第11話 お忍び客のご来店
宴から一夜明け、私は今――洗い物の山に追われていた。
何十と積み重なった皿にお椀、そして三つの大鍋が、視界をこれでもかと埋め尽くしている。
さらに店の外には、開店を待つ人影がすでに十人あまり。
トマさんの快気はひと晩で下町じゅうに広まったらしく、店を訪れる客足はさらに勢いを増している。
「姉ちゃん、この樽、返しに行かねえと!」
「マルタさんのご主人が取りに来てくださるそうよ。それより、水に浸しておいた豆を鍋に入れて」
「おう、任せとけ!」
ピノの返事が、今朝はやけに威勢がいい。こういうときのこの子は、大体直前に何かつまんでいたりする――ほらやっぱり。竈の脇に吊るしておいた腸詰めが一本足りなくなってる。
……育ち盛りだ。よしとしよう。
そして開店――と同時に、戸口が黒い影で塞がった。
「……入っていいか?」
「ええ、ちょうど店を開けるところです。どうぞ、ジェラルド様」
黒い制服ではなく、飾り気のない灰色の平服。腰に剣もない。それでも威圧感だけはいつもどおりで、縦にも横にも大きかった。
いつもの奥の席へ向かう広い背中に、続けて店に入ってきた職人さんたちのひそひそ声が飛ぶ。
「おい、あの旦那、今日は普段着だぞ」
「非番かね、師団長サマ」
「違えって。昨日言ってたろ。ありゃもう『ただの常連』サマよ」
昨夜の『一個人として通いたい』宣言は、今朝にはもう下町じゅうに広まっていたようだ。
ジェラルド様の耳が、心なしか赤くなっている。
「ご注文は?」
「……何でもいい」
はい、いつもの。
本日お出しできるいちばんおいしい料理は――昨夜の宴で仕込んだ骨出汁を使った、豚と豆の煮込みだ。じっくり煮出した出汁は味わい深く、豆は煮汁を吸ってふっくらと膨らみ、豚はスプーンの先を入れるだけでほろりと崩れる。
自分で作ってみて改めて思う。宴料理というものは、翌日の賄いまで含めてご馳走なのだ、と。
ジェラルド様はそれをひと口食べたところで、手が止まった。鉄色の目が、少しだけ細くなる。
今日もちゃんと、味を感じているらしい。長く失っていた味覚が、私の料理を食べている間だけでも戻ってくる。……なぜ私の料理だけなのか、その理由はまだ分からないけれど。
「――異常はないようだな」
「異常って……うちの煮込みまで検分されるのですか?」
「……すまん。いつもの癖でつい」
彼が『ただの常連』になれる日は、まだまだ遠いのかもしれない。
それから煮込みを三杯平らげると、ジェラルド様はいつもどおりきっちり銅貨を置いて、「これから仕事だ」と平服のまま出ていった。
◇◇◇
その日の昼、店内は戦場と化していた。
煮込みの鍋がひとつ空になり、ふたつ目の鍋も底が見え始めた。
ピノは客足の勢いについていくのがやっとのようで、途中、銅貨の勘定を三回も間違えかけ、そのたびに自分で気づいて訂正していた。
「聞いたかい、リゼットちゃん」
パンを届けに来たマルタさんが、声を潜めた――潜めているのにむしろ普段より声がよく通っている気がするから不思議だ。
「あんたの噂、丘の上まで届いているみたいだよ」
「丘の上?」
「貴族街さ。昨日の昼過ぎからね、身なりのいい使いの者が通りの入口をうろうろしてる。うちで黒パンなんか買ってさ、『毒消しの食堂とはどの店か』って聞いてくるんだよ」
鍋をかき混ぜる手が、一瞬だけ止まった。
貴族街。私が毒見役として四年を捧げ、手切れ金の銀貨三枚で放り出された世界。
二度と関わるまいと決めた場所から、今度は向こうが、こちらを覗きに来ているというのか。
「……ただの野次馬ならいいんですけどね」
「おや、浮かない顔だね」
「昔の勤め先を思い出しただけです。――あちらのお水は、私には少し合わなくて」
マルタさんはからからと笑って、焼きたてのパンをひとつカウンターに置いていった。
そうして時間は瞬く間に過ぎていき、気がつけばすでに日が暮れかけていた。
私は店仕舞いの前に、ピノを革具屋へ向かわせた。トマさんへ粥を差し入れるためだ。
ピノは程なく戻ってきて「もう普通に飯食ってた」と笑ってから、少しだけ声を落とした。
「……なあ、姉ちゃん。トマ兄ちゃんはもうなんともないみたいだけどさ。まだ寝たきりの人が、七人もいるんだよな」
「……ええ、そうね」
「姉ちゃんの飯でも、ダメなのか」
「私の料理では、あの毒は消せないの。私にできるのは精々、彼らの体がこれ以上弱ってしまわないよう、支えてあげることくらい。……悔しいけれど」
ピノは「ふうん」とだけ言って、それから妙に大人びた顔でうなずいた。
「じゃ、おれは残りの皿洗っとくな」
この子のこういうところに、私は毎度少しだけ救われている。
◇◇◇
その人は、閉店の札を出そうとした私の目の前に、音もなく立っていた。
身につけているのは上等な外套だが、家の紋章は見当たらない。フードの奥には結い上げた白髪が見え、何より目を引くのは、まっすぐに伸びた背筋だった。
――その佇まいは、私が四年間、嫌というほど見てきたものだ。
この人は、貴族だ。それも、かなり身分の高い老婦人と見える。
「もう店仕舞いかしら」
「あいにく、鍋が底を突いてしまいまして。……白湯くらいなら、お出しできますが」
「では、それをいただくわ」
老婦人は迷いなく店に入り、継ぎの当たった椅子に、まるで玉座にでも座るように堂々と腰を下ろした。
これほど身分の高そうな人が、供の者も連れず、たったひとりで日暮れの下町にいる――それだけで、ただごとではないと察する。
白湯を出すと、彼女はお椀を両手で包み、ひと口飲んだ。フードの下から、ほう、と小さなため息が漏れる。
「……アメリーの店は、白湯までおいしいのね」
思わず、胸がどきりとした。
「祖母をご存じなのですか」
「昔、少しだけね。橙通りの毒消しの評判は、丘の上まで届いていたのよ。……あなた、お孫さんでしょう。目元がそっくり」
そう言うと、老婦人はフードを下ろした。
品のいい灰色の目には、疲れが色濃く表れている――長いこと、眠れていない人の目だ。
「東三区の食堂が、寝たきりの子を目覚めさせたと聞いたわ」
「……その噂は、ずいぶん誇張が入っています。私が起こしたのではなく、あくまであの方の体が、毒に打ち勝ったのです」
「ふふ、正直ね。いいのよ、噂どおりでなくても。わずかでも望みがあるのなら、それでいいの」
白湯のお椀を包む細い指に、力がこもった。骨の浮いた指が、白くなるほどに。
「――お願い。孫を、助けてほしいの」




