第32話 おばあちゃんの粥
――この毒は、まだ終わっちゃいない。
その晩、私は閉店後の竈でコトコトと粥を炊きながら、祖母の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
祖母はいったい何を、どこまで知っていたのだろうか。
考えても、答えは出そうにない。鍋の中では、麦が骨の出汁を吸ってやわらかくほどけていく。それを眺めながら、明日はこの粥を持って、もう一度あの路地へ赴いてみようと思った。
◇◇◇
「おやまあ。今日も来てくれたのかい」
ユスティーヌさんは呆れた顔で言いながら、それでも戸を大きく開けてくれた。
ちなみに今日の連れはジェラルド様ではない。「生還者の先輩に会える」と聞きつけて、朝から店先で粘っていた、とても騒がしいふたりの男の人――。
「あんたが例の飴屋の婆ちゃんか! 俺はトマ。革具屋の息子だ!」
「リュカ・エルミールです。その……どうしても、お会いしたくて」
長い眠りから帰ってきた者同士、何か惹かれあうものがあったのだろうか――ユスティーヌさんはふたりの顔をしばらく眺めると、ニッと笑った。
「あんたたちも、あれかい。目が覚めて一番最初に思ったのは――」
「腹へった――だろ、婆ちゃん」
「ああそうとも。腹の虫のほうが、意識を取り戻すのが早かったみたいでさ」
三人は、声を上げて笑った。実年齢はもちろん、眠りから覚めた時期にもだいぶ差があるというのに、そんなものはお腹の音ひとつで一瞬にして消えてしまったらしい。
私が持ってきた蓋つきの鍋を開けると、湯気がふわりと甘く立ちのぼった。骨の出汁で炊いた麦の粥に、ほんの少しの蜜と生姜。兵糧粥の会で、いつも作っているものだ。
鍋は四人で分けるには少し小さかったけれど、ユスティーヌさんが棚からお椀を出してくれて、結局、全員で囲むことになった。とろりと炊けた麦、骨の出汁の丸い甘み、あとから追いかけてくる生姜のほのかな辛さ。
「……うめえ。俺、これのおかげで体もだいぶ良くなったんだよなあ」
「おれもです。最初はスプーン三杯まで、って止められましたけど」
「そうやって誰かに見てもらえるのは、若者の特権だよ。こんなばあさんになると、もう誰の目もないからね」
皆でひとしきり笑ったあと、ユスティーヌさんは改めて粥をひと匙口に運んで――そこで、止まった。
「……この味」
スプーンがお椀の縁に当たって、かちりと鳴った。
「アメリーの、粥だ」
私は、思わず息を呑んだ。
「ご存じなんですか? この粥を」
「知ってるも何も……嬢ちゃん、あたしが眠っていた間、うちの人が毎日スプーンで流し込んでくれていたのが、この粥だったんだよ。あとで聞いたら、アメリーが毎朝、店の竈で炊いて届けてくれていたんだそうだ。目が覚めるまで、一日も欠かさずにね。……覚めてからも、しばらくこればっかり食べてたよ」
皺だらけの手が、お椀をそっと包んだ。
「あたしの体はね、半分はあの人の粥でできてるんだよ」
体の芯が、ゆっくりと熱くなっていく。
毒は消せなくても、その人の体が毒と戦うのを支える食事なら届けられる――私が兵糧粥と呼んで続けてきたことを、祖母は同じ竈で、二十年も前にはもうやっていたのだ。
「あんたの店の粥の噂を聞いたときね、ああ、あの人の孫だ、って思ったよ。まさかその血じゃなくて、粥でわかっちゃうなんてね。いかにもあの店って感じがするじゃない」
トマさんが鼻をすすり、リュカ様が何も言わずに目頭を押さえた。ふたりとも、この粥に支えられて長い眠りから帰ってきた者同士、感じるものがあったのだろう。
「……祖母は、他に何か言っていませんでしたか? 昨日言っていた、毒の話の続き、とか」
「うーん、どうだったかねえ。もしかすると聞いてたかもしれないけど、あの頃の記憶はもうだいぶ曖昧だから……思い出したら、飴と一緒に届けてやるよ」
帰り際、ユスティーヌさんは私たち三人の手のひらに、ひとつずつ飴を握らせてくれた。
◇◇◇
その夜、閉店間際の店に、ジェラルド様が書類の束を三つ抱えてやって来た。書類はそれぞれ、二十年前の記録の写し、ユスティーヌさんの証言の書き付け、そして、役所から借りてきた古い台帳だった。
「情報を突き合わせてみて、ひとつわかったことがある」
夜食の粥を置くと、彼はまずひと匙をきちんと味わってから話し始めた。
「……不思議な粥だな。ただ腹が満たされるだけではなく、何かがこう……体に染み渡っていく気がする」
「なんといっても、兵糧粥、ですから」
「そうだったな」
そう言ってもうひと匙食べてから、彼は三つの束をテーブルに並べた。
「二十年前の調べでは、四十七人がわずか三日のあいだに相次いで倒れたことを、流行り病の証しだと結論付けた。職も住まいも歳もバラバラな者が、同じ数日のうちに次々と倒れる――確かに毒よりは病のほうが自然に見えるし、筋は通る」
ページを順に、指で押さえていく。
「だが、当時聞き取りができた者の多くが、倒れる直前に鈴の音を聞き、甘い匂いを感じ取ったのだという。どちらも病による幻聴、あるいは嗅覚異常の可能性も捨てきれないが……皆が一様に『鈴の音』と言っているのがやはり気になってな。そこで、その三日がどんな日だったのかを調べ直した。……〈聖印祭〉だ。四十七人は皆、〈聖印祭〉の期間中に倒れている」
――〈聖印祭〉。
年に一度、教会が王都じゅうの通りに祭壇を出す、三日三晩かけて催される大きなお祭りだ。夜ごと屋台が並んで、誰もが浮かれて、知らない誰かと料理や杯を分け合うのだという。
お祭り自体は私も知っている。幼い頃、祖母に手を引かれて通りを歩いた。焼き菓子と蜜酒の匂い、祭壇の香、すれ違う人の肩と笑い声。はぐれないようにと握られていた手の、あの力の強さ。
――今にして思えば、あの手は、祖母が人混みの中の何かを警戒していたことの表れだったのだろうか。
「あのお祭り騒ぎ中なら、誰が誰に何を配ろうが、人混みに紛れてしまいますね」
「ああ。人混みはもちろん、物売り共も、施しに群がる連中も、すべてが隠れ蓑になる」
ジェラルド様は書類を閉じると、鉄色の瞳を細めた。
「二十年前は、三日のあいだに四十七人が次々と倒れた。だが今回は、四ヶ月かけてじわじわとひとりずつ寝込んでいって、ようやく八人。より静かで、慎重な手口になっている。……もしこれが、同じ毒の系譜だとしてだ」
湯気の向こうで、声が一段低くなる。
「――なぜ、二十年前とやり方を変えた?」
竈の火が、パチリと小さく爆ぜた。その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。




