第40話 隣の腸詰屋はお椀が憎い
その日は、朝から下町の掲示板の前に人だかりができていた。
八日後に〈聖印祭〉が迫った今日このとき、掲示板には、屋台の場所割りが貼り出されていたのだ。
「姉ちゃん、場所割りが出たぜ! うちの店は橙通りの真ん中――祭壇のすぐ先だってさ!」
掲示板から駆け戻ってきたピノと一緒に、早速その場所を見に向かった。
祭壇の骨組みから私たちの区画までは、屋台がもうひとつ収まりそうな空間があった。
「これなら、アンセルム助祭に言われたとおり十分離れているから問題なさそうね」
「で、うちの隣は……『腸詰屋』かあ」
その腸詰屋は、市場の中ほどに屋台を出していた。足を運んでみると、長年使い込まれて角の丸くなった台に、よく磨かれた鉄板、燻した木のいい匂い。どれにも、積み重ねてきた年月の重さがあった。
「ごめんください。〈聖印祭〉でお隣に大鍋を出すことになりました、毒消しの食堂の――」
「知ってるよ」
台の奥から出てきたのは、恰幅のいい女主人だった。腕は太く、目つきは鋭い。
「アメリーの孫だろ。あんたんとこの噂は、もう嫌ってほど聞いてる」
値踏みするような視線が、私の頭から爪先までを一往復した。
「悪いことは言わないよ。――祭りに鍋なんか、出すもんじゃない」
隣でピノが口を尖らせて、何か言い返しかける。私はその肩を押さえ、頭だけ下げて屋台を離れた。相手の事情も知らずに、頭ごなしに喧嘩をするのはよくない。
取りつく島もない、とはこのことだったけれど……。
あの目つき――ただ意地悪を言っているだけには、とても見えなかった。
◇◇◇
「ああ、そりゃオディルさんだろう。……あの人はね、あの祭りの晩にご主人を亡くしているんだよ」
昼に店へ戻ると、マルタさんが詳しい話を聞かせてくれた。
お椀替えから帰ってきたご主人は、屋台を畳んで戻った先で倒れたまま、二度と目を覚まさなかったのだという。オディルさんはそれ以来、ご主人の腸詰の屋台をひとりで守り続けている。
「祭りで出す食べ物を忌み嫌ってる一方で、祭りで出す食べ物で食い扶持を稼いでるってんだから……皮肉な話だよ」
噂話を口にするときはいつも楽しそうなマルタさんだけれど、このときは、声が少しだけ低くなっていた。
お祭りが近づくと戸を閉めきってしまう人たちも、オディルさんのように屋台を出し続けている人も、二十年前のお祭りの晩から、まだ抜け出せないままなのだ。
祖母の大鍋を再開すると決めたときの私は、その決断の意味が持つ本当の重さを、まだ半分も知らなかったのだと、今になって思い知らされたのだった。
◇◇◇
夕方の仕込みの前に、私はもう一度、オディルさんの屋台を訪れた。
「腸詰を三本ください」
「……買ってどうするんだい」
「うちの店の鍋に入れてみようと思って」
そうして持ち帰った腸詰は、切り口から透きとおった脂がじゅわりと滲み出る上物だった。それだけで、オディルさんの屋台の仕事ぶりがわかる。長い年月、一日も手を抜かずに作り続けてきたからこその品質だ。
輪切りにして、豆と塩豚の祭り鍋に沈める。しばらく煮ると皮がパツンと張って、燻した香りが汁に溶け出した。豆が脂を吸って、つやつやと照りを帯びていく。
味見をしたピノが、スプーンをくわえたまま固まった。
「……なんだこれ。口の中で、もう祭りが始まってるみたいだ」
私はその鍋を抱えて、さらにまたオディルさんの屋台へ向かった。
「味を見ていただけませんか。あなたの腸詰をうちの店の鍋に入れてみたんですけど――〈聖印祭〉では、お隣同士で合わせて売れたらと思って」
「……あんたもしつこいね」
「すみません。でも、どうしても食べていただきたくて」
オディルさんは舌打ちをしつつも、ちゃんとお椀を受け取ってくれた。
お椀から立ち上る湯気を睨み、スプーンですくった腸詰の輪切りをしばらく眺める。その目つきからは、職人特有の鋭い気配が滲み出ていた。
そしてひと口食べて――スプーンを持つ手が止まる。
それから、ふた口、三口と続けて口に運ぶ。
「……うちの人の腸詰は、もっとうまかったよ」
そう言いながら、お椀はすでに空になっていた。
「あんた、知ってて来てるんだろ。うちの人のこと」
「はい」
空になったお椀を睨んで、オディルさんは低い声で言った。
「あの晩、うちの人にお椀を渡した誰か――あたしはずっとそいつを憎んでる。顔も名前も知らない、今も生きているのかすらわからない、そんなやつを、だよ。……わかるかい? 恨むべき相手がいるのは間違いないのに、誰を恨んでいいのか皆目見当もつかない……そのせいであたしは、もうずっと、この恨みを捨てられずにいるんだ」
私は、何も言えなかった。
「だから祭りで出されるお椀ってやつが、とにかく憎くてね。あの人の屋台がなかったら、祭りに顔を出す気なんざさらさらなかったろうよ」
もちろん、慰めの言葉なんて思い浮かばなかったし、そもそも私にそんなことを口にする資格なんてない。
今の私に言えることがあるとすれば――。
「……私には、二十年前の犯人を見つけ出すことはできません。でも、今年の〈聖印祭〉で、同じようなことを繰り返させないためにできることならあります」
「……なんだって?」
「私の屋台では、料理の入ったお椀を交換させないことにします」
オディルさんは眉をひそめた。
「お椀を交換させない、って……お椀替えの祭りだよ? そんなことをして、客が納得すると思うかい?」
「お椀を交換すること自体を禁じるつもりはありません。料理は私がその場でよそい、食べ終えてからお椀を交換していただく。空のお椀を受け取った方がうちの屋台に持ってきてくだされば、またその場でよそって、その場で食べていただく――こうすれば、少なくとも私の鍋から出す料理については、誰が作ったのかわからないまま口にすることはなくなります」
「……祭りの習慣そのものを、変えようってのかい」
「ええ。ですが、二十年前と同じことが起きるかもしれないとわかっていて、何もしないわけにはいきません」
私は空になったお椀に目を落とした。
「もちろん、それだけで〈聖印祭〉そのものが安全になるとは思っていません。それでも、まずは私の屋台から始めたいんです。――あなたの隣で」
オディルさんは長いこと黙っていた。鉄板を磨く布がギュッと握られ、それからゆっくり緩んだ。
「……アメリーはずいぶんと変わり者だったが、その孫も負けてないみたいだね」
「初めて言われました。……でも、祖母に似ていると言われるのは嬉しいですね」
そう言うと、彼女は初めて、笑いとも溜め息ともつかない息を漏らした。さっきまでと比べると、ずいぶん柔らかい顔になっていた。
「祭り当日の分の腸詰も、うちで用意してやるよ。あんたの出す鍋なら、あの人から引き継いだ味を安心してみんなに食べてもらえるだろうからね」
「ありがとうございます。では、合わせ売りも正式に成立ですね」
「売れ残っても知らないよ!」
◇◇◇
軽くなった鍋を抱えて、家路につく。中身が減っても鍋はそこそこ重たいはずなのに、心が軽くなったおかげか、まるで何も持っていないかのように感じられた。
通りのあちこちでお祭り支度の音が響き渡っている。
仕切り台の高さをめぐってガストンさんと若い職人さんたちが揉めている声も、今はどこか心地良かった。
そして、夕暮れの角を曲がったところで――。
正面から、トマさんが駆けてきた。
「姉さん!」
息が上がっている。頬からは血の気が引いていた。
「鈴だ……今、鈴が鳴った。――今日のは、すげえ近かった」




