第45話 お迎えには及びません
馬車の扉が開くのを見て、私は思わずお玉を握り直した。
降りてきた男の人は元旦那様ではなく、白い手袋に黒い上着をまとった白髪の家令だった。丘の上にいた四年間、あの白い屋敷の玄関で毎朝顔を合わせていた人だ。
「お久しぶりでございます、奥さ――」
家令はそこで言葉を切った。
「……アルディ様」
四年間、毎日のように聞いた呼び名――それを言い直すまでのわずかな間に、私はもうあの家の人間ではないのだと実感した。
「オーバンさん。お久しぶりです」
店の中は静まり返っていた。マルタさんは話を途中で止めたまま固まっており、ピノは帳面を抱えて私と家令を見比べている。早めの夕食をとっていたガストンさんも、スプーンを持つ手を止めていた。
オーバンさんは入口で一礼して店に入り、近くのテーブルに紙包みを置いた。
「ささやかですが、手土産でございます。本日は旦那様のお使いで参りました」
「どのようなご用件でしょうか?」
「率直に申し上げます。旦那様はアルディ様に、屋敷へ戻っていただきたいとお考えです」
「はあ!?」
ピノが声を上げた。
「ただし、奥方としてではございません」
オーバンさんは表情を変えずに続けた。
「料理人頭と味の検分役を兼ねるお役目です。住み込みで、お手当は月に銀貨二十枚。家中の者も皆、アルディ様が果たしてくださっていた『お役目』を、今も惜しんでおります」
銀貨二十枚――下町の職人ならひとり当たり半年は暮らせる額だ。ガストンさんもその額を聞いて、口をあんぐりと開けて固まっている。
しかし、お役目、か……惜しまれているのは私自身ではなく、四年間続けてきた仕事のほうというわけだ。そこは相変わらず、正直な家だなあと思う。
「光栄なお話ですね。四年間勤めた厨房に戻れるばかりか、今度はお給金までいただけるなんて」
私はお玉を置き、エプロンで手を拭いた。
「……離縁のときの手切れ金は、銀貨三枚でしたのに」
オーバンさんの白い手袋の指先が、わずかに動く。それでも彼は姿勢を崩さずに言った。
「私どもは、旦那様のお言葉をお伝えしただけでございます」
「では、私も率直なお返事をさせていただきますね」
ひとつ息を吸った。ジェラルド様に同じ言葉を告げたときよりも、今は不思議と落ち着いていた。
「お断りします。私はもう二度と、貴族にはお仕えしません」
オーバンさんはそれ以上説得してこようとはせず、ただ深く、一礼をする。長く人に仕えてきた人らしい、きれいな礼だった。
「承知いたしました。旦那様には、そのようにお伝えいたします」
顔を上げると、彼は店の中をゆっくりと見回した。
鍋から立つ湯気、壁に貼った献立、継ぎの当たった上着で食事をしている常連さんたち――ひとつずつ目を向けていたけれど、決して見下すような様子はなかった。
「――良いお店でございますね」
そう言い残し、オーバンさんは馬車に戻っていった。
◇◇◇
馬車の音が角の向こうへ消えるより先に、店の中は大騒ぎになった。
「追い返しちまっていいのかよ、嬢ちゃん! 銀貨二十枚だぞ!?」
「姉ちゃんはこの店でちゃんと稼げてるからいいんだよ。昨日なんか、売上が箱ふたつ分もあったんだぜ!」
興奮して声を荒げるガストンさんに、ピノは得意げに胸を張って言った。うちの帳簿係はずいぶん頼もしくなったようだけれど、月のお給金とお祭り一日分の売上を比べるのは、少し違うんじゃないかしら……。
そこへ、マルタさんが身を乗り出してきた。
「あたしがさっき言いかけたのは、まさに今の話さ。厨房が回らないって話が、リゼットちゃんを連れ戻すって話にまで広がってたんだよ」
マルタさんは肩をすくめた。
「あたしが噂を話し終えるよりも早く馬車が来るなんて、よっぽど困ってるんだろうさ」
「厨房が回らないというのは、本当なんでしょうね」
「本当も本当。さっき話した野菜売りが言うには、料理人が次々に辞めて、残った人たちだけじゃ明らかに手が回ってないんだってさ」
「それで、銀貨二十枚、ですか」
「別にあんた自身の値打ちってわけじゃないよ、リゼットちゃん。とにかく誰でもいいからすぐに助けてくれってことだろうね――って、これじゃ余計にリゼットちゃんに失礼か」
私は思わず吹き出してしまいながら、鍋の火加減を確かめた。
その後も店は普段どおりだった。兎と香草の煮込みは、肉が骨からほろりと外れるまで煮えて、夕食の時間が終わる頃にはすっかり売り切れた。ガストンさんもいつものように追い麦を頼み、汁の一滴まで残さず平らげていった。
いつもどおりの夜が、今日はいつにも増してありがたかった。
◇◇◇
閉店後、灯りをひとつ残した店内で、私はオーバンさんが置いていった紙包みと向き合った。
あの屋敷からの手土産――捨ててしまってもよかったのだけれど、確かめもせず棚にしまっておく気にもなれなかった。
包みを開くと、焼き菓子がきれいに並んでいた。バターと蜂蜜の甘い香りがする。
水で口をすすいでから、端を小さく割って、ひとかけらだけ舌に載せた。
毒の苦味も、悪意の濁りもない。そこにあったのは、菓子本来の甘さだけ。
けれど、その甘さは一瞬口内に広がったかと思うと、すぐにふっと引いてしまった。
砂糖は足りているし、焼き加減も申し分ない。腕のいい人が焼いたのだろう。作り手の温かさも、かすかに感じられる。
だというのに、その温かさは、誰かの顔色をうかがうように口の中からあっさり消えてしまった。
四年間勤めた、あの屋敷の厨房を思い出す。あそこは広く、道具も立派だった。それなのに、食卓から皿が下げられて戻ってくるたび、厨房にいる皆が息を詰めていた。
私がいた頃でさえそうだったのだ。今の厨房でなら、蜂蜜の菓子さえこんな味になるのかもしれない。
「……このお菓子、叱られながら焼いた味がするわね」
誰に言うでもなくつぶやき、私は残りを紙に包み直した。
公爵家の厨房で、今、何が起きているのだろうか。




