第30話 看板の重さ
――アメリーも、そうやって多くの味方に支えられながら、店を続けていたよ。
ドマールが去り際に残した言葉が、寝床に入ってからも耳から離れないでいる。
あれはどう考えてもうちの店のことをよく知っている人の言葉だ。店を訪れたことがあるのか、もしくは、祖母のことをよく知る人物なのか……。
おばあちゃん――あの人とはいったい、どんな関係だったの?
考えても答えなど出るはずもなく、気がつけば、朝が来ていた。
私は今日も竈に火を入れ、骨を煮込み始めた。
◇◇◇
開店してすぐ、ギルドの使いの人が書面を置いていった。
店じゅうのお客さんたちが、お椀を持つ手を一斉に止める。
私は封を切り、常連さんたちの前で声に出して読み上げた。
「――査察の結果を通知する。是正勧告、なし。以後、継続監視とする……だ、そうですよ」
わっ――と店内で歓声が上がりかけたが、私はすかさずお玉を掲げてそれを制した。
「駄目ですよ、あんまり騒ぎすぎちゃ。常連さん以外のお客さんもいるんですからね。いつもどおり煮込みを食べて、いつもどおりくつろいでいってください」
「嬢ちゃんはそういうとこが固いんだよなあ!」
ガストンさんは文句を言いながら、ちゃんといつもどおり二杯目の煮込みを頼んでくれた。
そう、これでいいんだ。監視が継続するというのであれば、いつどこで見られてもいいようにこれまでどおり仕事をこなしていくまでだ。
――とはいえ、やはり昨日の査察で目立ち過ぎた影響か、さすがに客足はいつもどおりとはいかなかった。
昼時になると、店内がいっぱいになってなお私のことをひと目見ようと押し寄せてくる新顔までいて、「あんたが薬事ギルドを言い負かしたっていう食堂の店主かい」なんてことを訊いてきた。
「いいえ。私はただ店主として、ありのままの食堂をお見せしたに過ぎませんよ」
その新顔さんは私の答えを聞いて食堂に興味を持ってくれたようで、ちゃんと煮込みを注文してくれた。そして満足そうにお椀を空にして、明日も来ると言って帰っていった。
そうやっていつも以上にいろんなお客さんがやってきて忙しい時間が続く中、今度はブノワさんも来店してきた。その手には新調した飴色の酒瓶が抱えられており、酒瓶の栓には飾り紐が巻いてある。
「祝いだ。うちの新しい器で注ぐ、最初の一本を持ってきた」
「まあ。こんなに立派な祝いのお酒をいただくのは、うちの店が始まって以来です。ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだろうが。……ちなみに鉛は入ってねえから安心してくれ」
言ってから、ブノワさんは自分で笑った。あの酒瓶の騒動を笑い話にできるようになったのなら、何よりだ。
「ピノ、このお酒も帳簿につけておいて」
「もう書いたぜ。――頂き物、酒一本。『よろけ燕』より――ってな」
蜂蜜壺の一件以来、ピノは頂き物があると誰よりも早く帳簿につけるようになっていた。
ブノワさんはその後、希望のあったお客さんに対して、新しい酒瓶からお酒を注いでまわっていた。
◇◇◇
昼下がり、マルタさんが焼きたてのパンと一緒に、ある噂話を持ってきた。
「丘の上じゃ、『食堂が薬事ギルドを押しのけた』って話題で持ち切りみたいだよ」
「押しのけたって……別に勝負したわけではないんですけどね」
「世間はそういう勝った負けたの話が好きなのさ。ああそれと、公爵家の話もまた耳にしたよ。荷が止まったあおりで、人を減らし始めたんだってさ。今度は厨房の下働きまで暇を出したって話だよ」
――胸の奥が、少しだけ痛んだ。
といっても、公爵家に同情しているのではない。ただ、あの家の厨房がどれだけ広いかを知っているだけに、そこで残って今も働いている人のことが、少し気の毒になったに過ぎない。
「マルタさん。……私の祖母が、ギルドと揉めたことってありましたか?」
マルタさんのパンを並べる手が、少しだけ止まった。
「――あったよ。あんたが来るずっと前さ。あたしも今の店に嫁いで間もない頃だから、詳しくは知らないけどね。まあ、その後も店は続いてたんだから、あんたと同じようにちゃんとギルドを追い返せたんだろうね」
「……そうですか」
「なんだい突然、そんなこと訊いて」
「いえ……ただ、店の看板って、思ったより重たいんだなと思って」
マルタさんは私の言葉を聞いておかしそうに笑ってから、パンをひとつ多く置いていった。
◇◇◇
日が落ちて常連さんたちが帰った頃、いつもの席にいつもの人が座った。
「遅くなった。今日はいつもより書類が多くてな」
「どうぞ、いつもの煮込みです。お仕事お疲れさまです」
今日の煮込みは牛の脛肉だ。朝から煮込んであるので、肉はスプーンでも簡単に切れるほど柔らかくなっている。骨の髄の出汁に香草をひと束、仕上げに酢をほんの数滴。
湯気の立つお椀をテーブルに置くと、ジェラルド様は最初のひと匙を口に運んで、わずかに眉を上げた。
「……いつもより、うまい気がする」
「あら、作り方は変えていないはずですけど」
「……なら、俺の方に原因があるということか」
「だんな、今日はいつもより機嫌がいいみたいじゃん。だからいつもよりうまく感じるんじゃないの?」
布巾を片手に持ったピノが、そう断言した。
ジェラルド様は、その言葉を特に否定しようとはせず、再び煮込みを口に運び始めた。
おそらく、ピノの言うとおりなのだろう。本当に私は作り方を変えてはいないので、いつもよりおいしいと言うのであれば、それは料理のほうではなく、食べる側にいつもと違う「何か」があるということだ。
ジェラルド様はそのまま煮込みを完食すると、間髪入れずに鞄から書類の束を取り出した。以前見せてもらった古い記録簿を書き写したもの――二十年前、王都で起きた原因不明の昏倒事件の記録の写しだ。
ジェラルド様の手が、そのページをめくりかけて、一瞬だけ止まる。
そして直後、何事もなかったかのように口を開いた。
「あれから進展があった。――最後のひとりのことだ」
私は思わず、手にしていたお椀を、音を立てて置いてしまった。
「消息がわからなくなっていたという、市場の近くに住んでいた女性のことですか?」
「ああ。古い貸家の記録から、名前がわかった。何度か住まいは変えているが、この辺りを離れてはいない。……橙通りの、すぐ近くだ」
――二十年前の事件を生き延びた人が、このすぐ近くで、ずっと暮らしていた……ですって?
「明日、その女性に会いに行くつもりだ」
ジェラルド様は書類を鞄に戻して、まっすぐに私を見た。
「――同行を頼めるか? 二十年も昔のことを、対策室の紋をつけた男がいきなり訪ねていけば、警戒されるに違いない。今、下町で評判の食堂の店主が隣にいれば、きっと警戒も解いてくれるだろう」
私はエプロンの紐を解いて、もう一度きちんと結び直した。
返事をするより先に、自然と笑みが浮かんでくる。
「ええ――『毒消しの食堂』に、お任せください」




