第1話 毒見の舌に、さよならを
「リゼット。お前との婚姻を、本日をもって解消する」
離縁を告げられたとき、私はちょうど、夫のワインの毒見を終えたところだった。
なんて間が悪い。いいえ――むしろ、良すぎるのかしら。
グランメゾン公爵家の応接間で、夫のクロードは玉座にでも座るように長椅子へ腰かけていた。一方で私はこの四年間、あんなふうにこの部屋でくつろげたことなど一度もない。
そんな夫の隣には、ふわふわの金髪をくるくると巻いた男爵令嬢――ソレーヌ様が、当然のように寄り添っている。
「……理由をおうかがいしても?」
「わからないのか。己を飾ることもできず、美しい声で歌うこともできず、社交もてんで駄目。お前は結局のところ、舌しか取り柄のない女――公爵夫人の器では、到底ないのだ」
舌しか取り柄のない女。
ええ、存じております。私を娶ったのも、最初からそれだけが目的だったということくらい。
――私、リゼット・アルディは、生まれつき奇妙な舌を持っている。
口にしたものの性質や、そこに込められたものが、すべて「味」となって舌に伝わるのだ。毒は刺すような苦味に。呪いは氷のような冷たさに。誰かの悪意や偽りは、どろりとした濁りに。そして真心は、ほのかにあたたかい、甘みとなる。
祖母はこのような私の舌を、聖舌と呼んだ。
公爵家はそれを、便利な道具として扱った。ちなみにこの家は、この四年間、ついぞ私に家名を名乗らせなかった。おかげさまで、旧姓に戻る手間が省けるというものだ。
結婚してからの四年間、私は妻である前に毒見役だった。夫の食事、来客の茶、夜会のワイン。この家の者が口にするものは、すべて私が、まずその味を確かめていた。
口に入るものだけではない。いつの間にか、商会が扱う食品や薬品の類いまで、私の「お勤め」として検品させられていた。
一度だけ、商談の席でワインに毒が入っていると気づきながら、騒ぎを起こさぬよう黙って飲み干し、三日ほど寝込んだことがある。目を覚ました私に夫がかけた第一声は、「商談は成功したのか」だった。
あのとき、何かが折れる音を聞いた気がする。たぶん、私の中にわずかに残っていた夫への期待が、完全に崩れた音だったのだろう。
「……もうひとつ、よろしいでしょうか」
私は膝の上で手を重ねた。
「私がこの家を出たあと、お屋敷の毒見はどうなさるおつもりです?」
「ノルデン帰りの薬師を雇う。さらに銀器と検査紙も取り入れる予定だ。得体の知れないお前の舌などより、よほど確かで頼りになる」
「……そうですか。それなら安心ですね」
銀器は砒素でしか曇らないし、検査紙に反応する毒だって、よく知られた種類だけ。この方はそんなことも知らないまま、これまで五体満足に生きてこられたのだ。
それが誰のおかげによるものなのか、この四年間、ついに理解されることはなかった。
「手切れ金だ、受け取れ。離縁状に関しても、すでに教会の承認は済んでいる」
クロードが革袋と羊皮紙を投げてよこした。
革袋のほうは、あまりにも軽い音を立ててテーブルの上に落ちた。開けるまでもなく、中身は大体予想がつく。精々、銀貨三枚といったところか。下町ならひと月は暮らせる額ではあるけれど、公爵夫人として四年間過ごした結果得られた金額としては――ふふ。
離縁状のほうにも目を向けてみると、確かに教会の承認印があった。ずいぶんと手回しのいいこと――
――あら?
離縁状には手切れ金の額を記す欄があるのだが、そこは空白のままだった。教会は離縁状を承認する際、その金額もきちんと確認するのが決まりだったはず……。
……まあ、今はとりあえず、頭の片隅に留めておきましょう。
「これが、四年分のお勤めの代金ですか。勉強になります」
私は革袋をきっちりドレスの隠しポケットに納めた。もらえるものは、もらっておく主義なのだ。
「口の減らない女だ」
夫の隣で、ソレーヌ様がくすくすと笑った。
「リゼット様ったら、おかわいそうに。でも仕方ありませんわ。クロード様にはわたくしという、心から愛し合える相手がいるんですもの」
「ソレーヌ様」
「なあに?」
「ひとつだけ、餞別がわりのご忠告を。この家の紅茶は、濁った味がすることが多いです。……どうか、お気をつけて」
彼女はきょとんと首を傾げた。
今は意味がわからなくても、いずれ嫌でも知ることになるだろう。
そのときの光景を想像してみたけれど、不思議と、悲しい気持ちは湧いてこなかった。
それもそのはず。私の胸は今、途方もない解放感で満ち満ちていたのだから。
ああ、私はもう、毒なんて飲まなくていいのだ。
「承知いたしました。此度の離縁、謹んでお受けいたします」
「……行くあてはあるのか? こうなった以上、アルディの家はお前を引き取りなどせんぞ」
「あら。ご心配いただけますの?」
「あとで公爵家に泣きつかれても困る、というだけだ」
「ご安心を。とびきり居心地のいい場所に、心当たりがございますので」
そう言って私は立ち上がると、ドレスの隠しポケットから小さな鍵を取り出し、そっと握りしめた。
古びた、飾り気のない鉄の鍵。それは八年前に死んだ祖母の、たったひとつの形見だった。この屋敷に嫁いだ日から、ずっと肌身離さず持っている。
もしかすると私は、いつかこんな日が来るのを知っていたのかもしれない。
部屋を出る間際、私はふと足を止めた。
最後にひとつだけ、お勤めを果たしておこう。
「クロード様。そのワイン、どうかお飲みになりませんように……樽が傷んでおりましたので」
「……なんだと?」
「ああ、それから――」
私は夫の前で、四年ぶりに心の底から笑った。
「これからは、ご自分の舌でお確かめくださいませ」
◇◇◇
自室から持ち出した荷物は、小さな鞄ひとつだけだった。公爵家の馬車は使わず、私はその鞄を手に王都の東へ歩いた。
貴族街の白い石畳を抜けると商業区の賑わいが広がり、さらに進むと、夕陽色の煉瓦が並ぶ通りに出た。
東三区、橙通り。そこは、焼きたてのパンと煮込み料理、そして人々の暮らしの匂いにあふれていて。
――幼い私が祖母と暮らした、世界一、あたたかい場所。
「おや、嬢ちゃん。ずいぶん疲れた顔してるねえ」
通りの入口で、飴売りの老婆に呼び止められた。皺だらけの手が、琥珀色の飴玉をひとつ押しつけてくる。
「あの、私、持ち合わせが……」
「いらないよ。あんた、いろいろあったんだろ。甘いもんでも舐めて、心を休めることだね」
断りきれず、私は飴玉を口に入れた。
――あたたかい。
蜂蜜と香草、それから、じわりと舌に広がるほのかに甘いぬくもり。見ず知らずの私を案じてくれる、他意のない真心の味。
この四年間、一度も口にしたことのない味だった。
「……おいしい」
その掠れた声を聞くと、老婆はにっと笑い、しっしと手を振った。
「ほら、もうお行き」
私は俯き、少しだけ早足で歩いた。
毒を盛られたときだって、涙なんて出なかったのに、こんな飴玉ひとつで……。
必死に涙をこらえながら、私はひたすら前を進んでいく。
そして通りの外れまで来たところで、蔦に埋もれた小さな店が見えてきて、その前で私は足を止めた。
看板は煤け、窓は埃で曇っている。祖母が死んでから八年、この店はずっと閉まったままだった。
私は錆びた鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
扉を開けると、盛大に軋む音がする。八年分の沈黙が、ようやく解けたようだった。
「ただいま、おばあちゃん」
店の中には大量の埃が舞い、その奥に、懐かしい竈と傷だらけのカウンターが見えた。
そしてカウンターの上に――ノートが一冊、置かれていた。
八年前、祖母が死んだあの日からずっと、この店に取り残されたノートだった。




