第48話 聞こえない鈴
公爵家の関係者が出しているという妙な通達とやらについては、翌日になっても詳しいことはわからなかった。
「何らかの通達が出回ってるのは間違いないみたいだね。市場で顔の利く商人が二、三人ほど、急によそよそしくなったよ」
昼下がりに店へ来たマルタさんは、珍しく困った顔をしていた。
「どんな内容なのか聞いても、誰も口を割らないんだよ。悪い噂ならそのうち耳に入ってくるだろうけど、こうもそろって口をつぐまれると、なんだか気味が悪いねえ」
「そうですか……何かわかったら教えてください」
「もちろんさ。あ、お代はいらないからね」
マルタさんの軽口のおかげで、今日初めて笑うことができた。
何が起きているのかわからないのに、これ以上心配しても仕方がない。
私はいつもどおり仕込みを続け、少し多めに豆を水に浸けておいた。
◇◇◇
夜、店を閉めようとしていたところに、ジェラルド様がやってきた。
「いつもすまない。まだ大丈夫か?」
「ええ、もちろん。昨日はお見えになりませんでしたし、今日はいらっしゃるかと思って、多めに用意しておきました」
塩豚と豆の煮込みを温め、柔らかく煮た麦にかけてお出しした。昼から浸けておいた豆は柔らかく煮え、塩豚もスプーンでほぐれるほどだ。仕上げに日向草をひと摘み散らしてある。
ジェラルド様が食べ始めると、ピノが待ちきれない様子で話しかけた。
「だんな、聞いてくれよ。レミが丘の上のお屋敷で働くことになったんだぜ。エルミール家の料理長が、わざわざ誘いに来たんだ」
「……ふむ、なかなか腕の立つ男のようだな。それにエルミール家にいるのなら、必要なときに話も聞けそうだ」
「それにさ、あいつ、おれより年上なのに『ピノさん』って呼ぶんだぜ」
「そうか……気に入られたんだな」
「っ、まあな!」
……うれしそうなのはいいけれど、帳面をつける手は止めないでほしい。
なんて小言を飲み込みつつ、私はカウンターの下から、レミが置いていった香辛料の小袋を取り出した。
「これ、公爵家の厨房で使っていたという香辛料だそうです。仕入れ先が替わってから使い始めたそうで。昨日の朝、確かめてみましたが、毒も呪いもありませんでした。ただ、かなり質の悪い品のようです」
「公爵家が、そんなものを使っているのか」
「対策室でも調べてもらえますか?」
「ああ、預かろう」
ジェラルド様は小袋を懐にしまった。
――香りが一部だけ不自然に欠けていたことについても伝えるべきか迷ったものの、結局……話せなかった。以前の香り酒と何か関係があるのかもしれないけれど、決めつけてはいけないというジェラルド様の言葉が脳裏に浮かび、つい口をつぐんでしまった。
そして、まるで誤魔化すように、私は話を切り替えた。
「それから、マルタさんから聞いた話なのですが……」
公爵家の通達について伝えると、ジェラルド様は深くうなずいてくれた。
「対策室でも調べておこう。公爵家の名で出されたものなら、出どころは追えるはずだ」
それから、少し声を低くして言った。
「一度は手放した相手を、大金を積んでも呼び戻せなかったとなると……公爵家がこのまま黙っているとも思えん。用心しておくことだ」
◇◇◇
食事が進んだところで、ジェラルド様が仕事の話を切り出した。
「こちらからも、ひとつ報告がある。王都の貴族街の外れで、例の商会の帳簿を預かっていた男らしき人物が目撃されたそうだ」
私は思わず布巾を握り直した。
ゴーチェの手帳に名前があった商会――帳簿の焼け残りと灰だけを残して消えた、あの商会の関係者……。
「ただし、本人かどうかはまだわからん。引き続き調査を進める必要がある」
「わかりました。決めつけて行動するな、ですよね」
「そういうことだ。無理に結論づけてしまえば、本当に大事なものを見落としかねないからな」
それは私に向けてというよりは、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
ピノが、カウンターの下から『鈴の記録』を取り出す。
「こっちは最近、全然書くことがねえんだ。祭りの晩から一度も鈴が鳴ってないからな」
開かれたページには、〈聖印祭〉の初日の夜に三人が聞いた鈴の音と、その翌朝に見つけた冷たいお椀について書かれていて……それ以降は、空白のままだ。
ジェラルド様が、お椀の記録を指差して尋ねた。
「このお椀は、ちゃんと保管してあるか?」
「はい。布をかけて、棚の奥に仕舞ってあります」
ピノが、空白のページを見つめながら言う。
「でもさ、鈴が鳴らないのはいいことじゃねえのか?」
「まあ、それはそうなんだけど……」
私たちが〈聖印祭〉で屋台を出したあの晩から、まだ四日ほどしか経っていない。別に数日鳴らないくらいであれば不思議なことでもないのだろうけど……それでも、空白のページを見ていると、なんだか胸騒ぎがしてくる。
「もし、あの鈴を鳴らしている人が何かを探していたのだとしたら……見つかったから鳴らさなくなった、ということも考えられますよね?」
「それは俺も考えた。だから、見張りはこれからも続けなければならない」
ジェラルド様はそう答えたものの、表情は険しかった。
「ただ、鈴が鳴らない日が何日も続けば、見張りに割く人員も減らされるだろう。何も起こっていない以上、上を説得するのは難しいからな」
「そんな……それでは、何か起きてからでないと動けないじゃないですか」
「そのとおりだ。だから、減らされた分の穴は俺自身で埋めるつもりだ」
何でもないことのように言って、ジェラルド様は食事に戻った。
さらっととんでもないことを言われて、私はかける言葉が見つからず、しばらくその横顔を見つめていた。
そして最後のひと口を食べ終えると、彼はぽつりと言った。
「……今日は、いつもより味が濃く感じるな」
「味つけはいつもと同じですよ?」
「そうか。静かな夜だから、余計に味に敏感になっているのかもしれんな」
◇◇◇
帰り支度をする前に、ジェラルド様は二十年前の記録の写しを開き、ページをめくり始めた。
今回も、四十七人の名前が並んだ、例のページで手が止まる。
「……明日も来る」
「はい。鍋にはまだ、豆がたくさん残っていますので」
「なら、明日はもっと味が染みているな」
そう言って、ジェラルド様は夜道へと消えていった。
――彼はいつも、あの四十七人の名前を見て、何を考えているのだろう。
私はいまだに、それを尋ねる勇気が湧いてこず……結局、彼が角を曲がるまで、入口の灯りをつけたまま見送ることしかできなかった。
◇◇◇
――同じ夜、丘の上の白い屋敷では、家令のオーバンが主人の問いに答えていた。
それは、ここ数日、何度も繰り返してきたやり取りだった。
「……アルディ様は、お断りするとのことでございます」
家令の答えを聞き、その若い男は、苛立ちを滲ませた声で言った。
「金が足りなかったのだろう。……ならば、あの女に身の程を思い知らせてやる」




