第36話 二十年ぶりの大鍋
――鈴の音は、誰かを探している音。
そう推測してはみたものの、誰を探しているのかまでは見当がつかず、私はとりあえず『鈴の記録』をカウンターの下に仕舞った。
今日も店を開けるくらいしか、私にできることはない。
表の通りは、気がつけばお祭りの支度で浮き立ち始めていた。
通りの角には祭壇の骨組みが立ち、軒先にはランタンを吊るす枠が取りつけられ、子供たちがその下を駆け回っている。
大工の仕事が増えるということは、それだけお腹を空かせてうちの店を訪れる人も増えるというわけで――。
店内は朝からすでに、工具袋を腰に提げたお客さんたちで埋まっていた。
今日の献立は、豆と塩豚の煮込みだ。塩豚の脂が豆に染み込み、煮崩れた豆が汁にとろみをつける。仕上げに胡椒をひと挽き。鍋の底からすくうと、崩れかけた豆がスプーンの上でほろりとほどけた。
「はい、お待たせ! 今日は豆と塩豚の煮込みだぜ」
ピノがお椀を運んでいった先で、桶屋の老主人がひと匙口に運んだ途端、その動きがピタリと止まるのが見えた。
「……これは」
私はすぐに厨房から駆けつけて、老主人の目線の高さまで腰を落とす。
「もしかして、お口に合いませんでしたか?」
「逆だよ、嬢ちゃん。この味は――アメリーさんが、祭りのときにいつも出してたやつじゃな?」
隣のテーブルで、ガストンさんが身を乗り出した。
「ああ、祭りの大鍋か! そういえばそんなのあったなあ!」
「あんた、覚えてるのかい?」
「忘れるかよ。お椀替えで知らねえ奴とお椀を取り替えても、あちこちアメリーさんのお椀だらけだから、結局戻ってくるのもアメリーさんの煮込みでなあ。あの祭りでアメリーさんの味を知らずに済んだ奴なんて、いやしねえよ」
「その上、子供はタダだったからな。おかげで食堂に並ぶ列がとんでもない長さになって、通りの角を曲がってもまだ続いておったわ」
ふたりの話につられて、店のあちこちから「そうだったそうだった」と声が上がる。
誰もが口にした大鍋と、長蛇の列。祭壇に灯が入る晩に通りの隅々まで漂っていたという、豆と塩豚の匂い。
私の知らない、祖母とお祭りにまつわる話が、皆の口から次々と出てくる。
今日の煮込みは、今朝なんとなく祖母のレシピノートから選んだだけだった。
それがまさか、皆の記憶を呼び起こすなんて……。
「――それは知りませんでした。まさか祖母が、〈聖印祭〉の日に皆さんに鍋を振る舞っていたなんて」
「あのころはアメリーさんの鍋が、下町の名物だったんじゃ」
老主人はそこでスプーンを置いて、少しだけ声を落とした。
「……もっとも、あの年の祭りを最後に、パッタリ出さなくなったがな」
その言葉で、店の中に満ちていた笑い声が、スッと引いていった。
◇◇◇
昼のお客さんが引いたあと、マルタさんが教えてくれた。
「祭りが近づくとね、戸を閉めきったままにする家が、いまだにあるんだよ。といっても、年寄りの家ばかりだけどね。――あれは流行り病だったってことになってるけど、あの祭りの現場にいた人にとっては、祭りで出されるお椀ってのが、とても怖く映るんだろうよ」
まだ店に残っていた桶屋の老主人も、白湯のお椀を見つめたまま頷いた。
「わしは見たんだ。お椀替えから戻った隣の家のご主人が、玄関先で崩れるのをな。それ以来、わしは祭りのお椀が受け取れなくなってな。臆病だと笑われても、怖いものは怖いんだ……仕方がなかろう」
「そんな……笑うわけないじゃないですか」
祖母は、その年の〈聖印祭〉を最後に、名物とまで呼ばれた大鍋をパッタリやめたのだという。
たまたまその年にやめただけかもしれない。気力や体力が続かなかっただけ、という可能性もなくはない。
――でも、私の知っている祖母は、それだけの理由でやめてしまう人ではなかったように思う。
そんな話を聞かされた以上、私がやるべきことはひとつしかない。
「今年のお祭りでは、うちが大鍋を出しますよ」
そう口にした瞬間、店の中がしんと静まり――少し間があって、ガストンさんがその沈黙を破った。
「――よし来た! そういうことなら、仕切り台は俺が組んでやるよ。祭りの人混みじゃ文字通りお椀が宙を飛び交うこともあるからな、とびきり頑丈なやつにしてやる」
「リゼットちゃん……本気かい?」
「ええ、もちろんです。祖母の鍋は、この二十年間、ずっと時間が止まったままなんです。このままだと、祖母の鍋が皆を苦しめるだけの怖い思い出になってしまう……私は、それが何より怖いんです」
桶屋の老主人は、白湯のお椀を両手で包んだまま、長いこと黙り込んでいた。皺の寄った親指が、お椀の縁を何度もなでている。
やがて、ぽつりと、私に向かって言った。
「……あんたの振る舞う鍋なら、並んでみてもいいかもしれんな」
――おばあちゃん、二十年前にあなたがやめてしまった鍋を、私が今度、蘇らせてみせます。
そして、あなたが鍋をやめた理由を――私が必ず、解き明かしてみせますから。
◇◇◇
ところが、話はすぐに現実的な問題にぶつかった。
仕切り台を請け負ったばかりのガストンさんが、こんなことを言い出したのだ。
「そうだ嬢ちゃん。屋台をやるなら、教会の許しが要るぞ。なんたって〈聖印祭〉は教会の祭りだからな」
私が「あっ」と口に出した直後、ピノが横から割り込んできた。
「それにうちは継続監視ってやつの対象になってんだぜ。このまま祭りにでかい鍋なんか出したら、それこそ薬事ギルドが出張ってくるんじゃないか?」
「……ということは、またギルドが査察に来るのかしら?」
「だろうな。ま、とりあえず今は必要な書類を用意して教会に提出――って、もしかしておれが作るのか?」
私は期待の眼差しで、うちの店の帳簿係をじっと見つめた。
「書き物は得意分野なんでしょう? 帳簿係さん」
「得意と好きは別なんだよ!」
お祭りに向けてやるべきことが、ふたつできた。
教会から出店許可をもらうこと、そして薬事ギルドの査察への対応だ。
◇◇◇
夕方、肩に薬杖の紋をつけたセヴランが店の玄関口に現れた。
彼は席につくなり、いつもどおり煮込みを注文する。出されたお椀を、何が入っているのか探るような目でしばらく眺めてから、あとは黙々と口に運んでいく。
相変わらず愛想はないけれど、いつも残さず食べてくれるのは、この人なりに料理を認めてくれている証なのだろう。
程なくしてお椀は空になり、テーブルにはいつものように銅貨がきっかり二十枚置かれた。
それからセヴランは、思い出したように言った。
「今度の〈聖印祭〉で、大鍋を出すそうだな」
「もうご存知でしたか。お耳が早いですね」
「下町の噂が広まるのは馬より速いというからな。……臨時で出す屋台は、ギルドが事前に検めることになっている。帳簿、食材、器、そして火の元。先日の査察と同じと思え」
「望むところです。店の外だろうと、見せられないものなんて何もありませんから。いつでもいらしてください」
店を出ようとしたセヴランは、玄関先で一度だけ足を止め、振り向かずに言った。
「ひとつだけ忠告しておく。今年の祭りの屋台は――副支部長殿が、直々に検めることになっている」
それだけ言い残して、彼は去っていった。
「……副支部長さんが、この前の査察に続いてまた自分の足で下町へ来るなんてねえ。昔はそんなこと、めったになかったんだけど」
マルタさんのつぶやきが、お祭り支度の賑わいの中で、妙にはっきりと聞こえた。




