第46話 公爵家から逃げてきた見習い
昨夜食べた焼き菓子のことが、朝になっても気がかりだった。
気になるのは味そのものより、菓子を焼いた料理人のことだ。その人は今朝も息苦しいあの厨房で、誰かの顔色をうかがいながら竈の前に立っているのだろうか。
昼下がり、マルタさんがまた公爵家の噂を持って店にやってきた。
「昨日話した、辞めた料理人ってのはね、料理長だったんだよ。これで三人目だそうだ。今度の人は十日も持たなかったって」
「十日、ですか」
「お屋敷の厨房ってのは、そんなに居心地が悪いもんかねえ」
悪いですよ、と答えかけて、私は口をつぐんだ。
昨夜の焼き菓子から感じた怯えと、十日で辞めたというその料理長――無関係とは、思えなかった。
◇◇◇
その日の夕食の仕込みをしていると、ピノが裏口から顔を出してきた。
「姉ちゃん。店の前に変なやつがいる」
「変な人?」
「さっきから何回も入口まで来ちゃ引き返してるんだ。ありゃきっと腹が減ってるんだぜ。おれにはわかる」
得意げに言うピノに呆れつつ、店の前をのぞいてみると――。
そこには、継ぎだらけの上着に大きな荷袋を背負った若い男が、看板を見上げたまま扉の前で足を止めていた。
私はその顔に、見覚えがあった。
「……レミ?」
若い男がびくりと肩を震わせた。
――男の名はレミ。公爵家の厨房で竈の火の番をしていた見習いで、私が嫁いだ頃は、まだ幼さの残る子供だった。
「おく……奥様」
「もう奥様ではありませんよ。リゼットと呼んでください。それより、中に入りなさい。店の前で行き倒れられたら、看板に傷がつきますから」
「り、リゼット様……す、すみません!」
レミは何度も謝りながら店に入ってきた。
◇◇◇
私はまかないの残りに麦を足し、雑炊を作ってあげた。骨出汁に日向草をひと摘み加え、柔らかく煮た麦に兎の端肉を載せて出す。
レミはスプーンを握ったまま、お椀から立つ湯気を見つめていた。
「冷めてしまいますよ」
「は、はい。いただきます、はい」
ひと口食べて手を止めたかと思うと、今度は夢中で食べ始めた。荷袋を背負ったままのその肩が、少しずつ震え始める。
「……うまい、です。あったかいもの、久しぶりで……すみません」
すぐ謝る癖は直したほうがいい――と小言を言いたくなったけれど、今はやめておこう。
レミはお椀を空にするや、詳しい話を聞かせてくれた。
彼は今朝、屋敷を出てきたらしい。二ヶ月前から給金の支払いは滞り、仕入れ先は聞いたことのない安売りの店に替わったそうだ。今では、食卓から料理をしょっちゅう突き返され、そのたびに厨房中が凍りつくのだという。
「新しい奥様が……気に入らない料理があると、作った人を替えさせるんです。誰が作ったのかって聞かれて、呼び出されたきり戻らなかった人もいて……」
ソレーヌ様のことだ。料理を作った人のことなど、少しも考えようとしない――あの人らしいやり方だった。
「最近は、味がおかしいとすぐに毒だって騒ぐんです。銀器だの検査紙だのって……料理長も三人替わって……。みんな言ってます、あの厨房は呪われてるって」
呪い……か。
一瞬気にはなったけれど、少なくとも昨夜確かめた焼き菓子からは、呪いの冷たさは感じなかった。
「レミ」
私はカウンターの下から、焼き菓子の残りを包んだ紙包みを取り出した。
それを見た途端、レミの顔色が変わった。
「もしかして、これを焼いたのはあなた?」
「……はい。家令様に、お使いの菓子を焼けと言われて……。奥様の、いえ、リゼット様のお店に行くって聞いたから、おれ……。菓子だけは婆ちゃんに教わってて……まずかった、ですか」
「いいえ。とても上手に焼けています」
レミは驚いたように顔を上げた。
「焼き加減も香りも申し分ありません。ただ、せっかくの甘さがすぐに消えてしまうんです。……これ、叱られながら焼いたのではないですか?」
「え……なんで、わかるんですか?」
「それはまあ……食堂の店主ですから。もっと心を落ち着けて焼けるようになれば、きっとさらにおいしくなりますよ」
私が味を検分していた頃は、食卓から料理を突き返されることなどなかった。元からそんなに気楽な仕事ではなかったけれど……今はさらにひどいことになっているらしい。
「――レミ。これから行くあてはあるんですか?」
「……ないです、はい」
……そんな素直に答えられても困る。
行くあてもないのに、そんなに大きな荷袋を抱えて、いったいどうするつもりだったのやら。
「……わかりました。これからのことは店を閉めてから考えましょう。それまでは、ここで休んでいてください」
「は、はい! ありがとうございます、奥……リゼット様!」
◇◇◇
夕食時になって店が混み始めたので、レミには奥の隅の席へ移ってもらった。
「ピノ、レミに二杯目をお願い」
「わかった!」
ピノがお椀を運んでくると、レミは慌てて頭を下げた。
「す、すみません、こんなにごちそうになって……。おれも何か手伝いを……」
「まずは腹いっぱい食えよ。まだ顔色が悪いぜ」
「は、はい。ありがとうございます、ピノさん!」
「さん、はやめろよ。調子が狂うだろ」
ピノは照れくさそうにそっぽを向いた。丁寧に礼を言われるのには慣れていないらしい。
二杯目を食べ終えたレミは、荷袋を抱えたまま壁にもたれて眠ってしまった。朝から歩き回って、よほど疲れていたのだろう。
店が落ち着いてきた頃、扉が開いて夜風が吹き込んできた。
振り向くと、ジェラルド様が立っていた。相変わらず足音の静かな方だ。
「……まだ、間に合うか?」
「ジェラルド様のお席なら、いつでも空けてありますよ」
ジェラルド様はいつもの席に座り、煮込みを受け取ると、隅で眠るレミに目を向けた。
「あの寝ている者は……客か?」
「公爵家の厨房にいた子です。今朝、屋敷を出てきたそうで」
ついでに、昨日の出来事も手短に話した。公爵家の使いが来て、料理人頭と味の検分役を兼ねる仕事を月に銀貨二十枚で持ちかけられ、丁重にお断りしたことを。
ジェラルド様は黙って聞いていたが、話し終えると、その鉄色の目が険しくなった。
「……勝手な都合で追い出しておいて、今度は金で釣って呼び戻そうというわけか」
「ええ。まったく、失礼な話です」
「……なんだか楽しそうだな」
私が大して怒っていないとわかって照れくさくなったのか、ジェラルド様は口を閉じ、静かにスプーンを動かし始めた。
それから、もう一度レミに目を向ける。
「で、その公爵家の厨房から、逃げてきたと」
「はい。行くあてもないそうなので、今は休んでもらっています」
「……そうか。公爵家の内側の話は、対策室としても聞いておきたいが……今夜はこのまま寝かせておくのがいいだろう」
ジェラルド様は食事を終えると、短く礼を言って夜の通りへ出ていった。
◇◇◇
閉店後、ピノに声をかけられて目を覚ましたレミは、慌てて立ち上がった。
「す、すみません。片付けも手伝わずに、こんな時間まで……」
「気にしないで。今日はずいぶん疲れていたようですし」
すると、レミは何かを思い出したように荷袋の底を探り始めた。
「あの……リゼット様。ひとつだけ、見てほしいものがあるんです」
取り出したのは、布で何重にも包んだ香辛料の小袋だった。
「新しい仕入れ先の品です。屋敷の厨房で使ってたやつで……。おれ、これ、変な味がすると思うんです。おれにもわかるくらい。でも、みんな気のせいだって……。リゼット様のお店、毒消しの食堂って聞いたから……もし、呪いなら……」
レミの声が小さくなった。
「呪いなら――リゼット様の舌で、確かめられませんか?」




