第10話 ただの一個人として、この店に通いたい
「――『元』嫁ぎ先、か」
倉庫街へ向かう馬車の中で、ジェラルド様が呟いた。
「……詳しくは聞かん。だが、無理をさせるつもりもない。あなたは俺の後ろから出ないでくれ」
「善処します」
「いや善処ではなく――」
「善処します」
念のために言っておくと、私はお飾りで連れて行かれるのではない。あの「無味」をその場で判別できる舌を持っている者など、王都では私しかいない。故に、私が必要なのだ。
――問題の倉庫は、毒物対策室が半日で突き止めた。
南方から届いた香辛料の樽が、商会の検印を受ける前に、なぜかひと晩だけ別の小さな倉庫に運ばれていたという。帳簿には、その記録が残っていなかったのだそうだ。
その事実が判明した日の夜――つまり現在、こうして対策室が総出でその小さな倉庫を取り囲んでいるというわけだ。私とジェラルド様も、今は馬車を降りて対策室の人たちと合流している。
「――踏み込め」
ジェラルド様の声は、店で聞くよりずっと低かった。
扉が蹴破られ、いくつもの灯りが中へとなだれ込んでいく。
その先では、頭巾をかぶった男が三人、香辛料の樽に何かを混ぜ込んでいる最中だった。
「王国騎士団、毒物対策室だ。動くな」
ジェラルド様の言葉を無視し、男のひとりが短剣を抜いてこちらへ突っ込んでくる。
――速い、と思った次の瞬間には、短剣は天井に刺さり、男は床に押さえつけられていた。ジェラルド様は剣すら抜いていない。そのまま残るふたりへ目を向けると、ふたりはすぐに両手を上げた。
「……お強いんですね」
「これが本業なのでな」
私の賞賛に当たり前のことのように答えながら、彼は男の手を縛っていく。毎日スープを三杯もおかわりする常連さんと同じ人とは、とても思えなかった。
◇◇◇
捕らえた男たちは、ただの末端に過ぎなかった。
「知らねえ、本当に知らねえんだ! 袋を受け取って、言われた樽に混ぜるだけで……雇い主の顔も見てねえ!」
いつも指示が書かれた手紙と前金を受け取るだけで、しかも手紙は読んだその場で燃やす決まりだそうで、男たちから聞き出せそうなことはほとんどなかった。
彼らが受け取ったという袋も押収し、中に入っていた粉を水にほんの少しだけ溶かしてから一滴だけ舌先に載せてみると――間違いない。あの、冷たい無味だ。口をすすいでも、舌の先の痺れはしばらく消えなかった。
私の検分の結果を聞かされたジェラルド様が、本当に他に何も知らないのかとさらに尋問を続けたところ、まとめ役らしい男だけが、観念したように付け足した。
「……一度だけ、燃やした手紙に紋の透かしが残ってるのを見た。ありゃあ上質な紙だったな」
上質な紙――その言葉に、ふと祖母のノートに挟まれていた紙片が頭をよぎった。
……私の考えすぎだろうか。
「グランメゾン商会は――」
ジェラルド様が、押収した荷札を確かめながら言った。
「シロだ。荷札の検印が三枚、巧妙に偽造されている。商会は、知らずに荷を運ばされていただけのようだ」
「……そう、ですか」
「ただし」
彼は、偽造された検印を指先で弾いた。
「ここ四年間の帳簿には、こんな見落としはひとつもなかった。それがここ最近になって、荷の管理がずいぶん杜撰になったらしいな……荷をきちんと検められる者がいなくなったのか」
いや、それは少し違う。
いなくなったのではなく、捨てたのだ……あの家が。
四年間、あの家が扱うものを舌で検めていたのは、誰だと思っているの。
――いいえ。あの家のことなど、もう私の知ったことではないけれど。
「まあいい。ひとまず毒の出所には一歩近づけた。店主殿、恩に着る」
「……結局、トマさんを目覚めさせる方法まではわかりませんでしたね」
私の言葉に、ジェラルド様は少しだけ苦い表情を浮かべた。
「引き続き対策室で調査を進める。今後も協力願いたい」
「もちろんです。私にできることであれば、何なりと」
◇◇◇
それから三日、私は店を昼だけ開けることにして、他の時間はできるだけ革具屋へ通った。
あの無味の毒は、今の私では消せない。どんな料理を食べさせても、あの「冷たい無味」そのものには届かない。それを認めるのは、悔しいというより……怖かった。
私はジェラルド様に言ったとおり、できることは何でもやった。
体を温める骨出汁の粥。喉を通りやすい蜜湯。トマさんのお母さんが少しでも眠れるように、温めるだけで食べられる煮込みも作った。
結局のところ、今はトマさん自身の体が毒に耐えるしかないので、私にできることと言えば、精々その体が弱らないよう支えることだけだった。
眠ったままのトマさんは、ときどきうるさそうに眉を寄せて、寝言を漏らした。
「……チリ、チリ……うるせぇ……」
耳鳴りでもしているのだろうか。
私は彼のお母さんと顔を見合わせながら、乾いた唇を湿らせる布を取り替えた。
――そして、革具屋に通うようになって、四日目の朝。
「……はら、へった」
トマさんは、そう言って目を覚ました。
そのとき革具屋の二階から上がった歓声は、通りの端まで届いていたに違いない。
◇◇◇
その晩、うちの店で快気祝いの宴を催すことになった。
言い出したのはガストンさんで、樽を転がしてきたのはマルタさんの旦那さんだった。
気がつけば下町住人の半分が店に詰めかけていた。
鍋は三つでも足りないくらいで、竈はもちろん休む暇もない。
兎と豚、根菜の山、それに、かご三つ分の焼きたてのパンが、店内に並ぶ。
おまけに、骨出汁の湯気と麦酒の匂いで、店じゅうがいっぱいになっていた。
「リゼットちゃん、今度うちの息子にも、あの粥を教えておくれ!」
「毒消しの嬢ちゃん、次はうちの婆さんの膝も頼むわ!」
「ちょっと皆さん、順番にお願いします!」
住人たちが騒ぐ中、トマさんはお母さんに泣きながら抱きしめられ、皿の粥が冷めるのも構わず笑っていた。
……本当は、わかっている。
私は、毒に勝ったわけじゃない。今回はトマさんが口にした量が少なかったおかげで、毒の効果が薄かったのだろう――おそらくは、それだけのことだ。あの「冷たい無味」を作った誰かは、まだ王都のどこかにいて、今もまだ眠ったままの人が、七人もいる。
……それでも。
湯気と匂いと笑い声でいっぱいの店内を見回していると、こう思わずにはいられない。
――守りたいものが、また増えたなあ、と。
「店主殿」
宴の隅、いつもの奥の席から、ジェラルド様がお椀を掲げた。
「俺は今後、この店の常連になろうと思うのだがどうだろう」
「え、もうなってらっしゃるのでは」
「確かにそうだが、そうではなく――」
彼は生真面目な顔のまま、言い直した。
「対策室の室長として通うのは、今日で終わりだ。明日からは――ただの一個人として、この店に通いたい」
……まったくこの人は。そんなことを、そんな顔で言われたら、私は――。
「では、ヴァルク様――いえ、ジェラルド様。ただの一個人であるあなたに、ひとつだけ」
私は新しいスープをお椀によそい、彼の前へ差し出した。
「ようこそ、毒消しの食堂へ」
◇◇◇
――同じ夜。王都の、どこか。
蝋燭がひとつだけ灯る暗い部屋で、その者は報告の手紙を読み終えようとしていた。
「……末端がひとつ潰れたか」
構わない、とその者は言った。
あれは種をまくための畑にすぎない。畑なら、他にもある。
「ルヴェルには、当面動くなと伝えろ」
新しく書いている手元の手紙には、紋の透かしが入っていた。
その指が、報告の一節を読んだところで、ふと止まる。
読み終えた手紙を、蝋燭の火にかざす。
「東三区、橙通り。毒消しの食堂……ふん」
燃えた紙の灰が、床へ落ちた。
「アメリーの血が戻ったか」




