第44話 戻ってきたお椀
次の日の朝、通りは昨夜のにぎわいが嘘のように静かだった。
私は静寂に包まれた通りを眺めながら、花の蜜を焦がしたような甘い匂いを思い出していた。
あの匂いが、鈴の音と何か関係しているのか……それは、今もわからないままだ。
当然気にはなるけれど、店の仕事が残っている以上、考えてばかりもいられない。
「発表! 昨日の売上は、箱ふたつに硬貨がぎっしり!」
ピノが帳面を広げ、得意げに胸を張った。
「枚数もちゃんと数えたし、貸したお椀も全部戻ってきた。オディルさんに払う腸詰の代金も計算済みだ!」
「ありがとう。見張りを引き受けてくれた三人にも、改めてお礼をしなくちゃね」
ピノが真剣な顔で帳面に昨日の売上を書き足している。屋台を手伝ったことで、仕事への自信はさらについたようだった。
帳面の確認が済むと、昨夜持ち帰ったお椀を洗い場へ運んだ。店仕舞いの間際に返ってきた分は、そのまま持ち帰っていたのだ。
念のため、お椀を洗う前に、ひとつずつ縁を舌で確かめておく。
豆と塩豚、それに腸詰の味がわずかに残っている……しばらくは、そんな当たり前の味だけしか感じられなかった。
けれど、七つ目のお椀に舌先を触れた瞬間、私は思わず手を止めてしまった。
――冷たい。
ガストンさんの肩に残っていた呪いのような、古く深い冷たさではない。もっと浅く、最近ついたばかりのような冷たさだった。
「……どうしたの、姉ちゃん?」
「ピノ、このお椀にだけは触らないで。それから、他の誰も触らないように見張っておいて」
「わ、わかった」
昨日、お客さんに渡したお椀がすべて戻ってきたのは確かだ。
けれど、お椀替えの間に誰が手にしたのか、いつこの気配が残ったのかはわからない。
以前、ユスティーヌさんが話してくれたこと――お椀を渡してきた相手の手が、ひどく冷たかった――という話を思い出す。今回の件と、何か関係があるのだろうか。
私はお椀に布をかけて誰の目にも触れぬよう隔離してから、残りのお椀を洗い、店を開けた。
◇◇◇
朝、最初にやってきたのは、大きな包みを抱えたオディルさんだった。
オディルさんは、包みをカウンターに置くと、照れくさそうに言った。
「ほら、腸詰。売れ残りじゃないよ、とっておきの分さ」
「ありがとうございます。すみません、こんなによくしてもらって」
「いいってことだよ。あんたにはうちの味を皆に届けてもらったからね。ああ、それと……」
そこまで言ってから少し口ごもり、そっぽを向きながら続ける。
「来年も、あの大鍋を出しな。腸詰はうちで用意するからさ」
「――っ、はい! またよろしくお願いします」
「勘違いするんじゃないよ。商売の話だからね!」
そう言ってオディルさんは、足早に帰っていく。
私はピノと並んで、その背中を笑顔で見送った。
◇◇◇
昼前には、マルタさんが店に顔を出した。
「これまで祭りのたびに戸を閉めてた家が、昨日の晩は五軒も開いてたんだ。アメリーさんの大鍋が帰ってきたんだって、みんな喜んでたよ」
その話を聞いて、私はとても誇らしい気持ちになった。
祖母がやめた大鍋を、今年は私の手で蘇らせることができたのだ。もちろん、何もかも昔のまま元どおりというわけではないけれど……それでも、大鍋がきっかけで外に出られたという人がいたのは、それだけで喜ばしいことだった。
それから昼過ぎにはセヴランが来て、いつもの席で煮込みを注文した。
「昨日、薬事ギルドが屋台を検分した際は『異状なし』だったそうだな」
「ええ。でも、そのあと鈴のことで騒ぎになってしまって……」
「ああ、何やら対策室が騒いでいたな。だがまあ、屋台のほうは無事成果を上げられたのだろう? よかったではないか」
それだけ言って、セヴランはきっかり銅貨二十枚をテーブルに置いた。
「引き続き監視は続ける。ではまたな」
相変わらず不愛想な人だったけれど、彼の態度を見る限り、少なくともギルドは屋台のほうを何も問題視していないようで、少し安心した。
◇◇◇
昼下がり、ジェラルド様が店にやってきた。徹夜で見回りを続けていたらしく、目の下には疲れが見えていた。
昨夜のうちに鍋から取り分けておいた煮込みを温め直して持っていくと、彼は早速ひと匙口に運んだ。
「……昨日より、味が染みているな」
「一晩置いたおかげで、豆に塩豚と腸詰の味がよく染み込んでいるのでしょうね。おいしいですか?」
「ああ。うまい」
その、ただ素直な返事が、私にはとてもうれしかった。
けれど、食べ終わるころには、話は昨夜の鈴の件へと戻ってしまった。
「隊員の報告は今朝までに出そろった。引き続き出入口を見張らせていたが、それらしい人物は見つかっていないそうだ」
「……ジェラルド様。実は、お見せしたいものがあるんです」
私は、布をかけておいた例のお椀を持ってきた。
「昨夜、うちの屋台で使ったお椀です。今朝、縁を舌で確かめたところ……呪いに似た冷たさが残っていました」
「呪いに似た、冷たさ? 昨夜は冷え込んだからな。客が冷えた手で持っていたからではないのか?」
「手で触れて感じる冷たさとは違います。舌で感じる、呪いの冷たさです。ただ、以前ガストンさんの肩に残っていた呪いの残滓とはまた違って……とても、浅い冷たさだったんです」
ジェラルド様は布をめくり、しばらくお椀を見つめた。
「誰が使ったお椀かわかるか?」
「いえ、そこまでは……。ただ、ユスティーヌさんが以前、手の冷たい相手からお椀を渡されたと話していたことを思い出したこともあって、なおさら気になって……」
「ふむ……このお椀を使った者とその何者かが同じ人物とは限らんが、何かの手がかりにはなるかもしれん。洗わずに保管しておいてくれ。記録にも残しておこう」
「はい」
うちの店の屋台は昨日限りだったけれど、それでもまだできることはあるはずだ。
私はピノを呼び、『鈴の記録』に、冷たさの残るお椀のことも書いてもらった。
ジェラルド様は、持参した二十年前の記録の写しを広げ、当時倒れた四十七人の名前が並ぶページに目を落とした。
その名前をひとつずつ追う横顔を見て、何を確かめているのか尋ねたかったけれど……その鬼気迫る表情を前にして、結局、何も言い出せず――。
私にできたことは、少し熱めの白湯を出すことくらいだった。
◇◇◇
その日の夕方、マルタさんがまた店にやってきた。
「聞いたかい? あの公爵家で、また料理人が辞めたそうだよ。厨房が回らないって、屋敷を出入りしてる野菜売りがぼやいてた」
「……そうなんですか」
私が離れたあと、あの屋敷の厨房はうまくいっていないらしい。
まあ、今も当然戻るつもりなんてないので、気にかける義理などないのだけど。
「それがね、リゼットちゃん。その話が妙なところまで広まってるみたいで――」
マルタさんの言葉が、途中で止まった。
不思議に思って彼女のほうを見やると、その視線が――私の背後にある窓に向けられていた。
振り返ると、通りの向こうから黒塗りの馬車が近づいてくるのが見えた。〈聖印祭〉の飾りに彩られた下町には似つかわしくない、立派な馬車だった。
扉に描かれた紋章を見て、息が止まりそうになる。
丘の上で過ごした四年間、毎朝見上げていた、白い屋敷の紋章だ。
馬車は速度を落とし、店の前で止まった。




