第37話 食堂と教会、それぞれの領分
翌朝、私はいつもどおり、竈に火を入れた。
今年の〈聖印祭〉では、薬事ギルドの副支部長サマが直々に、下町に出店される屋台を検めに出向いてくるらしい。
――これは、早めに本腰を入れて準備を進めておいたほうがいいだろう。
差し当たってはまず、教会から出店の許可をもらわないといけない。それと、継続監視の身の上である以上、薬事ギルドにも臨時の営業の届けを出しておく必要がある。
表の通りでは祭壇の骨組みに横板が渡され、軒先のランタンには紙が張られ始めている。
お祭りまで、あと十三日。教会とギルド、どちらの届け出もすでにピノが動いてくれているので、支度は順調――。
……の、はずだったのだが。
どうやらそのピノが、ギルドのほうで朝から壁にぶつかってしまったらしい。
「戻ってきた!」
ギルドの窓口から駆け戻ってきたピノが、届け出の紙をテーブルに叩きつけた。
「『字がかすれて判読できず。差し戻し』だと!? おれの字の何がダメなんだよ!」
「どれどれ……別にかすれてはいないようだけど」
「だろ!?」
「ひとまず、インクを替えて書き直しましょうか」
ピノは鼻息を荒くしながら、昼前には届け出を書き直して、再びギルドへと走っていった。
その背中を見送ってから、私はなんとなく嫌な予感を覚えながら、厨房に戻った。
――こういう予感は、大抵当たるものだ。
◇◇◇
昼下がり、洗いざらしの修道服を着た若い男の人が、店の玄関先に現れた。
まだ二十代の半ばだろうか。袖口は擦り切れかけているのに、襟元の聖印の徽章だけは真新しかった。
「大鍋の屋台の届けを出された『毒消しの食堂』は、こちらでしょうか?」
「はい。店主のリゼットです」
「聖印教会の助祭、アンセルムと申します。橙通りの祭壇係を仰せつかっております」
彼は私が勧めた席に浅く腰かけると、生真面目な顔で、単刀直入に切り出した。
「ひとつ伺いたいのですが。『毒消し』という看板は、教会の祈祷による浄化――すなわち、教会の神事の領分を侵してはいませんか?」
……ああ、なるほど。薬事ギルドの次は、教会というわけか。
店の看板が知れ渡るということは、将来のお客さんだけでなく、本当にいろんな人の耳に入ってしまうということなのだ。
「ご心配はもっともです。ですがその前に――」
私は鍋から、スープをお椀に一杯よそった。骨出汁に日向草を浮かせた、うちの店で最も歴史の長い、様々な献立の基本となるスープだ。白く濁った出汁の上で、日向草の緑の葉がゆらりと回っている。
「まずは、こちらを召し上がってください。そのほうが話は早いと思うので」
「は、はあ」
アンセルム助祭は少し戸惑いながらもスプーンを口に運び――。
直後、その強張っていた肩からスッと力が抜けたのがわかった。
「うちの常連さんに、三年前に呪具に触れて、教会でお祓いを受けた大工さんがいます。お祓い自体は何事もなく済んで、呪いの本体は無事消えました。それでも、骨に染みついてしまった呪いの残滓だけは消えず、冬になるたびに左肩が氷を刺し込まれたように疼いていたそうです」
「……祈祷を受けたあとに、ですか」
若い助祭はスプーンを持つ手を止め、お椀の中の澄んだ出汁を、じっと覗き込んでいる。
「お祓いは、呪いそのものを断つための御業です。私がやっているのは、呪いが断たれたあとに体に残ってしまった冷えを、料理で温めているに過ぎません。お互いの領分は隣り合ってこそいますが、それが交わることはないかと思います」
私がそう言うと、彼はお椀の底に残った最後のひと口をゆっくりと飲み干し、しばらく考え込んでから、ぽつりと口にした。
「……これは、浄化などではなく、ただの料理ですね」
「はい。ただの、おいしい料理です」
「失礼。『ただの』は余計でしたね」
真面目な顔でそんなことを言うので、笑っていいのかどうか、少し迷った。
「――教会に提出いただいた届け出は、わたしが預かります。その上で、祭壇係として申し送りが三つあります」
指を折りながら、彼は一つひとつ説明した。
「まず、大鍋は祭壇から十分な距離を置くこと。次に、祭壇に灯を入れている最中は、火を弱くすること。そして――」
「――そして?」
「……その。お椀は、我々のような見回りの者にも売っていただけるのでしょうか?」
私は一瞬キョトンとなったものの、すぐに笑みを浮かべてその問いに答えた。
「もちろんです。温めてお待ちしていますので、いつでもどうぞ」
彼は安堵したような表情を浮かべると、届け出の紙を几帳面に畳み始めた。
と、そのとき、彼の手がふと止まる。
「そういえば、〈聖印祭〉当日は何の料理を用意されるのですか?」
「豆と塩豚の煮込みです。祖母の代からある、お祭りの名物だそうです」
「そうなんですか。子供の頃、タダでもらえるというお椀目当てで列に並んだ記憶ならあるのですが……もしかすると、あのとき食べたお椀の中身がその名物とやらだったのかもしれませんね。もうどんな味だったかもほとんど思い出せません」
「では今年の〈聖印祭〉では、是非味を確かめるためにいらしてください」
私の誘いに、アンセルム助祭は小さな笑顔で応じると、そのまま店を後にした。
どこか上機嫌そうな足取りで帰っていく後ろ姿を見て、ピノが小声で言う。
「教会の神官さんも、胃袋から落ちるんだな」
「ピノ」
「へーい」
◇◇◇
その日の夜、店を閉めてから、『鈴の記録』とジェラルド様が置いていった記録の束を突き合わせてみた。
ジェラルド様の字は、相変わらず几帳面だ。定規を当てたように行がそろっていて、崩れた字などはひとつもない。
ただ――四十七人の名前が並ぶページだけは、様子が違った。
字の形自体は他のページと変わらないが、筆圧がとにかく強いのだ。紙の裏を指でなぞると、名前の列がかすかな凹凸になって残っている。この一枚だけ、まるで木の板に字を彫っているかのようだった。
一人ひとりの名前を書き写しながら、あの人は何度、手を止めたのだろうか……。
それを確かめようにも、これを書いた人は今、ここにはいなかった。
◇◇◇
翌日の夕方、またしてもピノが情けない声と共に戻ってきた。
「今度は……『印章の位置が、規定の枠から半分はみ出している』だってさ……」
読み上げるピノの声が、途中から怒りで震え出していた。
私は書面を受け取って、灯りにかざしてみる。
――よく見ると、印章のまわりにはご丁寧に朱色で規定の枠が描き足してあって、印章は確かに、そこから半分はみ出していた。
「あーっ! インチキじゃん!」
ついに怒りが爆発したピノの目は、完全に据わっていた。
でも、今回のピノの怒りは至極正当なものだ。
――そちらがその気なら、こちらもこちらなりのやり方でお相手するまでです。




