第35話 聞こえる人、聞こえない人
うちの店が守る――といっても、当面はやることはさほど変わらない。
お客さんのために料理を作り、鈴が鳴ったら帳面に記録する。
「鈴の記録はおれに任せといてくれよな」
ピノは朝から帳面を胸に抱えて、張り切っていた。
そして今日もいつもどおり、三日に一度の兵糧粥の会が始まる。
用意した大鍋には骨出汁に麦。そこへ生姜をひとかけ。とろみの出た粥の表面がふつり、ふつりと泡を立てるくらいの火加減だ。今も寝たきりの六人の家族の方たちが、お椀と帳面を並べて、今見た粥の炊き方を書き留めていく。
「火加減はトロトロだよ。グラグラ沸かしたらだめだからね」
炊き方を教える係であるトマさんのお母さんがそう言うと、隅の席でコンスタンス様が大きく頷いていた。
「わたくし、先週ようやく『トロトロの火加減』を会得しましたのよ」
「奥様、次は『コトコト煮込む』に挑戦しましょう」
「あら。粥の道は長いのね」
会の終わりに、私は『鈴の記録』の話をした。鈴の音が聞こえた人がいたら、時刻と場所を私まで報せてほしい、と。
その話を聞いて皆がざわついていたが、無理もない。鈴の音は、自分たちの身内が寝たきりになる直前に聞いたとされる音なのだから。
◇◇◇
皆が帰ったあと、トマさんだけが店に残り、隅で膝を抱えて座っていた。
「姉さん……俺、また誰かに狙われてるのかな」
いつもの元気がなく、声が小さい。勝手口でトマさんを待っていた彼のお母さんが、息を呑むのがわかった。
「せっかく目が覚めたってのに、またあの音が聞こえたってことはさ……俺を狙ってる誰かは、まだ俺に用があるってことだろ?」
「わかりません」
嘘はつけないので、正直に答える。
それから、お椀に残っていた粥を彼の前に置き直しながら声をかけた。
「でも、逆の見方もできますよ」
「……逆って、なんだよ」
「トマさんは一度眠り病を経験して、例の鈴の音がただならぬものだと知っています。その上で、私にもピノにも聞こえないその音を、今でも聞くことができる。つまり、もし何者かがまたあの鈴を鳴らしたとしても、トマさんなら誰よりも早く危険に備えられるんですよ」
「……危険に備えるって、いったいどうすりゃいいんだよ」
「その場からすぐに逃げることも、私たちに報せることもできます。何も知らないまま、ただ狙われるのを待っていた以前とは、まるで違うと思いませんか?」
トマさんはスプーンを握ったまま、顔を上げずに黙って私の言葉に耳を傾けている。
「怖いと思うのは、恥ずかしいことではありません。むしろ危険に備える以上は、怖がりなくらいでちょうどいいんです。怖いからこそ、小さな音ひとつ聞き逃さずに済むんですから。――うちの常連さんでいちばん早く異変に気づけるのは、トマさんを置いて他にいないと思いますよ」
そこまで聞くと、トマさんはバッと顔を上げ、残っていた粥を一気にかき込んだ。
空になったお椀が、大きな音を立ててテーブルに置かれる。
「……じゃあ、下町の平和は、俺の耳にかかってるってことか」
「ええ、そのとおりです。頼りにしていますよ、トマさん」
トマさんは手早く勘定を済ませて、店を後にした。
帰り際、勝手口の外でずっと待っていた彼のお母さんが、私に深く頭を下げてきた。
「あの子、今じゃ寝たきりになる前よりも、よく食べるようになったんだよ」
そのひと言が、今日いちばん嬉しい報せだった。
◇◇◇
それから三日のあいだに、『鈴の記録』にはふたつの情報が加わった。
ひとつはトマさんが市場の外れで、もうひとつはユスティーヌさんが橙通りの北の井戸の近くで、どちらも夕暮れ時の人通りの多い時刻に鈴の音を聞いたという話だ。そして前回と同じく、ふたりは別々の場所にいながら、まったく同じ時刻に、同じ音を聞いていた。
三日目の昼、帳面を開いてピノと話していると、三杯目のお椀を抱えたリュカ様が、横で首をかしげながら言った。
「丘の上で鈴の音が聞こえたという人は、誰もいないそうです。おれも、あれから一度も聞いていません」
「鈴の音が聞こえるのは、下町ばかり……ということですか」
「あ、でもおれのお腹が鳴る音なら、どこにいてもよく聞こえますよ。というわけでお代わりをください」
「リュカ様、今は真面目なお話をしている最中ですよ」
「真面目なお話をしてると、お腹が空くものなんです」
私が呆れつつ四杯目をよそっているあいだに、ピノは帳面の端に下町の通りの簡単な絵を描いて、鈴の音が聞こえた場所に印をつけ始めた。印はまだ四つと少ないものの、いずれも下町の中に固まっていて、丘のほうにはひとつもない。
◇◇◇
夕方になって、ユスティーヌさんが店にやって来た。
彼女は粥を頼んでから、テーブルの上に紙にくるんだ飴をひとつ置いた。
「昨夜、ふと思い出したことがあってね。だから約束どおり、飴と一緒に話を持ってきたよ」
「っ! 是非、聞かせてください」
「ふふ、まあそう慌てないで。――嬢ちゃんは、お椀替えを知ってるかい」
「お椀替え――お祭りの風習だということくらいしか」
ユスティーヌさんは粥をひと匙、ゆっくり味わってから話を続けた。
「〈聖印祭〉の晩はね、見ず知らずの相手と、自分のお椀を取り替えて食べるんだよ。同じ鍋の前では、人は皆等しい――っていう、教会のありがたい教えでね。祭りの三日間だけは、貴族も庶民も関係なく、隣に座った者同士でお椀を取り替えるのさ」
それを聞いて、私はすぐにジェラルド様の話を思い出し、背筋がスッと冷たくなった。
もし、二十年前のお祭りの晩に、誰かのお椀に毒を盛られていたとしたら――そのお椀が誰の手から渡ってきたものなのか、辿りようがない。三日のあいだ、王都じゅうでお椀が持ち主を替え続けていたのだから。
「あたしもね、もちろんあの晩、お椀を交換したよ。知らない誰かとね」
「……その相手の顔は、覚えていますか?」
「さすがにもう思い出せないよ。ただ――その人の手だけは、覚えてる」
ユスティーヌさんのスプーンが、宙で止まった。
「お椀を差し出してきたその手――とても冷たかった。まだ秋の初めだっていうのに、なんだか変だなとは思ったよ」
ユスティーヌさんの顔は、怖がっているというより、長いあいだ失くしていた物をやっと見つけたような顔だった。
「……ごめんなさい、辛い記憶を思い出させてしまって」
「いいんだよ。むしろ、思い出せて……嬢ちゃんに伝えられてよかった」
ユスティーヌさんは残りの粥をゆっくりと食べ終えると、すっかりいつもの顔に戻って帰っていった。
私はもらった飴を、帳面の隣にそっと置いて、しばらくじっと眺めていた。
◇◇◇
その夜、店を閉めてから改めて帳面を開く。
窓の外を、酒場帰りらしい人たちの話し声が通り過ぎていく。
私の耳には、今日も鈴の音は聞こえない。それに安心していいのか、私だけが何かを聞き逃しているのか……わからないままの状況だけが続いている。
帳面に並んだ四つの記録には、はっきりとした共通点がある。どれも夕暮れ時で、人通りの多い場所。しかも聞いたのは下町にいた人ばかりで、丘の上で聞いた人はひとりもいない。
行商人の鈴なら売り物の名を呼ぶ声が一緒に聞こえるはずだし、店の呼び込みの鈴なら、その店の前で鳴るはずだ。
けれど例の鈴は、そのどちらでもない。何を売るでもなく、どこに留まるでもなく、日ごとに場所を変えて、人の多いところばかりで鳴っている。
毒を盛る相手を選ぶために鳴らされていた鈴――あのとき頭をよぎった仮説が、帳面の上で少しずつ形になっていくように見える。
「……物を売り歩いているわけでもなければ、何かを報せているわけでもない。これは――誰かを探している音?」
口に出してから、帳面の余白に同じ言葉を書きつけ、私は静かに帳面を閉じた。




