第42話 宵の大鍋
祭壇から十分離れた、場所割りどおりの区画に大鍋を据えた。
ガストンさんが組んだ台はびくともせず、隣の屋台ではオディルさんが腸詰を焼く支度をしている。ピノは硬貨を入れる木箱を台に置くと、『毒消しの食堂』と書かれた布を屋台に掲げた。いつもの店の名前が、こうして祭りの通りに並ぶのは、なんだか不思議な気分だ。
お客さんに並んでもらう場所は、オディルさんと相談したとおりに空けてある。お椀の洗い場も用意し、煮込みを温めながら〈聖印祭〉の始まりを待った。
うちの屋台を出すのは、初日の今夜だけだ。ガストンさんや見張りの三人に、三晩も付き合ってもらうわけにはいかない。
鍋が温まったころ、薬事ギルドが検分にやって来た。先頭に立っているのは、副支部長のドマール本人だ。帳簿をめくり、お椀をひとつずつ裏返し、竈の火を覗き込んでいく。私は手を止めずに、その様子を眺めていた。
「……火の元には、くれぐれもご注意を」
それだけ言って、ドマールは一杯も頼まずに帰っていった。見るべきものは見て、指摘すべきところは特段なかったのだろう。
日が傾くにつれて通りには人が増えていき、焼き栗や甘く煮た木の実の匂いが漂ってきた。どこからか笛を練習する音も聞こえてくる。
やがて、大聖堂の鐘が鳴り始めた。七つ目の鐘が鳴り終わるころ、通りの祭壇に次々と灯がともる。教えられたとおり、灯を入れている間はガストンさんが鍋の火を弱めてくれた。祭りの始まりを告げる〈灯入れ〉に、人々から歓声が上がる。
「――さあ、火を戻しましょう。『毒消しの食堂』出張屋台の、開店です」
◇◇◇
最初に鍋の前へ来たのは、見張りの持ち場へ向かう途中のトマさんとユスティーヌさんだった。ふたりとは、見張りにつく前に食事を済ませてもらう約束をしていた。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
私がよそった煮込みを、ふたりは屋台の脇で食べ始めた。豆と塩豚にオディルさんの腸詰が加わり、いつもの鍋より香りも豊かになっている。
ふたりそろって食べ終えたところで、ユスティーヌさんのほうからトマさんに声をかけた。
「ねえ、トマの坊や。あたしとお椀を替えてくれるかい」
トマさんの表情が一瞬こわばった。お椀替えと聞いて、二十年前の事件のことが頭をよぎったのだろう。
けれど、お互いの手元のお椀はもう空であり、トマさんはそれを見て、照れくさそうに笑った。
「……いいぜ。さっきまでうまい煮込み入ってた、上等なお椀だ」
「おや、奇遇だね。あたしのお椀もなかなかのもんだよ」
ふたりは空のお椀を交換し、そろって洗い場へ返してくれた。次に誰かが使うときには、洗って確かめてから、私が新しく料理をよそう。それがうちの屋台の、今年からのやり方だ。
「これなら、誰がよそったかわからない料理を食べずに済むね」
ユスティーヌさんの言葉に、トマさんもうなずいた。
ふたりはそれぞれ市場の入口と橙通りの入口へ向かい、鈴の見張りについた。リュカ様は今ごろ、丘へ続く坂のふもとに立っているはずだ。
そのあとは、次から次へとお客さんがやってきた。
「うまい腸詰ならこっちへ来な! 焼きたても、鍋に入ったのもあるよ!」
隣からオディルさんの威勢のいい声が聞こえる。私は鍋から一杯ずつよそい、お客さんには屋台のそばで食べてもらった。お椀替えをした人には、空のお椀を洗い場へ戻してもらう。
「姉ちゃん、箱が硬貨でいっぱいになってきた!」
「それは結構。数え間違いだけはしないようにね」
「もっと自分とこの帳簿係を信用してくれよ!」
そんなやり取りをしていると、小さな子供が、背伸びをして台の上に硬貨を置いてきた。けれど、私はそれを受け取らなかった。
「子供は無料です。祖母の代から、そういう決まりですので」
「帳簿係としては異議あり! ……いや、やっぱりなし! おれだって店の手伝いじゃなけりゃ、無料でもらう側だもんな!」
見回りの途中で立ち寄ったアンセルム助祭にも、一杯食べていただいた。彼はひと口すすったあと、しばらく黙っていたかと思うと、静かに言った。
「……味はもう思い出せないはずなのに、懐かしい気がします」
「なんといっても、祖母が出していた祭り鍋ですから。そう思っていただけたなら、うれしいです」
◇◇◇
しばらくすると、人波の向こうから年配の人たちが連れ立ってやってきた。先頭にいるのは、桶屋の老主人だ。後ろにも見覚えのある顔が並んでいる。老主人と同じように、二十年前の事件以降、〈聖印祭〉のたびに戸を閉めきっていた人たちなのだろう。
「並んでみてもいいと言ったからにはな……わしが先にいただこう」
「いらっしゃいませ。熱いので、ゆっくり召し上がってください」
私がよそうところを見届けてから、老主人はお椀を受け取り、ひと匙口に運んだ。
「……ああ、懐かしい味だ」
後ろにいた誰かが「アメリーさんの鍋だね」とつぶやいた。皆、それ以上は何も言わず、温かな煮込みを食べ始める。
お客さんの列が落ち着いたころ、オディルさんが鉄板の火を弱めてこちらにやって来た。
「あたしにも、一杯くれないかい?」
「もちろんです。どうぞ、こちらで召し上がってください」
私がよそったお椀を受け取り、オディルさんはひと口食べた。
それから、祭壇の灯を見つめてつぶやく。
「……あの人にも、食わせてやりたかったね」
その目元には、涙が浮かんでいた。
けれど、私が何か言う前に、彼女はお椀を置いて鉄板のほうへ戻っていく。
「ほら、腸詰が焼けたよ! さあそこの人たち、並んだ並んだ!」
私は何も言わず、その背中を見送った。
◇◇◇
少し客足が途切れたところで、屋台の端に黒い外套の人影が立っていることに気づいた。
人波を警戒するように見渡しているのは――ジェラルド様だった。
「一杯いかがですか? 鍋の前に特等席を用意していますよ」
「……勤務中だ」
「でしたら、なおさらお腹が空いたのではありませんか? 腹ごしらえも仕事のうちですよ」
私がその場で一杯よそうと、ジェラルド様は少し迷ってから、そっとお椀を受け取った。
「祭りの食い物を口にするのは初めてだ。子供の頃から、こういうのには縁がなくてな」
「では、うちの鍋が最初のお祭り食なんですね。お気に召すといいのですが」
ジェラルド様はひと口食べ、しばらくお椀の中を見つめた。
「……うまい。これが俺の……初めての祭りの味か」
それから、今度はゆっくりとふた口目を運ぶ。
「お隣さんの腸詰も入っているんですよ」
「……そうか。燻した香りがすると思った」
「お代わりもありますので」
「……見張りの様子を確かめてからだ」
「では、戻られたときに是非。また温かいものをお出ししますね」
と、そのとき、見回りの隊員がふたり、別々の方角から駆け込んできた。
「市場の入口で、トマさんが鈴を聞いたそうです!」
「橙通りの入口でも! 鈴が鳴ったと、ユスティーヌさんが!」
私は思わずジェラルド様と顔を見合わせた。
――鈴が、鳴ったのだ。




