今も生きているみたいだ。
改めて必要な分だけ水を汲んでから、店に戻り、早速料理に取り掛かる。
豆と刻んだ肉を鍋に入れ、そこへ水と香草を加える。あとは竈に任せて、じっくりコトコト煮込む。
やがて湯気に、煮込みの匂いが混じりはじめた。肉の脂と塩気の香ばしい匂いに、香草の青い香りが重なる。
ああ、これだ。この匂いに包まれながら、私は育ったのだ。
と、そのとき――。
窓の外から、ぐう、と気の抜ける音が聞こえてきた。
「……どなた?」
外を覗いてみると、窓の下に、痩せた少年がうずくまっていた。歳は十かそこらだろうか。すり切れた上着を着て、警戒心の強い野良猫のような目でこちらを見ている。
「べ、別に。誰もいないはずの家から匂いがしてきたから、気になっただけだ」
「あら、そう」
「それより姉ちゃん、あんたこそ誰だよ。ここ、空き家だったはずだろ。夜になると昔の家主の幽霊が出るって噂だぜ」
「素敵な噂ね。おばあちゃんに会えるなら、私も夜更かししてみようかしら」
「は?」
少年が、変なものを見てしまったとばかりに少し後ずさった。
私は構わず、手に持ったままだったお椀を少年に掲げてみせる。
「ちょうど味見係を探していたの。豆の煮込みを作ってみたのだけれど、程よい硬さになってるか見てくれないかしら」
「……金なんて持ってねえぞ」
「知らなかった? 味見は立派なお仕事よ。この一杯は、その報酬ってわけ」
私が戸を開けてあげると、少年はしばらく迷った末、恐る恐る店に入ってきた。
早速お椀に煮込みをよそう。豆はほっくりと煮え、肉の脂は澄んだ汁に溶け、香草の香りが湯気とともに立ちのぼっていた。
少年は警戒するように手を震わせながら汁を口に運ぶと、次の瞬間、目を見開いた。それからは何も言わず、一気に食べ進めていく。
「……なんだよ、これ」
あっという間に空になったお椀を睨みながら、少年がうめき声を上げた。
「うまい……うまい、のに……なんで、こんな……涙が出そうになるんだよ」
「――おかわりは?」
「……いる」
二杯目を用意してあげると、今度はさっきよりもゆっくり食べはじめた。
しばらくして、少年がお椀から顔を上げて私を見る。
「そういや結局、あんたは誰なんだよ?」
「私はリゼット。ただ単に、今日からここに住むことになっただけよ。そういうあなたは何者?」
「…………おれの名前は、ピノ――ただのピノだ」
名乗るまで、少し間があった。なんだか名字を言いかけて飲み込んだようにも見えたが、結局名前以外は何も口にしようとはしなかった。
まあいい。詮索はしないでおこう。この下町では、誰にでも言いたくないことのひとつやふたつはある――と、祖母もよく言っていたことだし。
「なあ、リゼットの姉ちゃん。おれ、金はねえけど、皿洗いと金勘定くらいならできるぜ。買い出しの値切りなら、大人にも負けねえ」
「あら、頼もしいわね」
「市場のどの店が秤をごまかしてるかも知ってる。野菜売りのじいさんは朝なら機嫌がいいから、そこを狙うんだ」
「まあ。それはもう、即戦力として雇いたいくらいだわ」
「だろ? だからその……明日も、来ていいか?」
生意気な口を利く割に、最後の肝心なところだけ声が小さくなっていた。
私は笑って、空になったお椀を受け取りながら言った。
「もちろん。働き者の味見係は、大歓迎よ」
ピノはにっと笑い、それからふと真顔になって店の中を見回した。
「姉ちゃん、ここで店をやるつもりなんだよな。……ここ、『毒消し』の店って呼ばれてたんだぜ。知ってて言ってるのか?」
「あら、詳しいのね」
「パン屋のおばちゃんが言ってた。ばあちゃんが生きてた頃は、医者に見放されたやつが最後に駆け込む店だったって。腹の毒はもちろん、心の毒だって、ここの飯が消してくれるって」
ピノは少し声を落とした。
「けどもう何年も閉まってたから、大体の人はすっかり忘れちゃってるだろうよ。でも、今でも『毒消し』の店を待ってる人だっているかもしれない。あんた……ここがそういう店だって、わかってんのか?」
「ええ、もちろんよ。だってここは――私が育った家だもの」
私は竈の火を見つめた。八年ぶりに目にしたその火は、あの頃と同じ、優しい橙色をしていた。
「ここは私のおばあちゃんの店。私はここで――食堂を開く。先代に代わって、この下町の『毒消し』になるの」
◇◇◇
その夜は、細い雨が屋根を叩いていた。店のどこかで、ぽつり、ぽつりと雨水の落ちる音がする。
店の隅では、ピノが毛布にくるまって寝息を立てている。雨のため、店に泊めることにしたのだ。
私は寝床がわりの長椅子に横になりながら、もう一度、レシピノートを開いた。
最後のページを開いて蝋燭の灯りに近づけ、透かすように傾けてみる。
――あった。
昼間は気づかなかったが、ページの隅に、掠れたインクの走り書きがある。それは、ちゃんと私にも読める文字で書かれていた。
『おかえり、リゼット。いつかその舌が立派になったときに、またこのページを読んでみな』
――おばあちゃん……あなたいったい……どこまで知っていたの?




