第31話 この毒は、まだ終わっちゃいない
翌日の昼下がり。ピノに店を任せて、私は煮込みの包みを提げ、約束どおりジェラルド様と並んで橙通りを歩いていた。
「対策室の紋は、置いてきたのですね」
「ああ。今日の俺は対策室長ではなくて、ただの、あなたの店の常連だからな」
平服のジェラルド様はそれきり口を閉じ、私に歩幅を合わせながら通りを進んだ。
市場を抜ける道すがら、揚げパンの湯気や焼き菓子の甘い匂いの前を、隣の大男は何も感じていない顔で通り過ぎていく。
……いつか、誰もが幸せになれるこの匂いの先にあるおいしさを、この人にも感じ取ってもらえる日が来るのだろうか。
私は、隣に気づかれぬよう、静かに包みの持ち手を握り直した。
教えられた家は市場の外れ――橙通りから路地をふたつ曲がった、突き当たりにあった。屋根の低い小さな家で、軒先に花の鉢がいくつも並んでいる。
戸を叩くと、木べらを置くような音が中から聞こえた後、飴を煮るような甘い匂いと一緒に戸が開いた。
「はいはい、どちらさ――おや……」
私は、咄嗟に声が出てこなかった。
忘れるはずがない。橙通りの入口で飴を売っている、あのおばあさんだった。離縁状と銀貨三枚だけを持って通りを歩いていたあの日、「いろいろあったんだろ。甘いもんでも舐めて、心を休めることだね」と言って、琥珀色の飴をひとつくれたことは、今でも記憶に新しい。
――目覚めたあと、ひどく甘いものを欲しがった。
ジェラルド様から見せてもらった記録簿にあった、あの一行が……なぜか今、頭の中をよぎった。
「あのときの……おばあさん?」
「おや、あんた、煮込み屋の嬢ちゃんじゃないか。なんの用だい、こんな大男まで連れて」
その後、ユスティーヌと名乗ったそのおばあさんは、「ここらじゃ役所の帳面に載っている名前より、飴屋のばあさんで通っているけどね」と笑いながら、狭い居間に私たちを通してくれた。
竈の小鍋では、飴がトロトロと金色に煮えている。
ユスティーヌさんが私たちの前に白湯を置いたところで、ジェラルド様が口を開いた。
「毒物対策室の、ジェラルド・ヴァルクです。今日は職務では……いえ。半分は職務で伺いました」
「知ってるよ。よく通りを歩いてる騎士様だろう。正直な人だねえ」
笑ってから、ユスティーヌさんは私の包みに目を落とした。
「ああ、うちの店の煮込みです。兎と香草の。骨の出汁がいちばんよく出た、今朝の上澄みを詰めてきました。……あの日の飴のお返しに、どうぞ」
「おやまあ。今夜の晩ごはんはごちそうだねえ。……律儀な子だ。アメリーにそっくりだよ」
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「祖母を……ご存じなんですか?」
「知ってるも何も。あの日のあんたの顔が、アメリーの若い頃とそっくりだったからね。もしやとは思ってたんだよ。そしたら後日になってアメリーの店をあんたが開けたって聞いて、ああやっぱり、ってさ」
だったら教えてくれればよかったのに――と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。
「なんで黙ってたんだ、って言いたそうな顔だね」
……一瞬で見抜かれてしまった。
ユスティーヌさんは飴の鍋の火を少し落として、ゆっくりと言った。
「アメリーの孫が、せっかく新しい一歩を踏み出したんだ。こんなばあさんが出て行って、古い毒の話を掘り返しちゃいかんだろうと思ってね。巻き込みたくなかったんだよ……あの毒には、誰もね」
どこか含みのある言い方。それに、古い毒とはいったい――。
私が訊き返す前に、ジェラルド様が静かに切り出した。
「ユスティーヌ殿。今回はまさに、その古い毒とやらの話を伺いに来ました。あなたは今から二十年前、その毒で倒れて――そして、目覚めた。違いますか?」
「なんだ、やっぱりそっちの話だったかい」
ユスティーヌさんは飴の鍋をちらりと見て、火の加減をもう一度直した。話を逸らすため――ではなく、話を整理するために手を動かしていたいのだろうという意思が、その手つきから伝わってくる。
「……実はね、よく覚えてないんだよ。騎士様には悪いけど、本当にね。あの頃の記憶はもう、霞の向こうに隠れてしまったのさ」
「構いません。たとえ記憶の断片であろうと、どんな些細なことでも結構です」
「……思い出せるのは、音と匂いくらいかねえ」
飴の甘い匂いの中で、その声だけが少し遠くなった。
「倒れる直前に鈴みたいな音が聞こえてね。きれいな音だったよ。いや……あれは鈴というより――硝子を細いスプーンで叩くみたいな……リン、って感じの音だった気がする。そして、何か甘い匂いがしたね。けど、砂糖じゃないよ。あれは……そう、花の蜜を焦がしたような匂いだった。飴屋を長年やってるあたしが言うんだから、間違いないさ」
ジェラルド様の、帳面のページを押さえていた指に、一度だけ力がこもった。
砂糖菓子ではなく、花の蜜。これまでの調査では得られなかった重要な証言に、並々ならぬ感情を抱いている――そんな風に、私には見えた。
「現存する二十年前の記録に、今のあなたの証言はどこにも記されていない。それどころか、生還した者の名簿もページごと失われている――まるで何者かが、あなたの存在そのものを消してしまったかのように」
「そうかい。……確かに当時は、誰も話を訊きに来なかったねえ。役人さんたちは流行り病だと言って、それきりだった」
私は、思わず口を挟んでしまった。
「その音と匂いは、結局なんだったんですか?」
「知らないよ。気がついたらベッドの上にいてさ。あのときは体から魂が抜けたみたいになっていたっけ……ああ、そうだ。ひとつだけ、はっきり覚えてることがあったよ」
ユスティーヌさんは、煮えた飴を木べらで掬って、艶を確かめながら言った。
「目が覚めて、一番初めに欲しくなったのが、飴だったんだよ。何ヶ月ものあいだ、口の中がずうっと空っぽだったからかねえ。そのあとで、あたしは決めたんだ。生きてるうちは甘いものを売って生きよう、あたしと同じような抜け殻みたいな顔をしてる子がいたら、何も言わずにひと粒握らせてやろう、ってね」
あの日もらった飴の意味が、私の中でガラッと変わった。
あれは、通りすがりの気まぐれによる人助けではなかったのだ。空っぽの時間から生きて帰ってきた人が見つけた、「生きている」ことを実感できる味だったのだ。
私は目の奥が熱くなって、慌てて白湯を飲み干した。
◇◇◇
帰り際、ユスティーヌさんは戸口で私の手のひらに飴をひとつ載せた。あの日と同じ、琥珀色をした飴だった。
「ねえ、アメリーの孫の嬢ちゃん」
皺だらけの手が、飴ごと私の手をゆっくりと包み込んだ。
「アメリーは言ってたよ。『この毒は、まだ終わっちゃいない』って。……あんたが帰ってきて、あの店をもう一度開けたのは、そういう巡り合わせなのかもしれないねえ」
路地を吹き抜ける風が、急に冷たくなった気がした。
口の中に含んだ飴は、舌の上でゆっくりと溶けていく。
真心のこもった味は、あの日のままだった。
けれど、その味の奥には、祖母が残した言葉が、ほろ苦く沈んでいた。




