第34話 その鈴は、実在する
何度見返しても、夕暮れ時の通りは、私の目にはいつもどおりの景色としか映らない。
けれど、ユスティーヌさんの顔はすっかり青ざめてしまっている。いつもどおりの景色の中で、何かが起きているのは間違いない。
と、そのとき、角の向こうからこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてくる。
「姉さん!」
前掛け姿のままのトマさんだった。肩で息をしていて、その目は大きく泳いでいた。
「今、確かに鳴ったんだ……市場の入口のあたりで……リン、って。間違いない、あのときの鈴だ」
「……あんたも聞いたのかい」
ユスティーヌさんの声に、トマさんがビクリと跳ねた。
「婆ちゃんも聞いたのか、さっきの音」
「ああ、ついさっき、ここでね」
市場の入口と、うちの店の戸口――よほど大きく鳴らさない限り、人の声や鈴の音が届くような距離では決してない。
そんな、ふたつの別々の場所で、同じ時刻に、同じ音が聞こえたのだという。
――空耳だとしたら、ふたりが同時に聞いているはずがない。
「どちらから聞こえたかは……やっぱり、わからないんですよね?」
「ああ。とても遠くから、風に乗ってやってきたみたいな、ひどくぼんやりした感じだよ」
「俺もだ……右から聞こえたのか、左から聞こえたのかさえもわかんなかった」
店の中では、ピノが盆を持ったまま突っ立っていた。
「おれ、なんも聞こえなかったぜ」
もちろん、私にも聞こえなかった。
少なくとも私とピノはユスティーヌさんのすぐ近くにいたわけで、それなのに、これはいったいどういうことなのだろうか。どこか薄気味悪くて、背筋がゾッとする。
とりあえず、ふたりを落ち着かせるために、店のテーブルに座らせる。そしてユスティーヌさんには白湯と粥を、トマさんには煮込みの残りを温め直して差し出す。骨から外れた兎の肉を多めにしつつ、汁は熱くしておいた。震えている手には、熱いお椀を持たせてあげるのがちょうどいい。
「一旦、お腹に何か入れましょう。落ち着きますよ」
「……姉さんの飯は、相変わらずよく効くなあ」
スプーンを動かしているうちに、トマさんの肩から少しずつ力が抜けていくのがわかった。
その向かいで、ユスティーヌさんが粥を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……確か、昔はあの鈴の音を聞いたあとに、あたしは意識を失ったんだよ。でも今回は――あたしもこっちの坊やも、こうして倒れずに済んでいる」
「そういやそうだな……まあ、何も起こらないってんならそれに越したことはないけどよ」
「そうなんだよ……その、はずなのに……なんで、また鈴の音が聞こえたんだろうねえ。あたしは、それが気になって気になって……嫌な感じがして、仕方がないんだ」
それから程なくして、迎えに来たお母さんに肩を抱かれながら、トマさんは帰っていった。
そのまま角を曲がって見えなくなるまで、ユスティーヌさんはその背中をじっと見送っていた。
◇◇◇
その夜、ピノから報せを受けたジェラルド様が、店に駆けつけてくれた。明日の朝には南の街道へ発つと言っていたのに……今度、改めてお礼をしなければ。
「――ふたりが、離れた別々の場所で、同じ時刻に、同じ音を聞いた、と。間違いないか?」
「はい。その音ですが、私とピノには何も聞こえませんでした」
「……状況から判断して、幻聴の類いなどではなく――実在するものと見るべきだな」
それから彼は、テーブルの上に手を置くと、私の目を見据えながら言った。
「音の鳴った時刻、音を聞いた場所、およびそれを聞いた者の名前、それから、そのときの風向き。これから音が聞こえるたびに、その詳細をすべて書き留めておいてくれ。実在する現象であるならば、いつか必ずその尻尾に手が届くはずだ」
「お、それならおれに任せてくれ。帳簿係の腕の見せどころだな!」
洗い物を終えたピノが、袖をまくったまま割り込んでくる。ジェラルド様は特に異を唱えることなく、真顔で頷いた。
「なら、小僧に任せる。報酬については――」
「それなら、煮込み一皿分でよろしく。それが姉ちゃんの――うちの店の流儀だからな」
「……この店は、店主も店員も安上がりだな」
そう言ってから、今度は鞄から書類の束を取り出した。それは、二十年前に行われた聞き取り調査の記録を、彼自らの手で一枚ずつ書き写したものだった。
「これは、この店に置いていく。次にまた鈴が鳴ったとき、すぐに過去の証言と突き合わせられたほうが都合がいいだろう」
写しの束を私に手渡す直前、その大きな手が、一瞬だけ強張ったのがわかった。
彼はこの紙束と、これまでどんな想いで向き合ってきたのか――私はまだ、彼の胸の内を訊けないでいる。
「それと、頼みがある」
「はい、なんでしょう?」
「たとえ鈴の音が聞こえたとしても、決して鈴の在処を探ろうとするな。あなたは、情報を記録してくれるだけでいい」
「……わかりました。あなたがお帰りになるまでは、記録に徹しましょう」
「違う。俺が帰ってからもだ」
即答だった。
私はそれがなんだか悔しくて、返事の代わりに麦の粥をよそって彼に差し出した。兎の煮込みの残りに麦を足して、火を止める直前に卵を落としたものだ。お椀の中で黄身がゆっくり崩れて、湯気ごと麦に絡んでいる。
「では、これを食べてくれたら約束します」
「……本当だろうな?」
私の言葉を疑いながらも、ジェラルド様は最後のひと粒までスプーンでさらって見事に完食してくれた。
そして、空になったお椀を見下ろし、ぽつりとつぶやく。
「しばらくは、この味ともお別れか」
私は、思わず吹き出してしまった。
「ふふ、ジェラルド様ったら。麦包みを三日分、持たせてあげますよ」
その約束どおり、翌朝、まだ暗いうちに、戸口でジェラルド様に三日分の麦包みを渡した。
「どうかお気をつけて。お帰りをお待ちしています」
「ああ。……行ってくる」
馬に乗った背中はすぐに角へ消えてしまった。
蹄の音だけが、しばらく残り続けていた。
◇◇◇
その日の昼、マルタさんがパンを届けがてら、こんな話をしていった。
「そういえばリゼットちゃん、〈聖印祭〉まで、もう二十日を切ったってさ。早いもんだねえ」
灰汁を引く手を、思わず止めてしまった。
二十年前、四十七人もの人が相次いで倒れたのは――〈聖印祭〉の期間中だったのだという。
そして今、王都では、また鈴が鳴っている。
「一日目の夕方に大聖堂の鐘が七つ鳴ってさ、通りじゅうの祭壇に灯が入るんだ。あんたはお屋敷暮らしが長かったから、下町の祭りは久しぶりなんじゃないかい?」
「そうですね。子供の頃に一度だけ、祖母に手を引かれて行ったきりです」
あの晩、祖母は私の手を、痛いほど強く握っていた。
あれは果たして何年前のお祭りだったか――私は、思い出すのが少し怖かった。
「じゃあ、今年は祭壇に灯が入るのを、久しぶりに見に行けるってわけだ」
「ええ……是非、見に行きますとも」
◇◇◇
閉店後、私は新しい帳面を一冊おろした。
表紙には、太い文字で、こう書かれている。
『鈴の記録』
まずは一ページ目に、昨日の夕暮れの分を記しておく。
――鳴った回数は一回。聞いた人数はふたり。そのときの時刻、場所、そして風向き。
実在する現象であるならば、いつか必ずその尻尾に手が届く。
私はジェラルド様の言葉を思い出しながら、帳面を閉じて、灯りの落ちた店の中で宣言する。
「今年の〈聖印祭〉は――うちの店が、お守りします」




