第47話 呪いじゃない、けれど――
レミから預かった香辛料はひとまず置いておき、その日は体を休めることにした。
味の判断をするならなるべく万全の状態にしておきたかったし、何より疲れているであろうレミには一旦心身を落ち着ける時間が必要だと思ったからだ。
――そして次の日の朝、私は開店前のカウンターに、小袋の中身を少しだけ取り出した。
挽いた香辛料は見た目も悪くなく、鼻を近づければそれらしい香りがする。これだけでは問題があるように見えない。
レミは店の隅、たたんだ毛布の傍らから、不安そうにこちらを見ていた。
私は水で口をすすぎ、白湯に少量の香辛料を溶かして、一滴だけ舌に載せる。
「……なるほど」
毒の苦味も、呪いの冷たさもない。
ただ、埃っぽさと湿気た粉の味がする。別の安い粉でかさ増ししているらしく、香辛料そのものの風味も弱かった。
それに、もうひとつ気になることがある。
本来感じられるはずの香りが、一部だけ不自然に欠けているのだ。
以前、トマさんの眠り病を調べていたとき、南方の香辛料を使った香り酒を確かめたことがあった。あのお酒には、華やかな香辛料の味の中に、何の味もしない冷たい部分――「冷たい無味」があった。
ただ、今回はあの冷たさは感じられなかった。
香りが欠けているからといって、同じ原因によるものとは限らない。
それでも……この違和感は、覚えておいたほうがいい気がする。
「あ、あの……どう、でしたか?」
レミが、恐る恐る尋ねてきた。
「あなたの舌は正しかったみたいですよ。確かに変な味がします」
「や、やっぱり、呪い……」
「いいえ。少なくとも、この香辛料は呪われてなどいません」
「え……?」
「呪いの味なら、以前にも確かめたことがあるんですが、もっと冷たい味がするんです。これは――単に、質の悪い香辛料というだけですね」
私は、小袋を指差して言った。
「質の悪い香辛料なんて使っていれば、料理の味が落ちるのも当然でしょう。でも、ソレーヌ様――新しい奥様は料理が気に入らないと、作った人を替えさせるのでしょう? そんなことが続けば、材料に問題があると気づいても、怖くて言い出せなくなるのも無理はありません」
「じゃあ、あの厨房は……呪われてないんですか?」
「そこまではわかりません。ただ、この香辛料そのものは呪われてなんていません。料理の味がおかしいからといって、何もかも呪いのせいとは限らないんですよ」
レミはしばらく黙り、やがて大きく息を吐いた。
「おれ……何でも呪いのせいにしてました。変な味がするのも、料理を突き返されるのも、全部……」
「味がおかしいと気づけたのは、あなたの舌がちゃんと働いている証拠です。自信を持ってください」
香辛料の小袋は、ひとまず私が預かることにした。
朝食の雑炊をふたり分よそっていると、ピノが寝癖のついた頭のまま起きてきて、当然のような顔をしてレミの隣に座った。
結局、雑炊は三人分よそうことになった。
◇◇◇
朝食のあと、レミがお礼に菓子を焼きたいと言い出した。
店の竈を貸してあげると、彼は早速、粉をふるい始める。心なしか、体の動きが昨日よりも軽やかに見えた。
と、そこへ、マルタさんが顔を出してきた。彼女は竈の前に見慣れない若者が立っていることにすぐ気づき、目を丸くしていた。
彼が公爵家の厨房から逃げてきたことと、菓子作りが得意なことを話すと、マルタさんは何やら思いついた顔をした。
「菓子の腕がいいなら、あたしに任せときな」
そう言って、市場のほうへ急いだ様子で駆けていった。
そして昼前になり、店の入口に恰幅のいい男性が現れた。
「ごめんなさいよ。橙通りに腕のいい菓子焼きがいると聞きましてな」
買い物籠を提げていたのは、エルミール家の料理長だった。
「もしかしてマルタさんからお話を? マルタさん、わざわざ丘の上まで……」
「いえいえ。ちょうど買い出しで市場まで下りてきていたところ、そのマルタさんに呼び止められましてな」
さっきのマルタさんは、迷いなく市場へ一直線に向かっていた――もしかしてマルタさんは、その日誰がどこにいるのか、常に把握しているのだろうか……。
私は考えるのをやめて、料理長を店の厨房へと案内することにした。
そして焼き上がった菓子を差し出すと、料理長は早速ひとつ口に運び、ゆっくりと味わう。
それから、レミの手元を見て、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。焼き加減は見事ですな。少々慎重すぎるところはあるようだが、腕は確かだ」
「ほ、本当ですか……?」
「わしは味見をおろそかにはせん料理人ですぞ」
料理長はレミに向き直った。
「エルミール家へ来ませんかな? うちの厨房はちょうど竈がひとつ空いておるし、給金はきちんと払う。ただし、味見を怠ったら雷が落ちますぞ」
「は、はいっ! ぜひ、お願いします!」
レミは、何度も頭を下げながら言った。
それは昨日までとは違い、とても明るい返事だった。
「ピノさん、お世話になりました……!」
「だから『さん』はやめろって。……菓子、また持ってこいよな」
ピノはまたそっぽを向いたけれど、耳の先が赤くなっていた。
◇◇◇
「そうそう、もうひとつ」
帰り際、料理長が私を振り返って言った。
「うちの奥様が『そろそろ茶飲み話に来なさい』と仰せです。手ぶらでよいそうですが、『菓子くらい持ってくるのが礼儀』とも」
「……結局、どちらなんでしょう?」
「両方ですな」
いかにもコンスタンス様らしい物言いだ。
思わず笑ったところで、料理長が声を落とした。
「ああ、それと。市場で聞いた話ですが、公爵家の関係者が何やら妙な通達を出して回っているそうです。詳しくはわかりませんが……お気をつけなさい」
そして料理長は、今度こそレミを伴って、店を後にした。
ふたりの姿が角を曲がって見えなくなったところで、私は丘の方角に広がる空を見上げた。
――妙な通達、か。
あの屋敷の厨房で起きていることと、何も関係がなければいいのだけれど。




