第39話 おかえりなさいの味
「もちろん、空いていますよ」
灯りを落としかけていた手を止めて、私は店の扉を大きく開けた。
「――あなたの席は、いつでも空いていますので」
十日ぶりのジェラルド様は、外套は旅塵で色が変わり、頬は少しこけて、左腕の防具には新しい擦り傷がついていた。
それでもこの人は、いつもの足取りで、いつもの隅の席についた。
胸の奥で、ずっと張りつめていたものがほどけていくのがわかった。
「だんな! 生きてたか!」
「……十日やそこらで死にはせん」
「いや十日は十分長いだろ! ――おっと、帳簿係から報告だぜ。だんなの留守中、ギルドを打ち負かして祭りへの出店を認めさせてやった! もちろん、このおれの力で!」
「そうか。小僧にしては上出来だ」
ピノは得意げに鼻を鳴らすと、お椀の支度に走った。
私は竈の隅に置いてあった鍋を火に戻した。今日いちばんいいものを集めた『何でもいい』――鶏と根菜と、今朝剥いた栗の煮込みだ。
「お待たせしました。本日の『何でもいい』です」
蓋を取ると、湯気がまっすぐに立ちのぼった。鶏はほろりと骨から離れ、今年初めての栗は、煮汁を吸って金色に膨らんでいる。
この十日、毎日のように『作り置き』を用意してしまっていたけれど……ようやく、無駄にならずに済む日が訪れた。
ジェラルド様はスプーンを取って、早速ひと匙口へと運ぶ。
その瞬間、ピタッと動きが止まる。
「……あなたからもらった麦包みが尽きてからというもの、道中の飯は、まるで砂を噛んでいるようだった。いや、少し前まではそれが普通……当たり前のこと、だったんだ」
スプーンが再びゆっくりと動き出す。
ジェラルド様は、いつものように黙々とかき込むのではなく、ひと口ずつ、丁寧に確かめるように食べ進めていく。
「ここの飯は、味がする。それだけのことで……こんなにも、ここに戻りたくなるなんてな」
「ゆっくり召し上がってください。足りなければ、いつもの煮込みもお出しできますから」
「ああ。……食うのがもったいないと思ったのは、初めてだ」
お椀の中身が半分ほどになった頃、彼はふと顔を上げて、何かを探るように目を泳がせた。
「……こういうときは、なんと言うのだったか」
「はい?」
「戻ってきた……そうだ――ただいま……で、合っているか?」
一瞬、息が止まる。
それから私は、精一杯いつもの表情で答えた。
「はい。おかえりなさい、ジェラルド様」
「……ただいま」
言い直したその声はどこかぎこちなくて、聞いているこちらの耳が、少し熱くなった気がした。
カウンターの陰でピノがニヤニヤしているのが見えたけれど、今は無視することにする。
思えば、丘の上の白い屋敷で暮らしていた四年間、私はその言葉をどちらも使った覚えがない。『ただいま』も、『おかえりなさい』も、言うべき相手がいなければ口に出す機会のない言葉なのだと、今になって実感したのだった。
◇◇◇
食後の白湯を出すと、ジェラルド様は手帳を開いて、仕事の顔に戻った。
「南で何があったかについて報告しよう。結論から言って、商会の足取りは消えていなかった」
と、その拍子に、彼の胸元から小さな紙包みが滑り落ちた。
紙の隙間から、琥珀色の塊がのぞいている。出立の前の日、ユスティーヌさんが彼の手に握らせていた、あの飴だ。包みを開けた形跡はなく、旅のあいだに角が削れてすっかり丸くなっている。
この十日間、道中で開けもせず、捨てもしなかったのだ。
ジェラルド様は何も言わずにそれを拾い、胸元に戻すと、話を続けた。
「足取りが途切れた場所の先にある街道沿いの町に、馬を扱う商人がいた。その商人の帳面に、王都行きの早馬を銀貨の即金で買った男の記録が残っていた。詳しく話を聞いてみると、その人相は――ルヴェル商会で帳簿を預かっていた男に、よく似ていた」
「……その人は、もう王都に戻っているんでしょうか?」
「かもしれん。南へ逃げたという足取りをわざと残して、そこから秘密裏に折り返す。手慣れたやり口だ」
背筋が薄っすらと冷たくなっていく。
私が嫁いだ頃から、南方の品の記録がきれいに消されていたという、あの帳簿――それを預かっていた男が、今も王都のどこかに潜んで、何かを企んでいるかもしれない。
私はカウンターの下から、『鈴の記録』を取り出した。
「あれから、鈴の音に関する記録がさらに増えて、全部で五つになりました。聞こえたのはどれも夕暮れ時で、場所は人通りの多い下町の中ばかりです。丘のほうで聞こえたという報告は、ひとつも上がっていません」
「……音が聞こえ始めた時期と、帳簿を預かっていた男が王都に戻ったと思われる時期は――」
「重なっているかもしれません」
「……そうか。だが、まだ決めつけるには早い」
帳面を睨んでいた私に、彼は静かに釘を刺してきた。
「限られた情報だけで強引に決めつけてしまうと、足をすくわれてしまうものだ。その結果捜査が難航してしまう事例を、俺はいくつも見てきた」
「……肝に銘じておきます」
彼が旅先で掴んできた手がかりと、私が留守番をしながら収集した記録――テーブルの上で突き合わせてみると、どちらも同じ〈聖印祭〉の晩に向かっているように思えてしまう。
ひとまず私は、鈴の件は置いておいて、留守中の他の出来事を順に報告することにした。
お祭りの晩に大鍋を出すと決めたこと。教会の助祭が大鍋の届け出を預かってくれたこと。薬事ギルドに臨時営業の届け出を受理させるまでにあった紆余曲折のこと。
そして――ギルドから発行された許可証の隅に手書きで添えられた、文言のこと。
その文言については、実際の許可証を出して、ジェラルド様の前で指差してみせた。
『祭りの晩は、火の元にくれぐれもご注意を』
その一行を目にした瞬間、彼の鉄色の瞳が、一段と凍り付いたような気がした。
「……なるほど」
それ以上は何も言わなかった。
けれどこの人は、何も言わないときほど、何かを考えている人なのだ。
◇◇◇
「そういえば、二十年前の記録の写し、お借りしたままでしたね。今お返ししましょうか?」
帳面の隣に積んであった紙の束を差し出すと、大きな手が伸びてきて――紙に触れる寸前で、ピタリと止まった。
「……いや、このまま預けておこう」
そう言って彼は、あっさり手を引っ込めた。
「今となってはあなたが持っていたほうが、これも役に立つだろう」
「あら。それではまた帳簿係の仕事が増えてしまいますね」
「……報酬は追加で出す。帳簿につけておけ」
真顔で返されて、ピノが噴き出す。それにつられて私もくすくす笑い、ジェラルド様も口元に薄っすらと笑みを浮かべていた。三人分の笑い声が、十日ぶりに店の中によく響いた。
やがて白湯を飲み干して、彼はゆっくり立ち上がる。
そしてそのまま店を後にしようとして、入口で一度だけ振り返った。
「〈聖印祭〉の晩は、対策室も総出で網を張る。当日の指揮は俺が執る。――だからあなたは、安心して大鍋を皆に振る舞うといい」
「――っ、はい」
私は帳面を閉じて、その日いちばんの笑顔を彼に向けた。
「ジェラルド様も、よろしければ食べに来てください。特等席をご用意しておきますので」




