第33話 鈴の音は、まだ――
――なぜ、二十年前とやり方を変えた?
あの晩の問いに対する答えは、未だ得られていない。
あれから数日経った今も、私は厨房で鍋の灰汁を引きながら、答えを探し続けている。いつもどおり店を開けることくらいしか、今の私にできることはない。
そして答えが見つからないまま、店の時間は今日も進んでいく。
「相席、いいですか?」
「おう、詰めな詰めな」
エルミール家の若い従僕さんが、ガストンさんの隣に腰を下ろすのが見えた。
別のテーブルでは、丘の上から通ってくる小役人が、向かいに座る桶屋の老主人の前で袖に汁を飛ばして慌てていた。
「うう……誰ですか、汁の残りに麦を入れるなんて考えた人は……ああ、染みになってしまう」
「兄さん、追い麦は初めてかね? 味は間違いなく倍はうまくなるぞ」
「でしょうね……見るからにおいしそうだ……」
皆が今食べている煮込みは、兎と香草に、細切りの根菜を加えたものだ。
骨からほろりと外れる肉を、貴族街の人と下町の人が同じお椀で、同じお代を払って食べている。そんな光景を、もう誰も珍しがらない。
窓際ではリュカ様が、トマさんに脇腹をつつかれながら三杯目の煮込みを注文し、今か今かと待ちわびている。
「おれ、スプーン三杯しか食べられなかった頃が懐かしいよ」
「言うようになったなあ、坊ちゃん!」
そこへ、ピノの声が飛んでいく。
「はい、煮込みお待たせ! 追い麦が欲しけりゃ言ってくれよな」
離縁状一枚と手切れ金の銀貨三枚でこの光景が手に入ったのなら、我ながら悪くない取り引きだったと、改めて思う。
◇◇◇
昼の客が引きかけた頃、薬杖の紋を携えた男の人が、店にやってきた。
「先日通達した継続監視についての、正式な書面の写しを渡しに来た」
その男の人――セヴランは、そう言って一枚の紙を差し出すと、それで用は済んだという顔で空いているテーブル席に腰を下ろした。
「煮込みをひとつ」
「煮込みをひとつですね、かしこまりました」
厨房に向かう途中、渡された書面の写しに目を落とす。
立派な印章がふたつも押してあって、なんだかとてもありがたいもののように見えてきた。
……せっかくなので、店の中に貼らせてもらおう。
煮込みを運び終えたあと、献立表の隣に写しを貼っていると、セヴランが眉をひそめた。
「……なぜそんなものを、そんなところに飾るのだ」
「立派な印章がついてて、お守りになりそうな気がしたので。それに、うちの店がお役所から正式に『食堂』だとお墨付きをもらったようなものですし、これはもう、皆さんにお見せしておかなければと思いまして」
「何がお墨付きだ。単なる監視の通知だぞ」
「まあまあ。先日も申し上げたとおり、うちには見られて困るものは何もありませんので。これも堂々とお見せしたいのです」
セヴランは何か言いかけて、結局口をつぐんだまま、スプーンを手に取った。
「……副支部長のドマール様は、お変わりありませんか?」
「息災だ。……息災すぎるほどにな」
抑揚のない声に、ほんのわずかだけ苦いものが混ざった気がしたけれど、それ以上は訊かないでおいた。
私は今一度、飾った継続監視の通知に目を向ける。きっと明日には、マルタさんを通して「食堂アメリー、ギルド公認の店となる!」という噂が下町に広がるだろう。公認とはひと言も書いていないのだけれど――損な話ではないので、素直に利用させてもらおう。
セヴランはその後も何も言わずにいつの間にか煮込みを完食し、きっかり銅貨二十枚をテーブルに置いていった。
「……監視は継続だからな。また来る」
「はい。いつでも監視をしにいらしてください」
去っていく彼の背中は、心なしか以前よりも軽そうに見えた。
ピノが小声で「あの人、ただの常連になりつつあるんじゃないか」と言ったので、私は慌てて口の前に指を立てた。
――本人に聞こえたら、二度と来なくなっちゃうじゃない。
◇◇◇
夕方、例によって隅の席でいつもの煮込みを食べているジェラルド様を眺めているときだった。
ユスティーヌさんが、飴の籠を提げて店にやって来た。
籠の中の飴は、ひとつずつ、几帳面に紙でくるんである。
「カウンターの横にでも置いておきな。小さい子が泣いていたら、ひとつ握らせてやるといい」
「なんだ婆ちゃん、売り物じゃないのかよ」
「当然だろ。泣く子から金取ってどうするんだい。まったく、この坊やは」
「まあそれはいいけどよ……帳簿にはなんて書けばいいんだ、これ。もらい物? 預かり物?」
「おや、坊やのくせに難しい言葉を知ってるんだねえ」
「へへ、なんたってこの店の帳簿係だからな!」
ピノは早くもユスティーヌさんに懐いていた。
飴は結局、頂き物として数量と共に帳簿につけることになった。ただし泣く子の分は勘定に入れず、黙って握らせる――そんな決まりが、うちの帳簿に加わった。
ユスティーヌさんは飴の籠をカウンターに置くと、ふと手を止めて、表の通りのほうへ視線を向けた。
「? どした、婆ちゃん?」
「……いや、なんでもない。空耳だったみたいだ」
すぐにいつもの笑顔に戻ってしまい、私もそれ以上は訊けなかった。
やがて日が傾くと、隅の席に座っていたジェラルド様が立ち上がる。
「明日から南の街道まで遠駆けだ。……消えた商会の足取りを追ってくる」
「そうなんですね。道中、どうかお気をつけて。はい、これはお夜食の麦包みです」
無言で麦包みを受け取り、戸口へ向かうジェラルド様。
するとユスティーヌさんが彼を呼び止め、その大きな手のひらに、飴をひとつ握らせた。
「あんた、甘いもんが好きそうな顔してるね。これやるよ、きっと気に入るさ」
ジェラルド様の動きが、一瞬だけ止まる。
「……もらっておく」
「あ、だんな、飴もらってる」
「うるさいぞ、小僧」
ジェラルド様はそれだけ言うと、飴を胸元にしまい、夕暮れの通りへ出て行った。
甘いもんが好きそうな顔――その言葉の重さを、ユスティーヌさんは知らない。ジェラルド様がいちばん最初に失った味が甘味だということも、うちの竈の料理のほかは何を口にしても味がしないということも。
それでも飴を持って帰っていく広い背中を、私は戸口で見送った。
いつか……と何度でも思う。
いつか、あの飴の味も、彼の舌に届く日が来ればいいのに、と。
◇◇◇
夕方の客がひと波引いて、店に残るのはユスティーヌさんひとりになった。
夕日の差し込む店の中で、私は昼に貼った継続監視の写しと、カウンターの木目をそっと撫でた。
おばあちゃん、店の看板は、私が守ったよ。あなたの店は今日も、誰かのお腹の底をあたためている。
それと――あなたの粥は、いつの間にか、孫の私が継いでいたみたい。
「じゃあね、嬢ちゃん。飴が減ったらまた持ってくるから、いつでも言いに来な」
「はい、ありがとうございます。ユスティーヌさんも、粥が恋しくなったら、いつでもいらしてください」
そのまま笑顔で店を後にしかけて――。
ユスティーヌさんの足が、ふと、止まった。
皺の寄った首が、ゆっくりと通りのほうへ傾く。荷車の軋む音、物売りの呼び込みの声、遠くで鳴く犬――夕暮れの雑踏の向こうにある何かに、耳を澄ましている。
「ユスティーヌさん?」
私の呼びかけに、ユスティーヌさんがゆっくりと振り向く。
その顔からは、完全に血の気が引いていた。
「……鳴ってる」
掠れた声で、ぽつりと、そう漏らす。
「あの鈴だ。リン、って。……今、どこかで鳴ってる」
「――っ! その音はどちらから聞こえますか?」
「わからない……風の向こうから、聞こえてくる気がする」
私は戸口から通りへ一歩出て、耳を澄ました。荷車の音、呼び込みの声、誰かの笑い声。私の耳には、いつもの夕暮れ時の音しか聞こえてこない。
夕暮れの通りは、本当に、いつもと同じ顔をしている。
――その顔が、今の私の目には、とても怖く映った。




