第38話 条文を煮込む
こちらなりのやり方、といっても、やることは単純だ。
二度あることは三度ある――というのなら、三度目に備えて、届け出を突き返す口実そのものを先に潰してしまえばいい。
二度突き返された届け出を、壁に並べて貼ってみる。理由はそれぞれ『字がかすれて判読できず』と『印章の位置が、規定の枠から半分はみ出している』だった。次に相手がどこを突いてくるか……二枚を並べて考えてみると、おおよその答えが見えてくる。
「ピノ、ギルドの窓口で、届け出の規定みたいなものは見かけなかった?」
「ああ――それなら、掲示板の横に鎖で括りつけてあったぜ。『好きに写していい』とか書いてあったな」
「それなら、今すぐ写しましょう。全部」
「……全部!?」
「全部よ。届け出に関わるところは、但し書きも含めてひとつ残らず全部」
とはいえ、鎖で括りつけてあるものを持ち帰るわけにはいかない。写すなら、窓口の前に陣取るしかない。
早速ピノを窓口へ走らせたけれど、その日はギルドが閉まるまでのわずかな時間で、最初の三条を写すのが精一杯だった。
翌日からは、昼はピノが窓口で条文を写し取り、私がひとりで店を回した。夜、店を閉めてからは、ピノが走り書きで持ち帰った条文を、ふたりで清書しながら読み込んでいく。
数えてみると、臨時の営業に関わる条文だけで、但し書きまで入れて二十七条もあった。
「えーっと……『届出人の印は、様式第三の枠内に、欠けなく収めること』……細かすぎるんだよ!」
「ふふ、それがいいのよ。ここまで細かく定めてくれていると、こちらはむしろ利用しやすくてありがたいわ」
夜食には、蜂蜜を溶かした温かいお湯と、焼き直した麦包みを用意する。外はカリッと、中の塩豚はしっとり温かく、蜂蜜の甘さが写し疲れた目に染みる。
眠気と戦っていたピノは、三つめの麦包みを食べ終えたあたりで力尽き、テーブルに突っ伏して寝息を立て始めた。昼のあいだずっと窓口の前に張り付いていたのだから、無理もない。
私はピノに毛布をかけて、清書の続きをひとりで進めた。
条文というものは、読み込んでいくほどに、その切り抜け方も見えてくるものだ。
そのとき、私はふと思った。
毒消しの仕事は、毒のことを知らなければ始まらない。これはきっと、世の中のあらゆる規定に対しても言えることなのだろう。
――今の私はさながら、条文を煮込んでいる、ということになるのかしらね。
◇◇◇
ピノが窓口に通い始めて二日目の昼、コンスタンス様が、いつも兵糧粥の会で粥の炊き方を書き留めている帳面を抱えてやってきた。
「聞いたわよ、〈聖印祭〉の大鍋の件、難儀しているんですって? わたくしの名前をお使いなさいな。ギルドの窓口くらい、ひと声で片づけてあげられるのよ」
ギルドとの攻防は、マルタさんの口を通して丘の上まで届いていたらしい。
「ありがとうございます。でも、お気遣い無用ですよ」
「あら、強情ね。わたくしとしては、早くあなたに借りをお返ししたいのだけれどね」
「そういうことでしたら、もっと困ったときのために取っておきます。それに――」
私は清書途中の紙の束を、トンと指で叩いた。
「この件は、私たちの得意分野ですので」
コンスタンス様は目を丸くして、それから扇で口元を隠して笑った。
「まあ、頼もしいこと。……でもね、覚えておきなさい。何をもって『もっと困ったとき』とするのか――それを見極めるのは、案外難しいものなのよ」
そのひと言を、私は頭の片隅に書き留めておいた。長く生きてきた人の忠告は、きっとどこかで役に立つ気がするから。
◇◇◇
その日の夕暮れ、またしても鈴が鳴ったのだという。
日が落ちてから、ユスティーヌさんがわざわざ店まで報せに来てくれた。場所は橙通りの入口、いつもの屋台の前。夕暮れ時の、人通りの多い下町――これまでと判で押したように同じ条件だった。
これで、『鈴の記録』に記された印は、五つになった。
お祭りが近づくにつれて、帳面を開く回数が増えていく。
その晩、ピノが規定の最後の部分を写し終えて持ち帰り、二十七条の清書もすべて完了した。
◇◇◇
翌朝、私はピノと一緒にギルドの窓口へ出かけた。窓口に立つのは、もちろんうちの帳簿係だ。
「臨時営業の届け出だ! 正、控え、予備の三部――全部そろえてきたぞ!」
若い役人が、紙を一枚ずつなめるように検分していく。字、印章の位置、日付の書き方、添え書きの順番――紙をなぞる指の動きが、次第に遅くなっていった。
「あの、その、これは……」
「不備があるなら、具体的な条文の番号で言ってくれ。おれは二十七条、全部覚えてんだからな」
「い、印章の位置が……」
「様式第三、枠の大きさはきっちり決まってる! 見てのとおり、ど真ん中に押してあるぜ!」
ピノの勢いに圧され、役人の目が宙を泳ぐ。
と、そのときだった。
「見せろ」
奥から出てきたセヴランが、三枚の書類を上から順に検めていく。長い沈黙になるかと思ったが、むしろあっけないほど短かった。
「問題ない。受理する」
受理の印が、迷いなく押される。
「ギルドの窓口を担う者としての自覚が足りないのではないか」
そう添えられて、若い役人は首をすくめた。
セヴランは控えの一枚をこちらへ返しながら、私を見た。
「言っておくが、そちらの味方をしたわけではない。規定を遵守したまでだ」
「存じています。だからこそ、感謝申し上げます」
「……届け出を止められないとなれば、次はいよいよ現場に打って出ることだろう。〈聖印祭〉当日の屋台検分――覚悟しておくといい」
◇◇◇
夕方、立派な印章がふたつ押された許可証が店に届いた。ピノは今にも額に入れて飾りそうな勢いで高く掲げてみせた。
「見ろよ姉ちゃん、『許可』って書いてある! 三枚も届け出を書いた甲斐があったぜ!」
「書いたのは五枚よ。最初にあなたが書いた二枚を忘れているでしょう」
「あれは向こうに不備があったんだから無効だろ!」
騒ぎを聞きつけたマルタさんが顔を出し、その日のうちに「毒消しの食堂、〈聖印祭〉への出店をギルドに認めさせる」という噂が下町を一周していた。認めさせたのはピノの根気なのだけれど、噂にいちいち注釈をつけて回るわけにもいかない。
浮かれた騒ぎが一段落した頃、私は許可証をもう一度、灯りの下で確かめた。
その隅に――几帳面な、やけに丁寧な字で書き添えられた一行があった。
『祭りの晩は、火の元にくれぐれもご注意を』
親切な文言のはずなのに、読み返すたびに背中がうすら寒くなる。
けれど今の私には、この一行の真意を確かめる手立てがない。
――くれぐれもご注意を、ですか。
◇◇◇
夕食の支度をしていると、手が勝手に動いて、いつの間にか『それ』を作っていた。
「姉ちゃん。だんなの分、今日も作っちまったのかよ」
鍋の中には、ジェラルド様のためのいつもの一品――今日いちばんいいものを集めた『何でもいい』が、きっちり一人前。
「べ、別に、そういうわけじゃ……これは……そう、私の夜食よ」
「夜食ねえ。もう規定は写し終わったのに?」
ピノがニヤニヤと意地の悪い顔をしている。
……あとで覚えてなさい。
とりあえず、これは……明日の私の朝食にでもしよう。
夜が更け、店の灯りをひとつずつ落としていると――。
扉の外に人の立つ気配がして、低い、少しかすれた声が聞こえてきた。
「……席は、空いているか」




